幕間:スラムの灯と、泥だらけのスープ
リヒトハーフェン領の港湾地区のさらに外れ、汚水と湿った泥の臭いが立ち込めるスラム街に、夜が訪れていた。 ここには、夜を照らす魔導ランプなどない。あるのは、腐った板切れの隙間から吹き込む冷たい海風と、どこかから聞こえてくる、飢えた犬のような乾いた咳の音だけだ。
七歳になるマルコは、薄い毛布にくるまりながら、空腹できりきりと痛む腹を押さえていた。 痛い。お腹が空くというのは、単に何かが足りないということではない。胃袋の中に目に見えない獣がいて、内側から肉を噛みちぎろうとするような、暴力的な痛みだ。 隣で寝息を立てているはずの姉、ティーナが、今夜はまだ帰ってこない。
(姉ちゃん、大丈夫かな……)
数日前、ティーナは「仕事に行ってくる」と言って出て行った。 仕事といっても、このスラムの子供にまともな職などあるはずがない。運が良ければ荷運びの手伝いで日銭を稼げるが、運が悪ければ、怖い大人たちに連れて行かれて、二度と戻ってこないこともある。 それに、今回の「仕事」の相手は、あの悪名高い領主の娘、エリザベートお嬢様だという噂だった。気に入らないことがあると、使用人を鞭で打つとか、平民を虫けらのように踏みつけるとか、そんな恐ろしい噂ばかりが聞こえてくる「悪役令嬢」だ。
もし、姉ちゃんが何か粗相をして、手打ちにされていたら。 悪い想像ばかりが頭を巡り、マルコの腹の痛みをさらに強くする。
その時だった。 ギィ、と錆びついた蝶番が鳴り、掘っ立て小屋の扉が開いた。
「……ただいま、マルコ。起きてる?」
聞き慣れた、けれど、いつもより少しだけ弾んだ声。 マルコは跳ね起きた。 「姉ちゃん!?」 暗がりの中に、ティーナが立っていた。 彼女の服は、泥と、何か不思議な薬品の臭いで汚れていた。顔にも煤がついている。けれど、その瞳は、マルコが見たこともないほど、らんらんと輝いていた。
「ごめんね、遅くなって。でも……見て」
ティーナは、大事そうに抱えていた風呂敷包みを、ガタつく木のテーブルの上に置いた。 結び目が解かれる。 その瞬間、狭くカビ臭い小屋の中に、信じられないような香りが爆発的に広がった。 それは、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、魚介の濃厚な旨味が詰まったスープの香りだった。
「これ……」 「『青の工房』の、今日の賄(まかな)いよ。本当はその場で食べるんだけど、マルコに食べさせたくて、半分残して走って帰ってきたの」
ティーナが蓋を開けた古びた鍋の中には、黄金色に輝くスープが揺れていた。中には、見たこともないような大きな魚の切り身と、色とりどりの野菜がごろごろと入っている。 マルコの喉が、ゴクリと鳴った。 「食べていいの……?」 「もちろんよ。さあ、冷めないうちに」
マルコは、震える手でスプーンを握り、その黄金色の液体を口に運んだ。 ――熱い。そして、美味い。 舌が火傷しそうなほどの熱さと共に、濃厚な魚の脂と野菜の甘みが、乾ききった身体の隅々にまで染み渡っていく。 胃袋の中の獣が、優しい光に撫でられて、満足げに大人しくなっていくようだ。
「……おいしい……おいしいよ、姉ちゃん……」
一口食べるごとに、涙が溢れてきた。 腐った野菜屑や、硬い黒パンの欠片じゃない。これは、人間が食べる「料理」だ。 マルコが夢中でスープを啜る姿を、ティーナは愛おしそうに見つめていた。その手は、自分の空腹など忘れたかのように、優しくマルコの背中をさすっている。
「それにね、マルコ。これだけじゃないの」
ティーナは、ポケットから、一枚の硬貨を取り出した。 ランプの明かりはないけれど、月明かりを受けて鈍く光るそれは、紛れもなく「銀貨」だった。 スラムの住人が、一生かかっても手にできるかどうかわからない大金だ。
「盗んだの……?」 マルコの手が止まる。もしそうなら、姉ちゃんは殺されてしまう。 だが、ティーナは力強く首を横に振った。
「違うわ。いただいたの。……お給金として」 「おきゅうきん?」 「そう。私が働いた分の、対価よ」
ティーナは、その銀貨を、宝物のように胸に抱いた。 「今日ね、私が考えた魔方陣の描き方を、あの方が……エリザベート様が、認めてくださったの。『やりなさい』って、私の目を見て、信じてくださったのよ」
彼女は、興奮気味に語り始めた。 エリザベートお嬢様が、自分たちと同じ泥だらけの床に立ち、失敗作の得体の知れない煮込み(どうやらこの美味しいスープの試作品らしい)を、顔をしかめながら自ら食べたこと。 失敗しても怒鳴るのではなく、「なぜ失敗したか」を一緒に考えてくれたこと。 そして、成功した瞬間、貴族である彼女が、誰よりも嬉しそうに微笑んだこと。
「あの方は、悪魔なんかじゃないわ。……魔法使いよ」
ティーナは、窓の隙間から、遠くの丘を見上げた。 そこには、これまで真っ暗だった古い倉庫街に、青白い魔導の光が灯っているのが見えた。今も夜通し稼働している『青の工房』の明かりだ。
「あそこに行けば、仕事があるの。明日のパンを心配しなくていい未来があるの。エリザベート様は、私たちに『恵んで』くれたんじゃない。……『生きる場所』を、創ってくれたのよ」
マルコは、姉の言葉のすべてを理解できたわけではない。 けれど、温かいスープでお腹が満たされた今、はっきりと分かることがあった。 いつもなら、寒さと恐怖に震えながら待つだけの夜が、今日は怖くない。 遠くに見えるあの青い光が、まるで灯台のように、自分たちの明日を照らしてくれている気がしたからだ。
「……僕も、大きくなったら、あそこで働けるかな」 「ええ、きっとよ。エリザベート様なら、きっとマルコのことも必要としてくださるわ」
姉弟は、寄り添うようにして眠りについた。 その寝顔は、このスラムで暮らして以来、初めて浮かべた、安らかなものだった。 エリザベートが執務室で格闘している「数字」の向こう側には、確かに、こうした名もなき命の温もりが、灯り始めていたのである。
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