第5話最終話 永遠の愛の鳥籠(とりかご)

それでは、この歪んだ愛の物語の結末を描きます。

雄一郎の精神が崩壊し、死による解放を求めたとき、二人の女(妻と愛人)が出した答えとは――。


救いのない、しかし彼女たちにとっては「ハッピーエンド」となる最終話です。


---


季節は巡り、冬が訪れていた。

外は雪が降っているらしいが、厚い遮光カーテンが引かれたこの部屋には、昼も夜も関係なかった。


「……あ、あう……」


リビングの床で、雄一郎さんが赤ん坊のように丸まっていた。

かつてのエリート課長の面影はない。

髪は伸び放題で白髪が混じり、頬はこけ、目はうつろに中空を彷徨(さまよ)っている。


彼は会社を懲戒解雇された。

無理もない。全社員に「私は殺人犯です」というメールを送りつけ、会議中に奇声を上げ、最後には自分のネクタイで首を締めようとしたのだから。

警察も来たけれど、佐和子さんが「夫は若年性認知症で、妄想癖があるんです」と涙ながらに説明し、精神鑑定の結果、措置入院――ではなく、**自宅療養**ということになった。


そう、この家こそが、彼の病室であり、牢獄であり、墓場なのだ。


「雄一郎さん、ご飯だよ」


ギギギ……。


プラスチックの関節が擦れる音をさせて、私が近づく。

今の私は、佐和子さんが用意してくれたマネキンの中にいる。

慣れるまでは大変だったけれど、今では手足のように動かせるようになった。

やっぱり、実体があるって素晴らしい。雄一郎さんに触れることができるんだもの。


「今日は特別メニューよ。あなたの好きなハンバーグ」


私はお盆を彼の前に置いた。

ハンバーグからは、香ばしい肉の匂いと、ツンとする腐敗臭が混じり合って漂っている。

材料は秘密。冷蔵庫の奥で熟成されたお肉と、私が庭から掘り起こしてきた「特製のスパイス(土)」入りだ。


「……い、いやだ……たべたく、ない……」


雄一郎さんが首を振る。

まだワガママを言う元気があるのね。


「あら、ダメよあなた。七海さんが一生懸命作ってくれたのに」


ソファで編み物をしていた佐和子さんが、優雅に立ち上がった。

彼女の手には、編みかけのマフラーではなく、**犬用の首輪とリード**が握られている。


「好き嫌いをする悪い子は、お仕置きが必要かしら?」


カチャリ。

佐和子さんは慣れた手つきで、雄一郎さんの首に首輪をはめた。

雄一郎さんは抵抗しない。抵抗するとどうなるか、この数ヶ月で体に叩き込まれているからだ。


「ほら、口を開けて」


私がスプーンでハンバーグを掬(すく)い、彼の口元に運ぶ。

彼は涙を流しながら、震える口を開けた。


「……おい、ひい……」

「ふふ、よかったわね、七海さん。美味しいって」


佐和子さんが微笑み、私のマネキンの頭を撫でた。

冷たいプラスチックの頭皮越しに、彼女の歪んだ愛情が伝わってくる。

私たち、いいコンビだと思わない?


***


その夜。

雄一郎さんが、こっそりとベランダに出ようとしているのを見つけた。

彼は手すりに足をかけ、虚ろな目で下の道路を見下ろしていた。


ここから飛び降りれば、終わる。

この地獄から、狂った二人の女から解放される。

彼の背中がそう語っていた。


「……さよなら」


彼が身を乗り出した、その瞬間。


ガシッ!!


私の硬いプラスチックの手が、彼の手首を掴んだ。

そして反対側の手首を、佐和子さんの白く細い手が掴んだ。


「ダメよ、雄一郎さん」

「どこへ行くつもり?」


二人の声が重なる。

雄一郎さんが振り返ると、月明かりの下、無表情なマネキンの私と、満面の笑みを浮かべた佐和子さんが立っていた。


「死にたい……もう、殺してくれ……頼む、殺してくれぇぇ!!」


雄一郎さんは泣き叫び、崩れ落ちた。

「楽にしてくれ! 俺が悪かった! 謝るから! 地獄に行かせてくれ!!」


その絶叫を聞いて、私と佐和子さんは顔を見合わせた。

そして、同時にクスクスと笑い出した。


「何を言ってるの、あなた」


佐和子さんが優しく彼の頬を撫でる。


「ここが地獄よ? 気がついていなかったの?」


「それにね、雄一郎さん」


私もギギギと首を傾げ、愛する人の耳元で囁いた。

マネキンの口は動かないけれど、私の声は直接彼の脳に響く。


『死んだら終わりだと思ってるの?』


『私が死んでどうなったか、忘れたの?』


『あなたが死んだら、あなたの霊をこの家に縛り付けて、永遠に三人で暮らすだけよ。肉体があるかどうかの違いだけで、逃げられないのは一緒なの』


雄一郎さんの顔が、絶望に染まる。

死んでも逃げられない。

死こそが救済だと思っていたのに、その先にも、この女たちが待っている。


「……あ、あぁ……あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


彼の口から、言葉にならない悲鳴が迸(ほとばし)った。

それは人間の尊厳が完全に砕け散った音だった。


「さあ、部屋に戻りましょう。風邪をひいちゃうわ」

「温かいお布団で、三人で川の字になって寝ましょうね」


私たちは両側から雄一郎さんを抱きかかえ、温かい部屋へと引き戻した。

窓ガラスに映る私たちの姿。

マネキンと、生きた人間と、抜け殻のような男。

奇妙で、歪で、最高に幸せな家族写真。


**「楽になんて、死なせてあげないわ」**


私の心の声に合わせて、佐和子さんも同じ言葉を口にした。

カーテンが閉められ、二度と開くことのない闇が、私たちを優しく包み込んだ。


(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る