第十章:市場への浸透と、公爵令嬢の覚悟

『青の工房』が最初のコンテナを完成させてから、一月。

 王都の市場は、再び、そして今度は、決定的に、リヒトハーフェン領の青と白の紋章に席巻されていた。


「見たまえ!今週も、リヒトハーフェンの荷馬車が寸分の狂いもなく到着したぞ!」

 マルタン商会の前には、朝から人だかりができていた。

 以前のような、いつ手に入るか分からない希少品を求める狂騒ではない。誰もが、その安定した供給体制と、揺るぎない品質に、絶対的な信頼を寄せ始めていた。

「エリザベート様は、あのヘルナー商会の妨害を、たった一月で、自領の力だけで乗り越えてみせたと…」

「それどころか、品質は以前よりも上がっているというではないか!」

「聞けば、その工房では、スラムの孤児たちが、生き生きと働いているそうだ…」

 噂は、新たな伝説を生み、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンという名は、もはや単なる流行の寵児ではなく、不屈の精神と、慈愛の心をも併せ持った、稀代の指導者として、人々の心に刻まれつつあった。


 その影響は、保守的だった大貴族たちの間にも、確実に浸透していた。

 かつて「焼き魚」を侮っていたオルデンブルク侯爵は、今や、毎週開く自身のサロンで、「海鮮御膳」の素晴らしさを説いて回る、最も熱心な伝道師となっていた。

「君は、まだなのかね?『海鮮男爵』の御膳を食さずして、アステル王国の美食を語ることなかれ、だぞ!」

 エリザベートのあずかり知ぬところで、彼女のブランドは、王国中に、確かな根を張り始めていた。


 しかし、その眩い光は、ある場所には、許しがたい影として映っていた。

 王弟であるアークライト公爵の、壮麗な書斎。

「――イザベラ。いい加減にしてもらいたい」

 父である公爵の、静かだが、鋼のような硬質さを帯びた声が、部屋の空気を凍てつかせた。

「お前が、リヒトハーフェンの娘と親しくしているという噂は、私の耳にも届いている。もう、遊びは終わりだ。手を引きなさい」

「遊びなどではございません、お父様。エリザベートは、この国に、新しい風を吹き込もうとしております。それは、決して悪いことでは…」

「愚かな!」

 公爵は、娘の言葉を、厳しく遮った。

「彼女のやり方は、あまりにも急進的すぎる!伝統ギルドとの軋轢も生んでいると聞く。何より、ヘルナー商会を、完全に敵に回した。我がアークライト公爵家は、王家の血を引き、この国の安寧と秩序を守る立場にあるのだ。そのような、波風を立てるだけの娘と、これ以上、関わることは許さん」


 それは、命令だった。公爵令嬢として、イザベラが、決して逆らうことのできない、絶対の。

 彼女の脳裏に、あの夜の、エリザベートの姿が蘇る。

 安宿の一室で、たった一人、不安に震えていた、あの気高い少女の横顔。

 そして、王城の舞台の上で、世界を敵に回して、自らの信念を叫んだ、あの輝くような笑顔。

(――あの光を、私まで、見捨てるというの…?)

 それは、友情か、憐憫か、あるいは――。

 イザベラは、まだ、自分の胸を締め付ける、この感情の正体を知らなかった。だが、一つだけ、確かなことがあった。

 ここで、父の命令に従い、エリザベートから手を引くことは、自分自身の魂を、裏切ることに等しい、と。


 イザベラは、顔を上げた。その瞳には、もはや、迷いはなかった。

「…お断りいたします、お父様」

「…なんと?」

「私は、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンの道を、信じます。彼女こそが、この国を、より良い場所へと導いてくれると、私は、信じます」

 彼女は、震える手で、胸に飾っていた公爵家の紋章のブローチを、そっと外した。

「ですから、お父様。一つ、賭けをいたしましょう」

 その声は、静かだったが、彼女の人生の全てを賭けた、覚悟の重さに満ちていた。


「もし、エリザベートが、その事業に失敗し、この国に、領民に、害をなしたと、誰の目にも明らかになったならば。その時は、私は、この公爵令嬢という身分も、名前も、全てを捨て、聖女アルマの修道院に入り、一生を、神への祈りと贖罪に捧げることを、ここにお誓いいたします」

「イザベラ…!」

「ですが、それまでは。彼女が、自らの信じる道を歩み続ける限り、私は、友人として、彼女の隣に立ち続けることを、お許しください」


 父である公爵は、言葉を失った。

 目の前にいるのは、もはや、自分の庇護下にある、ただの娘ではなかった。

 自らの人生の全てを賭けて、信念を貫こうとする、一人の、自立した人間だった。

 彼は、深く、長い、ため息をつくと、力なく、首を縦に振るしかなかった。


 その頃、リヒトハーフェン領。

 エリザベートは、壁に貼られた王国全土の地図を、腕を組んで見つめていた。

 地図の上には、王都を中心に、いくつもの都市に、赤い印が付けられている。「海鮮御膳」を求める、声の印だ。

『青の工房』の成功により、供給網は安定した。しかし、それは、あくまで、この領地内での話。王国全体の、爆発的な需要に、一つの工房だけで応えるのは、物理的に不可能だ。


(どうする?各地に、第二、第三の工房を建設する?いや、それでは、時間がかかりすぎる。コストも、人材も、足りない…)

 彼女は、自らが創り上げた、『青の工房』のビジネスモデルを、改めて見つめ直した。

 安定した品質の、独占的なコア部品(魔法の魚介とコンテナ)。

 標準化された、誰でも習得可能なオペレーション(レシピと訓練マニュアル)。

 そして、「海鮮男爵」という、絶対的なブランド。

(…待って。この仕組み、この『パッケージ』そのものを、商品にすれば…?)


 長谷川梓の脳裏で、前世の、あるビジネスモデルが、鮮やかに蘇る。

 コンビニエンスストア。ハンバーガーショップ。個人が、大企業と同じ看板を掲げ、同じ商品を売る、あのシステム。

 エリザベートの目に、再び、獰猛なまでの光が宿った。


「レオンハルト!」

 彼女は、隣室で報告書をまとめていた、忠実な部下を呼びつけた。

 そして、地図の一点を、力強く指し示す。

「私たちは、これ以上、自分たちで店を増やすのはやめるわ」

「は?では、これらの注文は、どうなさるのですか?」

「いいえ。店は、増やすのよ。ただし、私たちの手で、ではない」

 エリザベートは、新しい羊皮紙の上に、一つの図を描き始めた。中央のハブ(リヒトハーフェン)から、放射状に、いくつもの線が伸びていく、未来の帝国の設計図を。


「私たちは、『海鮮御膳を経営する権利』そのものを、売るのよ。――フランチャイズという名でね」

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