第九章:ドッグフーディング

『当主代行エリザベート直轄工房 "青の工房"』。

 その、あまりにも大仰な名前とは裏腹に、その船出は、泥と、埃と、そして、深い不信感の中から始まった。

 工房と定められた古いレンガ造りの倉庫には、まず、領都のスラム地区にある孤児院から、もうすぐ施設を出なければならない、年嵩の少年少女たちが十数名、集められた。

 彼らの瞳に宿るのは、希望ではない。貴族の気まぐれに対する、深く染みついた不信と、明日をも知れぬ生活から来る、老成したような諦観の色だった。


「――あなたたちに、仕事と、未来をあげます」

 埃っぽい倉庫に、エリザベートの凛とした声が響く。

「食べるための仕事じゃない。自分の手で、この国の誰も見たことのないものを創り出す、誇り高い仕事よ。もちろん、楽じゃないわ。厳しい訓練が待っている。でも、やり遂げた者には、相応の報酬と、誰からも奪われることのない『技術』という、一生ものの財産を約束する」


 その言葉に、子供たちはすぐには反応しなかった。

 しかし、エリザベートは、彼ら一人一人の目を、まるでその魂を覗き込むように、まっすぐに見つめた。そこには、同情も、憐れみもなかった。ただ、一人のビジネスパートナーとして、彼らの持つ「可能性」という資産に対する、真剣な期待だけがあった。

 やがて、一人の少年が、おずおずと手を上げた。それが、最初の意思表示だった。


 工房での訓練は、混乱の極みだった。

 教師役を務めるのは、ヘルナー商会の誘いを蹴って領地に残った、数少ない老魔術師と、頑固者の魔導具職人。だが、彼らも、素人に教えることには慣れていない。

「違う、そうではない!何度言ったら分かるのだ!」

「ああ、まただ!貴重な魔石が、ただの石ころになったではないか!」

 怒号が飛び、子供たちは萎縮し、失敗を繰り返す。高価な材料だけが、みるみるうちに減っていく。レオンハルトは、日に日に増えていく赤字の報告書を前に、頭を抱えていた。


 工房の設立から、一月が経った頃。

 最初の壁が、彼らの前に立ちはだかった。鮮度保持の付与魔術。その要となる、特殊なハーブを練り込んだ保存液の開発だった。

 試作品の入った小瓶を前に、老魔術師が首を振る。

「…ダメですな。どうも、配合のバランスが…。これでは、とても王都まで鮮度を保てるとは思えません」

 その言葉に、子供たちの顔に失望の色が広がる。

 エリザベートは、その小瓶を手に取ると、ためらうことなく、指先に数滴垂らし、ぺろりと舐めた。

「エリザベート様!?」

 レオンハルトが、悲鳴に近い声を上げる。

「何をなさるのですか! まだ安全性の確立されていないものを…!」


「――ドッグフーディング、と言うのよ」

 エリザベートは、口の中に広がる、えぐみと、わずかな腐臭に眉をひそめながら、静かに言った。

 困惑する周囲に、彼女の前世の記憶が、鮮やかに蘇る。

 ペットフードメーカーの商品企画部。会議室にずらりと並べられた、開発中のキャットフードの試作品の数々。

「うげぇ、これを食べるんですか…?」と顔をしかめる新人の前で、当時の彼女――長谷川梓は、眉一つ動かさずに、全ての試作品をスプーンで口に運んでいた。


(味や食感だけじゃない。塩分濃度、脂質のバランス、後味の残り方…。人間の舌は、犬や猫のそれよりも遥かに敏感だ。私たちが違和感を覚えるものを、あの子たちが喜んで食べてくれるはずがないじゃない)


「自分が作る商品を、自分が一番理解していなくてどうするの」

 エリザベートは、目の前の老魔術師と、そして不安げな顔をした子供たちに、かつて自分自身が言い聞かせていた言葉をそのまま告げた。

「これが、商品開発の基本よ。どこがどうダメなのか、自分の舌と鼻で確かめなくては、改善のしようがないわ。これは、失敗作じゃない。貴重な『データ』よ」

 その、あまりにも真剣な、プロフェッショナルとしての覚悟。その場にいた誰もが、言葉を失った。この若き主君は、本気だ。自分たちと共に、泥にまみれる覚悟ができている。

 その日から、工房の空気が、確かに変わった。


 そして、運命の日が訪れる。

 氷魔法の魔方陣を、コンテナに刻む最終工程。熟練の職人でも、三日に一つしか作れない、最も繊細な作業だ。その日も、何度目かの失敗で、高価な金属板が無駄になった。

 誰もが諦めかけた、その時。エリザベートは、工房の隅で、誰よりも熱心に、失敗作の魔方陣の文様を模写し続けていた、一人の少女に気づいた。ティーナ。孤児院の中でも、最も気弱で、声の小さな少女だった。


(…任せるのよ、エリザベート)

 長谷川梓の亡霊が、頭の中で警鐘を鳴らす。

『やめろ。子供だぞ。最後の貴重な材料まで、無駄にする気か。お前がやった方が、確実だ。誰も信じるな』

 その声に、エリザベートの手が、震えた。

(――違う!)

 彼女は、その亡霊を、振り払った。

「ティーナ。あなた、何か気づいたことがあるのね。聞かせて」

「…あ、あの…」

 ティーナは、震える声で、しかし、その瞳には、確かな探求の光を宿して、呟いた。

「…教科書には、外側から内側へって書いてあるけど、それだと、最後に魔力を注ぐ時に、どうしても中央の力が弱くなる気がして…。だから、逆に、力の集まる中央から描いていけば、魔力が全体に、均等に行き渡るんじゃ…ないかなって…」

「馬鹿を言え! 魔方陣は、決められた順序で描くのが鉄則だ!」

 職人が一喝する。しかし、エリザベートは、その小さな声を、聞き逃さなかった。

「――やりなさい、ティーナ」

 彼女は、決断した。

「新しい金属板を。彼女に、やらせてあげて」


 ティーナは、震える手で魔導ペンを握りしめ、皆が見守る中、彼女が考えた、全く新しい手順で、魔方陣を刻み始めた。

 そして、最後の線が結ばれ、エリザベートが魔力を注ぎ込んだ、その瞬間。


 ――キィン、と。

 工房の空気が、澄んだ音を立てて震えた。

 コンテナに刻まれた魔方陣が、淡い、しかし、どこまでも力強い青色の光を放ち、その表面に、うっすらと、美しい霜の結晶が、花のように咲いたのだ。


「…成功、だ…」

 誰かが、かすれた声で呟いた。

 次の瞬間、工房は、割れんばかりの歓声に包まれた。子供たちは、抱き合って、泣きながら、その奇跡的な成功を喜んだ。


 エリザベートは、その光景を、工房の入り口から静かに見守っていた。

 その胸に、今まで感じたことのない、温かいものが込み上げてくる。

 それは、事業の成功とは、また別の、もっと深く、そして、尊い感情だった。


(見たか、梓(わたし)。私は、信じた。そして、彼女は、応えてくれた)


 エリザベートは、そっと、目頭を押さえた。

(私たちは、もう、一人じゃない)

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