第十五章:嵐の前の静けさ

 リヒトハーフェン領の書斎は、かつてないほどの緊張感に包まれていた。

 テーブルの中央には、国王からの召喚状が、まるで宣告書のように、静かに置かれている。

「…罠だ」

 父ダリウスが、低い声で唸った。「誰がどう見ても、罠だ。エリザベート、この命令には、応じる必要はない」

「お父様の仰る通りです、エリザベート様!」

 レオンハルトも、血相を変えて進言する。「敵の土俵に、自ら上がるなど、愚の骨頂です!」


 しかし、エリザベートは、静かに首を横に振った。

「ここで私が逃げれば、どうなる?『海鮮男爵は、自らの料理に自信が持てず、王命に背いて逃亡した』。クラウディアは、そう噂を流すでしょう。アルフレッドは、『やはり、彼女は罪から逃げる卑怯者だ』と、民衆を煽る。私たちのブランドは、地に落ちる。戦わずして、負けることになるのよ」

 彼女は、振り返ると、二人の目を、まっすぐに見据えた。

「これは、ただの晩餐会ではないわ。これは、裁判よ。そして、裁判で無罪を勝ち取るためには、法廷に立ち、完璧な証拠を突きつけるしかない」

 彼女の瞳には、もはや、恐怖も、迷いもなかった。

「レオンハルト。セバスチャン。これより、収穫祭に向けた、危機管理計画の最終フェーズに移行します」


 それからの数日間、リヒトハーフェン邸は、巨大な要塞のように、機能し始めた。

 エリザベートは、来るべき陰謀を完全に予測し、その全てを逆手に取るための、完璧な迎撃システムを構築していく。

 全ての食材に、生産者と時間を記録したロット番号を付与。調理工程の全てを、複数の人間で相互監視する体制。そして、万が一の事態が発生した場合の、各人の役割と、行動手順を記した、分厚いマニュアル。

 それは、もはや料理の準備ではなかった。精密な、軍事作戦そのものだった。


 そして、夜。エリザベートは、消耗しきった身体に鞭打ち、王都へと跳んだ。

 イザベラと、マルタンに、最後の協力を要請するために。

「――イザベラ様。お願いがあります。収穫祭の当日、あなたの目で、クラウディアとその取り巻きの、一挙手一投足を、監視していただきたいのです」

「もちろんよ。私の未来も、あなたに賭けているのだから」

「マルタン。あなたには、王宮の厨房に臨時で雇われた給仕、全員のリストと、その金の流れを、徹底的に洗ってもらいたい」

「承知いたしました、閣下。我が商会の、全てを賭けて」


 収穫祭、前日。全ての準備が、整った。

 エリザベートは、久しぶりに、『青の工房』へと、足を運んだ。

「エリザベート様…!」

 彼女の姿を見つけたティーナが、駆け寄ってきた。その手には、白木の、小さな魚の彫り物が握られている。不格好だが、温かみのある、手作りの護符だった。

「あの…これ。私と、みんなで作りました。明日、頑張ってくださいって…!私たち、ここで、みんなで、エリザベート様の成功を、祈っていますから!」

 その、あまりにも、まっすぐな、純粋な想い。

 エリザベートは、その小さな護符を、胸が詰まる思いで、受け取った。

(――そうよ。私が戦うのは、この子たちの、この笑顔を守るため)


 そして、運命の当日。

 王宮の庭園に到着したエリザベートは、感じた。

 庭園の向こう側、取り巻きに囲まれたクラウディアからの、捕食者のような、冷たい視線。

 そして、群衆の中に紛れた、何者かの、怨念に満ちた、暗い視線。

 舞台は、整った。全ての役者が、盤上に揃った。

 エリザベートは、空の青さを映すように、どこまでも澄んだ瞳で、その全てを受け止めた。


(さあ、始めましょう)

 彼女は、胸の中で、静かに呟いた。

(――幕を、開けて。これが、あなたのための悲劇になるか、それとも、私のための喜劇になるのか。見届けてちょうだい、クラウディア)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る