第八章:絶望の淵、希望の灯

 夜の闇が、書斎を支配していた。

 魔導ランプは、とうの昔にその光を失い、窓から差し込む、冷たい月明かりだけが、床に崩れ落ちた小さな影を、ぼんやりと映し出している。

 エリザベートは、震える腕で、自分の身体を抱きしめていた。

 耳の奥で、長谷川梓の亡霊が、嘲笑うように囁き続けていた。


『ほら、見たことか。お前が何かを成し遂げようとすると、必ずこうなる』

『誰も理解しない。誰も助けない。お前は、いつだって一人だ』

『お前が信じたものは、全て、砂の城のように崩れ落ちる』

『もう、やめろ。諦めろ。楽になれ』


 その声は、かつての上司の怒声となり、同僚たちの冷笑となり、そして、誰にも看取られず、独り、病院のベッドで息絶えた、あの日の絶望的な孤独感となって、彼女の心を苛む。

 そうだ。自分は、いつだって、そうだった。

 何をしても、誰にも認められず、最後には、全てを失う。

「…もう、いや…」

 か細い声が、誰にも届かず、闇に溶けて消えた。

 彼女の瞳から、熱い雫が、とめどなく、溢れ出した。


 コン、コン。

 その時、静寂を破って、控えめなノックの音が響いた。

 返事はない。しかし、扉は、軋むような音を立てて、静かに開かれた。

 月明かりの逆光の中に、銀盆を手に、一人の老人が立っている。セバスチャンだった。

「…一人にして、と言ったはずよ」

 エリザベートは、顔も上げずに、か細い声で言った。

 セバスチャンは、何も答えなかった。ただ、静かな足取りで部屋に入ると、エリザベートの傍らの床に、そっと膝をついた。そして、銀盆に乗せた、湯気の立つスープボウルを、彼女の前に差し出した。


「お嬢様。夜が冷えます。何か、温かいものを」

「…いらないわ。食欲なんて、ない」

「左様でございますか」

 セバスチャンは、そう言うと、しかし、スープを下げようとはしなかった。ただ、静かに、そこに座り続けている。その沈黙が、エリザベートには、どんな慰めの言葉よりも、重く感じられた。

 やがて、老執事は、遠い昔を懐かしむように、ぽつりと呟いた。


「…お嬢様が、まだ五つだった頃。初めて仔馬に乗られて、落馬なさった日のことを、覚えておいででしょうか」

「……」

「お嬢様は、今宵のように、一日中泣いておられましたな。『もう、お馬さんなんて大嫌い。二度と乗らない』と」

 その声は、ただ、穏やかだった。

「ですが、次の日の朝。厩舎(きゅうしゃ)に一番乗りで現れたのは、誰よりも早く、お嬢様、あなた様でございました。涙の痕で、目を真っ赤に腫らしながらも、震える足で、再び、あの仔馬の背に跨っておられた」

 セバスチャンは、そこで、言葉を切った。そして、ただ、静かに、エリザベートを見つめた。

「…わたくしは、あなた様の、そういうお方を、存じております」


 彼は、ゆっくりと立ち上がると、スープボウルを床に置き、深く一礼した。

「わたくしには、お嬢様がお悩みの『びじねす』とやらは、分かりません。ですが、一つだけ、分かることがございます」

 彼は、扉の前で振り返り、絶対的な信頼を込めて言った。

「――あなた様は、決して、このままでは終わらないお方だ、と」

 扉が、静かに閉められる。

 部屋には、再び、エリザベートと、沈黙だけが残された。


 彼女は、床に置かれたスープボウルに、視線を落とした。

 立ち上る湯気と共に、ふわりと、優しい野菜の香りが、鼻腔をくすぐる。それは、幼い頃、熱を出した日に、いつもセバスチャンが作ってくれた、思い出の味だった。

 エリザベートは、震える手で、そのボウルを手に取った。そして、一口、その温かい液体を、口に含む。

 滋味深い、優しい味が、凍りついた身体の芯から、ゆっくりと、溶かしていくようだった。

(――そうか。私は、また、忘れていたのか)

 長谷川梓として生きていた時、自分には、いなかったもの。

 結果や、利益や、効率を抜きにして、ただ、自分という人間そのものを、信じてくれる存在。


(金で買えるものは、いずれ金で奪われる。スキルも、契約も、人の心すらも)

(ならば――)


 彼女は、スープを、一滴残らず飲み干した。

 そして、ゆっくりと、立ち上がる。

 その瞳には、もう涙はなかった。

 代わりに宿っていたのは、絶望の底で、たった一つの真実を見つけ出した者の、静かで、そして、鋼のような、決意の光だった。


(――ならば、金では決して買うことのでないものを、この手で、創るしかない)


 翌朝。

 辺境伯邸の会議室は、重い沈黙に支配されていた。

 父ダリウスも、レオンハルトも、他の家臣たちも、誰もが、これからどうすべきか分からず、ただ、俯いている。

 そこへ、エリザベートが、静かに入室した。

 その顔は青白く、目の周りは、泣き腫らした痕が隠しきれていない。しかし、その佇まいは、嵐の後の、凪いだ海のように、静かで、そして、揺るぎなかった。


 彼女は、テーブルの、父の隣の席――上座へと、まっすぐに歩み寄った。そして、居並ぶ家臣たちを、一人一人、見渡した。

「皆さん、顔を上げなさい」

 その声には、不思議な力が漲っていた。

「確かに、私たちは多くを失った。ですが、まだ、最も重要な資産が残っています」

「…最も、重要な資産…?」

 レオンハルトが、訝しげに問い返す。


 エリザベートは、窓の外を指さした。その遠く先にあるのは、領地の貧しい者たちが暮らす、スラム地区だった。

「――ここに住む、『人』という資産が」


 彼女は、一枚の新しい羊皮紙を、テーブルの中央に広げた。

「私たちは、もう外部の職人には頼らない。このリヒトハーフェン領で、私たち自身の手で、最高の技術者集団を育成するのです」

 その言葉に、誰もが息をのんだ。素人を、一から育てる? そんな、時間のかかる、無謀な賭けを?


「ええ、無謀かもしれません。けれど、これこそが、クラウディアの金では決して買うことのでない、私たちの本当の力になる。身分も、過去も関係ない。意欲のある者には、等しく学ぶ機会を与える。スラムに埋もれている、まだ磨かれていない原石たちを、私たちの手で輝かせるのです」


 彼女は、羊皮紙の一番上に、その新しい組織の名前を、力強く書き記した。


「――当主代行エリザベート直轄工房『青の工房(アズール・アトリエ)』。本日、ただ今をもって、設立します」


 それは、絶望の淵から生まれた、あまりにも大胆な逆転の一手。

 エリザベートの瞳には、再び、獰猛なまでの光が宿っていた。

 供給網戦争は、まだ終わってはいない。本当の戦いは、ここから始まるのだ。

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