霽月

湊 風露 (みなと ふうろ)

第1章

ふわり。

桃色の小さな天使が降りてくる。

掴もうと手を伸ばしても、指の隙間をすり抜けていく。

追いかけても、たどり着かない。

目の前の天使が自分の手に吸い込まれていく。

あと少し。

その瞬間、強い春風が天使を連れていった。

その行き先を追うと、淡い春の光を乗せた自転車が、ゆっくりと流れていく。

一瞬交わった視線は蜘蛛の糸のように消えそうなほど細く、けれど確かに、繋がっていた。


春の暖かな光に満ちた廊下には、小さな鈴が鳴るような、軽やかな足音が溢れていた。

皺も汚れもない制服が、たくさんの生徒を包み込む。

開け放たれた扉をくぐる。

鮮やかな緑に白いプリントが貼り出され、君は此処だよ、とそっと教えてくれる。

窓側の一番後ろ。

少し空いた窓から会いに来る春風に、カーテンが弄ばれる。

ふと辺りを見渡せば、視線が、自然と一点に吸い込まれた。

柔らかな光のベールに包まれた横顔。

その姿は、ラムネ瓶の中のビー玉みたいに、胸の奥に引っかかって離れなかった。

「はーい、皆さん自分の席に座ってくださーい」

扉が開き、大波のような音が降りかかる。

吸い込まれていた視線が、ふわり、と解けた。

淡かった世界が、鮮やかに映し出される。

校舎内に響くチャイムと、胸の鼓動が同じ音色を奏でた。


小さな天使は季節と共に、少しずつ姿を消していく。

新しい季節の光を纏う木に、蝶が優しく誘われる。

朝の柔らかな光を受けながら、教室を見渡す。

ビターチョコレートのような、繊細な髪が少しの動きで揺れる。

柔らかな光の、正体。

望。

あの人は、そう呼ばれている。

クラスの中では、明るい雰囲気からか、いつでも人に囲まれ、カスミソウのような笑顔を、咲かせている。

でも、ときどき、水を求めているような笑顔を見せる。

あの人が何を求めているのか、自分には、まだわからない。


肌に突き刺さるガラスの破片が、少しずつ鋭さを増す。

世界は鮮やかな緑に染まり、爽やかな風が、新しい季節の匂いを運ぶ。

今日はいつもより、教室の中が色々な音色で溢れている。

自分の手には、新しい席番号が書かれた、四つ折りの小さい紙。

そして、右斜め前にあの人が座る。

「よろしく」

初めて交わした会話。

あの人の口から発せられた音が、柔らかく、自分を包み込む。

からん。

ガラスコップの氷が少し溶けて、音をたてたような、小さな音が聞こえた気がした。


新しい席に変わってから、会話を交わすようになった。

そのひとつひとつが、胸の奥の瓶に積み重なっていく。

少しずつ重みを増していく瓶の蓋を、視界の端に捉え、手を伸ばしかけた。

ことん。

無意識に伸ばしていた手にシャーペンが当たり、小さな音をたて転がっていく。

水槽の中に落とされた餌のように、周囲からの視線が、自分に集まる。

慌てて取ろうと伸ばした手より先に、自分ではない手が、シャーペンを持ち上げた。

海月の触手のような、繊細な手がこちらにシャーペンを運んでくる。

「ありがとう」

小さく礼を言い、少し浮かせた腰をおろした。

どういたしまして、と言うように、触手がひらひらと揺れる。

少し細められた瞳と視線が交わる。

響いていた時計の針の音が、静寂の中に溶けていった。


新月の夜。

こちらを覗く黒い空は、光を連れてきてはくれない。

家の中に溢れる、暖かい食卓の匂いから逃げるように部屋に戻ってきた。

閉じられた扉から微かに聞こえていた、祖父母の穏やかな声は、深夜になり静けさに流されていった。

ベッドサイドに座る、小さなくまのぬいぐるみに目をやる。

少し微笑む口元に、暖かな面影を重ねた。

「ごめんね」

静かに溢れた言葉は、静かに姿を消した。

触れることのできない暖かさを求め、くまに手を伸ばす。

柔らかな肌に、暖かさはない。

それで良かった。

自分に、暖かさを求める資格などないのだから。


カーテンの隙間から、朝日が起こしに来る。

自分には眩しすぎる光に、背を向けた。

扉の向こうでは、祖父母の声が柔らかく響いている。

壁にかかる制服の袖に腕を通す。

重い扉を開け、光の中へ足を進めた。


見慣れてきた通学路を緑が包み込み、強い陰が鋭いガラスを防いでくれる。

額に浮かぶ雫を拭いながら、歩みを進める。

きらり。

優しい風に乗せられたガラスが、横を流れていく。

「おはよ」

あの人の声が、瓶の中に落とされた。

爽やかな風が、時間を運んでいく。

海のような青空が、気づけば赤みを帯びていた。

「また明日」

