第七章:供給網戦争

 秋の陽光が、書斎の大きな窓から、金色の帯となって差し込んでいた。

 空気は澄み渡り、遠くで響く港の喧騒や、職人たちの槌音(つちおと)すら、領地の活気を伝える心地よいBGMのように聞こえる。

 エリザベートは、ペンを置き、大きく背筋を伸ばした。

 目の前のテーブルには、王都から雪崩のように舞い込んでくる「海鮮御膳」の追加注文書が、山をなしていた。隣では、レオンハルトが、その膨大な需要を捌くための生産スケジュールの調整案と、悲鳴のような数字が並んだ資材の追加発注書を、必死の形相で作成している。

 全てが、嬉しい悲鳴だった。しかし、エリザベートの頭脳は、この熱狂の中で、冷静にボトルネックを分析していた。

(――だめね。今の生産体制では、需要の三割にも応えられない。マスター・ヘイデンへの依存度が高すぎる。彼の工房が止まれば、全てが止まる。早急に、供給網のリスク分散と、生産能力の増強計画を…)


 その、彼女の思考を読んだかのような、あまりにも完璧なタイミングで、悪夢の第一報はもたらされた。

 ドン、ドン、ドン!

 礼儀作法など、完全に無視した、切迫した響き。


「入りなさい!」

 エリザベートが、咎めるように鋭く声を放つのと、扉が勢いよく開かれるのは、ほぼ同時だった。

 息を切らして飛び込んできたのは、レオンハルトの部下として登用した、若い書記官の一人だった。

 彼の、常に完璧に整えられていたはずの髪は乱れ、その端正な顔は、紙のように白い。その手には、紋章が押された、特級伝書用の羊皮紙が、震えていた。


「も、申し上げます、レオンハルト様!エリザベート様! 一大事です!」

 上司であるレオンハルトと、主君であるエリザベートを交互に見ながら、彼はほとんど悲鳴のような声を上げた。

 レオンハルトは、すぐさま立ち上がると、その書簡をひったくるように受け取り、目を通す。そして、彼の顔もまた、同僚と同じように、血の気を失っていった。

「…馬鹿な…」

 レオンハルトは、震える手で、その羊皮紙をエリザベートへと差し出した。

「エリザベート様…。王都の魔導具ギルドから、特級伝書です…!マスター・ヘイデンが…彼が、我々との契約を、一方的に…!」


 エリザベートは、その短い文面に、視線を落とした。

 頭を、鈍器で殴られたような衝撃。耳の奥で、キーン、という、甲高い音が鳴り響く。

(――クラウディア・フォン・ヘルナー…!)

 その名に辿り着いた瞬間、エリザベートの全身を、怒りという名の、熱い電流が駆け抜けた。麻痺していた思考が、急速に覚醒する。

 これは、事故ではない。攻撃だ。


 彼女の声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして静かだった。

「…違約金は?」

「そ、それが…報告によれば、ヘルナー商会が、その違約金の三倍の額を、マスター・ヘイデンに支払ったと…。もはや、金の問題では、交渉の余地はないと…!」

 レオンハルトの声が、絶望に震える。

 圧倒的な資金力による、理不尽なまでの暴力。


 悪夢は、それだけでは終わらなかった。

 エリザベートが、すぐさまセバスチャンを呼び、領内に残る技術者たちのリストアップを命じている、まさにその時だった。第二、第三の凶報が、立て続けに書斎へと舞い込んできたのは。

 付与魔術師のグランデル師も、ソースの原料を卸してくれていた中央薬草組合も。次々と、ヘルナー商会の金色の旗の下へと、寝返っていく。

 エリザベートが築き上げたはずのビジネスモデルは、根幹から破壊され、もはや崩壊寸前だった。


 その、最悪のタイミングで、新たな来訪者が告げられた。

 伝統工芸ギルドの長老たちが、陳情に訪れたのだ。

 応接室には、リヒトハーフェン領で、何代にもわたって伝統工芸を守ってきた、ギルドの長老たちが、硬い表情で座っていた。

「エリザベートお嬢様。我々は、本日、抗議に参りました」

 ギルド長のヴァレリウスが、低い声で言った。

「お嬢様の新しいご事業、『海鮮御膳』が、王都で大変な評判だと聞いております。それは、領地にとって、誠に喜ばしいこと。…しかし、その輝かしい光の影で、我々がどうなっているか、ご存知かな?」

 その声は、静かだが、深い怒りと、悲しみに満ちていた。

「若者たちは、もはや、我々のような地道な職人の仕事に見向きもしません。誰もが、漁師になるか、厨房で働くか、王都で一攫千金を夢見るばかり。商人たちも、我々の工芸品を買い叩き、その金を、全てお嬢様の新しい事業へと注ぎ込んでおります。…このままでは、リヒトハーフェンが数百年かけて育んできた、このささやかな伝統と文化が、我々の代で、完全に途絶えてしまうのです!」


 その悲痛な訴えは、一本の槍のように、エリザベートの胸を貫いた。

(――しまった…。外部不経済(Negative Externality)。自分の事業が、意図せず、第三者に不利益をもたらすこと…)

 長谷川梓の記憶が、警鐘を鳴らす。経営者として、そして、領主の後継者として、あまりにも初歩的な、致命的なミス。

「お嬢様。あなたは、我々を、見捨てるおつもりか」

 長老たちの、まっすぐな視線。その問いに、エリザベートは、何一つ、答えることができなかった。


 その夜。

 一人きりになった書斎で、エリザベートは、ただ、窓の外の闇を見つめていた。

 テーブルの上には、王都からの契約キャンセルの報せと、伝統ギルドからの抗議文が、まるで墓標のように、並べられている。

 クラウディアが、外部から、事業の喉元に刃を突き立てる。

 そして、領民たちが、内部から、その存在意義を揺さぶってくる。


(…また、これか)

 長谷川梓の亡霊が、彼女の耳元で、嘲笑うように囁いた。

『ほら、見たことか。お前が何かを成し遂げようとすると、必ずこうなる。誰も理解しない。誰も助けない。お前は、いつだって一人だ。そして、全てを失うんだ』

 パワハラ上司の怒声。同僚たちの冷たい視線。あの、絶望的な孤独感。

 膝が、折れた。彼女は、床に崩れ落ち、震える腕で、自分の身体を抱きしめた。

 怖い。また、一人になるのが。また、全てを失うのが。


「…もう、いや…」


 か細い声が、誰にも届かず、闇に溶けて消えた。

 彼女の瞳から、熱い雫が、とめどなく、溢れ出した。

 王国を揺るがした若き天才は、今、たった一人、誰にも見られることなく、静かに、絶望の底へと沈んでいくのだった。

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