第2章

桃色に染まる通学路を、自転車で駆け抜ける。

ときどき顔にあたる花弁が鬱陶しくて、振り払うようにスピードを上げた。

強い風で乱れた髪を直そうと、顔を上げる。

ひらひらと散る、桃色の花弁に伸ばされた一つの手。

何故か、その手を掴みたくなって、目の前を通った。

伸ばしかけた手で、ハンドルを強く握りしめる。

一瞬交わった視線が、途切れることなく、まだ繋がっているような気がした。


入学式のあと、自己紹介で花弁に手を伸ばしていた人を見つけた。

名前は、朔というらしい。

静かで、心の内が読めない。

そんな印象だった。

もっと知りたい、と思った。


夏の暑さを感じ始めた頃。

話をする友達ができ、気付けば、囲まれるようになった。

退屈だと感じることはない。

けれど、何かが欠けているような感覚が、消えることはなかった。


夏の日差しが肌に突き刺さる。

冷気に包まれた教室は、席替えの話で賑わっていた。

一番近くにあった紙を手に取り、書かれた番号の席に座る。

左斜め後ろに、朔が居た。

初めて見た、あの姿が思い出される。

話してみたかった。

聞いてみたいことは沢山思い浮かぶのに、口の中で転がしているうちになくなってしまう。

「よろしく」

たった一言。

よろしく、と返ってきた声に、何故かひどく安心した。


おはよう、や、また明日。

席が近いことをいいことに、少しずつ話しかける。

向こうから話しかけてくることはない。

それでもいい。

小さく返ってくる声が聞ければ、それで。

後ろの席の友達と話しながら、何気なく視線を向ける。

ぴくりとも動かない表情。

その瞳の中に、苦しみが染み出していた。

何故、そんな顔をしているのか。

自分には、その正体を知る勇気がなかった。


夏の暑さが、落ち着いてきた。

涼を求めて、居座っていた人たちも居なくなり、教室に一人残る。

開いたままの扉から、外の賑やかな声が聞こえる。

今は何も聞きたくなくて、イヤホンで耳を塞いだ。

音楽の流れていないイヤホンに、身を任せる。

早く時間が過ぎてしまえばいいのに。

そう、思った。


微かな物音が、イヤホンを通る。

焦ってイヤホンを外せば、外からのうるさいほどに、賑やかな声が襲ってくる。

眩しい光の先に、一人の姿が見えた。

朔だ。

振り返った瞳と、視線が交わった。

そこからは、あまり覚えていない。

気付けば、朔は教室を出ていっていた。

うまく笑えていただろうか。

教室に、自分の呼吸音が響いていた。


家に帰れば、両親は出かけていた。

兄のいるリビングには行かず、自室に向かう。

部屋にある大きな本棚には、沢山の参考書。

買い揃えられた勉強道具に、額縁に飾られた沢山の賞状やトロフィー。

自分に必要なものは、全て揃っているはずの空間が、空っぽに見える。

ため息を噛み殺し、机に伏せる。

静寂が襲ってくるなか、抗うことをせず、目を閉じた。


「望はすごいね」

小さい頃は、この言葉が貰えることが嬉しかった。

その言葉を求めて、勉強も、運動も、人一倍頑張った。

けれど、小学校高学年になった頃、見てしまった。


月の光が、廊下を照らす深夜。

水を飲もうと、兄の部屋の前を通ったとき。

微かな泣き声が、扉の向こうから聞こえた。

少し開いた隙間から覗くと、兄の小さな背中が丸められていた。

床には、散らばったテストやノート。

そのとき、気づいた。

自分が褒められている後ろで、兄がどんな顔をしていたのか。

額縁に賞状を入れて壁に飾るとき、兄はどんな声で「おめでとう」と言っていたのか。

期待される自分と、報われない兄。

あの夜から、期待されることが、嫌いになった。


コンコン、と扉を叩かれる音で、目が覚めた。

両親が帰ってきたらしい。

ふう、と深呼吸を一つして、立ち上がる。

鞄から模試の結果表を取り出す。

紙が少し、たわんだまま、扉を開けた。


肌寒い風が吹き、枯れ葉が乾いた音をたてる。

先生の手伝いを終え、鞄を取りに教室へ向かった。

静寂に満たされた教室に、足を踏み入れる。

微かに上下する、小さな背中。

窓側の一番後ろの席に、朔が居た。

冷気に包まれた教室で、シャツ一枚のまま机に伏せている。

その姿を見た瞬間、気づけば自分のブレザーを脱ぎ、そっとその背中を包んでいた。

微かに肩が動き、朔が顔を上げた。

少し丸くなった目が、こちらを向く。

静かな空間に、自分の鼓動が響きそうで、咄嗟に口を開いた。

「夕方は冷えるから、風邪ひくよ」

自分にしかわからないほど、声が微かに震えていた。

ありがとう、と、静かで柔らかな声が教室に溶けた。

微かに上がった口角に、視線が吸い込まれる。

気づけば、目の前に座っていた。

ぽつり、ぽつりと、二人の声が静寂にほどけていく。

世界に二人だけ。

そんな錯覚に、抗うことはできなかった。


あの日から、教室に残るようになった。

暖かな静寂に、二人きり。

他の友達と同じような話をしているはずなのに、何かが違う。

こんなに何も考えず笑えるのは、いつぶりだろう。

この時間が、ずっと続けばいいのにと思った。


刺すように冷たい風が吹き抜ける。

人のまばらな教室に足を踏み入れると、数人の友達が寄ってきた。

この前の模試の結果を、どこかで聞いてきたらしい。

誰にも言っていないはずなのに。

自分を褒める言葉が、囲うように襲ってくる。

そんなことないよ、と必死に絞り出した声は、すぐにかき消された。

まだ続きそうだった言葉を遮り、廊下へ逃げ出した。


何も話す気になれず、二人きりの教室は沈黙で満たされていた。

今、言葉をこぼせば、自分をせき止めている何かが壊れてしまいそうだった。

冬風に冷やされた窓が、自分の頭を痛いほど冷やす。

薄く目を開けば、朔はシャーペンをノートに走らせていた。

もう一度目を閉じ、口の中で言葉を転がす。

ずっと、聞いてみたかった。

自分のことを朔も完璧な人間だと思っているのか。

縋るような思いで、問いかけた。

朔の顔を見て言う勇気は、なかった。


少しの沈黙が、教室に響いた。

閉じた目に力を入れる。

今、朔がどんな顔をしているのか。

どんな言葉が返ってくるのか。

頭の中で、いくつも想像する。

優しく、静かな声が届く。

「どこにでもいる普通の高校生に見える」

自分の体に、言葉が溶けていく。

そっか、とこぼすのが精一杯だった。

胸が暖かくなって、目が熱くなる。

優しい沈黙が、あふれた。


薄暗い玄関を静かに開ける。

リビングに居るはずの、両親と兄の声は聞こえない。

音をたてないよう、静かに部屋に向かった。

軽く開けた扉の先は、暖かな静寂に満たされていた。

深呼吸をし、カーテンを開く。

青みがかった黒い空に、満月が浮かんでいた。

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