ぼくのリテラリウム

神木

ぼくのリテラリウム

 黴暮洋子かびくれようこが世界を作っていた。


「けっこう簡単だよ。そうだなー、ナチュラルメイクより手がかかるかなってくらい」


 そういうご時世、というのはよく分かるのだけど、ぼくは男で、しかもメイクを嗜まない男なので、ナチュラルメイクが手がかかるのかどうかよく分からず、すごおい、と間抜けな反応をした。黴暮はぼくの愚かさを知り尽くしたような見下すような顔をして、はっ、と鼻で笑った。

 片付けられた黴暮の自室の壁際、密封された水槽が飾られている。お祭りですくった金魚だとか、夏休みに田舎から連れて帰ったザリガニだとかがいそうなそこには、大陸が浮かんでいる。球じゃないんだ、と思った。


平面世界説信者フラットアーサーだったっけ」

「なにそれ。世界が平面だとか球だとかマジどうでもいい。羊歯しだくんは知らないから教えてあげるけど、この世界ってシミュレーションなんだよ。本質が大事なのはそっち」


 もっとヤバかった。

 実際、完璧なシミュレーションを実現した場合、この世界がシミュレーションであるという仮説を否定できなくなる。

 その場合、シミュレーション世界がシミュレーション世界を作り、さらにそのシミュレーション世界がシミュレーション世界を作り……という風に入れ子的にシミュレーション世界が増えていくのに対し、大本の現実世界は一つだけだということで、ぼくたちの世界はシミュレーションである可能性がほとんど無限に増えていく。

 だからこの世界はシミュレーション。そういうことを言う大富豪もいたし。ぼくからすれば、どの世界だろうとぼくがいまここにいることは揺るがせないわけで、それこそ黴暮の言葉を借りれば、マジどうでもいい——というものだ。

 それよりも、その水槽の中に世界があるとして、それはどういうことなのだろう。日光を受けている大陸には芝が生えているのが見えるけれど。


「瓶の中に生態系を作った話の類型?」

「違う。あれは菌と植物。酸素供給量と消費量、生命のサイクルのつり合いなだけ。こっちは世界。独自の物理法則をもったミニチュアワールドなんだよ」

「ミニチュアって」


 ラップでぴったりと塞がれて、空気の交換を防がれた水槽を覗き込む。浮かんでいる大陸に生えている芝は、近づいて見てみれば、森林のあつまりだった。つまようじの先端みたいな幹が集まっている。集合体っぽくてぐえってなる。端からは表面張力ガン無視で細く細く水がこぼれていく。川の近くには文明らしきものがあって、穴を掘った住居に小さい生き物が集まっている。頭は二つあって、手足が四本ずつの人間たちだ。


「プラトンじゃん」

「あ、『饗宴』読んだ? 人類はかつて二つの生命体の合成生命だった。男男、男女、女女。そしてあまりに賢く、そのため傲慢で、神の怒りを買ってばらばらにされてしまった」

「読んでない。小説に引用されてただけ」

「孫引きかよ、知へのリスペクトが足りないな」


 言いながら、黴暮はぼくの隣で世界を覗き込む。茶のカラコンがはめられた瞳に世界が映っている。化粧品の匂いがする。黴暮にとって手がかかるのかどうか不明なナチュラルメイク、なのかどうかもぼくには分からなかった。なんか塗ってんなー、と思ったくらい。

 学生時代から、黴暮はちょくちょくぼくを部屋に読んではとめどない話をしていた。ぼくがあまり女性に対して欲望を持たないタイプなのを、彼女はしっかり見抜いていた。でも彼女は自分の欲望はぼくに語ることはなかった。


 大学に入ってからも、ぼくたちの奇妙な関係は続き、やがて黴暮はあれだけ拒んでいた化粧を身に着けた。体毛の処理を学んだ。それっぽい服装を見に付けた。女性をうまくやることに、黴暮はどんどん適応していった。ぼくはずっと変わらなかった。黴暮は就職をして、ぼくは文学研究を続けに大学院にいった。それで一度疎遠になり、久々に家に呼ばれたのだった。


「なんかなっちゃうんだよな。何度か創世してんだけど。やっぱり普通の人間にするなら私の方から手を入れなくちゃかなあ」


 普通の、で黴暮は鼻で笑った。


「痛そうだしやめといたら」

「一理ある」


 言って、黴暮は水槽に暗幕をかけた。夜が浮遊世界を覆う。それがなんだかぼくの心をむずむずさせる。だから聞いた。


「創世ってどうやんの?」

「私は理系だから、瓶内生態系ボトルアクアリウムとホムンクルスの応用だよ。きみは文系だし、詩とか論説でいけるんじゃないかな」

「それってこの水槽のタイプの世界にならないよね。日光や植物から作られた世界と、文章で作られた世界ってどう違うのかな」

「さあ。文章については羊歯くんのほうが詳しいと思うけど。作ってみたいの?」

「それはまあ。……ぼくにもできそうって思って」

「作れたら教えてよ」


 黴暮はマジでぼくに世界を見せたかっただけみたいで、そのままご飯とか行かずにぼくは帰って、世界を作ることにした。

 というか、すでにできかけていた。

 一度世界を見たからか、修論が世界の核になりつつあることが分かったのだった。そこにぼくはいくつかの論のパートを指導教員のアドバイスも受けずに付け加え、短い言葉たちを投入する。言葉たちは互いに蠢いて、批評と創作は蜜月を迎えて、世界はどんどん豊かになっていった。黴暮が作ったのが密封された水槽世界アクアリウムなら、ぼくが作ったのは隔絶された文章世界リテラリウムだった。そこには徹頭徹尾ぼくしかいない世界だった。もうすこしうまくできたら黴暮に連絡しようと思っていた。

 文法もマナーも、読者の意識もなく書いては世界に投入していった。かな文字はカナ文字とまぐわい、平易な散文は硬質な論文と恋愛した。ぼくの子供たち、ぼくの孫たち、僕のひ孫たちがハードディスクのなかで氾濫した。そこまで見て、ぼくは世界を印刷して燃えるゴミに出してしまった。世界のファイルも削除して、黴暮には上手くいかなかったという連絡をした。


 世界は処理場で今も燃えているらしい。

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ぼくのリテラリウム 神木 @kamiki_shobou

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