静かな音色が、鼓膜を揺らす。

小さく返事を返す自分の音色が、微かな風に乗って、あの人に届いた。


静寂に染まった校舎。

外からは、たくさんの音が、波のように押し寄せては引いていく。

足早に歩く自分の、うるさい足音が不釣り合いに響く。

忘れ物を取って、すぐ帰ろう。

開いたままの扉をくぐり、自分の席に視線を向けた。

押し寄せていた波が引き、1つの影が浮かび上がる。

白い糸があの人の鼓膜へ音楽を運んでいる。

瞳は閉じられ、煌めく光は見えない。

大きな水槽に、海月が溺れていた。

口から溢れかけた声は、体の中に溶けていった。

静寂を漂う海月の道を塞がぬよう、素早く目当てのものを手に取り、扉へ急ぐ。

最後にもう一度、と振り返れば、煌めく光が差し込んでいた。

触手が体に絡み、離れることができない。

外の音色が、耳障りなほど響く。

すりガラスのような瞳が、こちらに向いていた。

「忘れ物?」

いつもの綺麗な音色が、風に攫われていく。

頷いた自分に、ぎこちない微笑みが返ってくる。

普段とは違う姿に戸惑い、逃げるように教室から離れた。

耳障りな音色が、自分に逆らうように流れ込んでくる。

後ろに流されてしまいそうになり、必死に前へ足を進めた。

ごとり。

瓶の中に、今までと違う何かが落とされた気がした。

瓶の中に落とされた何かは、取ろうとすればするほど奥に埋もれていく。

気づけば、手を伸ばしても届かなくなった。

朝日が溢れる教室に、あの人の姿を見つける。

賑やかな音色に囲まれる横顔は、昨日の夕日に照らされたあの横顔ではなかった。

海月の触手が、指の間をすり抜けていった。


髪が肌寒い風に弄ばれる。

どれだけ抑えつけても、止めることはできない。

からから、と枝から離れていった枯れ葉が足元で戯れている。

季節の移り変わりと共に、席もまた新しくなる。

窓側の一番後ろ。

始まりの席に戻ってきた。

前には、あの人。

陽の光に包まれた海月は、目の前で止まることなく漂っている。


薄紫の空を眺めていると、だんだんと紺色に変わっていく。

窓には、少しずつ自分の姿が浮かび上がる。

このまま時間が止まればいい。

そろそろ帰らないと、とは思いながらも、腰を上げられない。

世界から逃げるように、机に伏せた。

ヘッドホンが耳を塞ぐ。

水槽の中に、飛び込んだ。


どれくらい、時間が経っただろう。

ふわり、と体が包まれた感覚に、顔を上げる。

「夕方は冷えるから、風邪ひくよ」

肩には、自分のものではないブレザー。

ありがとう、と小さく礼を言う。

ふわりと微笑んだ顔が、目の前に来る。

窓は黒く、二人の姿を映し出していた。

何聴いてたの、と聞かれ、何も聴いてなかった、と答える。

そっか、と音色が溶けた。

いつの間にか水は引き、空っぽの水槽に二つの音色が残った。


あの日から、黒い窓は二人の姿を映し出すようになった。

少しずつ、二つの音色が交わっていく。

普段とは違う、大きな口を開けて笑う姿がここにはある。

あの人、いや望は、もう光に纏われていない。

どうでもいいことを、交わし合う。

海月は姿を変え、小さな亀が二匹、水槽の中に居た。


頬に、鋭い冬風が当たる。

口から吐き出された白い息が、澄んだ青空に吸い込まれていった。

気づけば、胸の奥の瓶は重くなっていた。

蓋を閉めなきゃと思うのに、今の自分には、瓶の蓋に手を伸ばすことができなかった。

教室に入れば、いつもよりも賑やかな音色が流れてくる。

自分の方まで流れてきては、引いていく。

ここに残されたのは、周りの人たちが望にかけている言葉だった。

「模試一位ってすごいな」

「さすが望だな」

「勉強もできて、運動もできるなんて完璧じゃん」

そんなことないよ、と小さな音色が届いた。

その音色は、溺れているように静かで、苦しそうだった。


その日の望は静かだった。

黒い窓に背を向けて、何も言わず、ただ目を閉じている。

自分は特に話しかけることもせず、静かにシャーペンを走らせる。

ねえ、と呼びかけられる。

望の方に視線を向けると、目を閉じたまま、また口を開く。

自分はどう見えるか、と問われる。

少し考えて、どこにでもいる普通の高校生に見える、と答えた。

そう、と小さな音色が柔らかな静けさに溶けた。

どうしたのかと顔を見れば、何故か少し嬉しそうに微笑んでいた。

その微笑みを、何も言わず、ただ見つめる。

水槽の中に優しい沈黙が、溢れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る