第3話 泥だらけの帰宅

第2話で家庭と通勤中の精神攻撃を描きました。第3話では、編集部からのアドバイスにもあった**「職場での社会的抹殺」**を具体的に実行します。

七海の「善意(という名の狂気)」が、エリート課長・雄一郎のキャリアを粉砕していく様子を描きます。


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# 第3話 会議室の中心で、愛を叫ぶ


デパートの大会議室は、張り詰めた空気に満ちていた。

今日は来期の店舗改装計画を決める、重要な役員会議だ。

長テーブルの上座には、気難しいことで有名な常務が座り、鋭い眼光を放っている。


「――以上が、総務課からの提案となります」


雄一郎さんはスクリーンの前に立ち、プレゼンを終えた。

完璧だ。資料も、話し方も、立ち振る舞いも。

昨夜あんなに精神的に追い詰められていたのに、仕事モードに入ると別人になれる。

そういう「外面(そとづら)の良さ」が、私の大好きなところ。


「ふむ……」


常務が顎を撫でながら、雄一郎さんを見据えた。


「永井くん。このB案のコスト削減プランだが、具体的にどこの業者を使うつもりだ?」


鋭い質問。

雄一郎さんは一瞬言葉に詰まったが、すぐに口を開こうとした。

その時だ。


(雄一郎さん、頑張って! 私が教えてあげる!)


私は雄一郎さんの背後から、彼の耳元に囁いた。


『ねえ、あそこの業者よ。「ドリーム・エンタープライズ」。あそこなら安くやってくれるわ』


それは、私が生前、給湯室で聞いたただの噂話。しかも、実は悪徳業者だという黒い噂のある会社だ。

でも今の私には、そんなこと関係ない。雄一郎さんを助けたい一心なのだから。


私の声は、思考に直接響くノイズとなって彼の脳に侵入する。

極度の緊張状態にある雄一郎さんの脳は、私の声を「自分の記憶」だと誤認した。


「あ、はい。……『ドリーム・エンタープライズ』社を検討しております」


一瞬、会議室が静まり返った。

常務の眉がピクリと跳ねる。


「ドリーム……? あの、先月倒産して詐欺容疑でニュースになった会社かね?」

「えっ?」


雄一郎さんの顔が凍りついた。

周囲の役員たちがざわめき始める。


「おい、永井。何言ってるんだ?」

「ニュース見てないのか?」

「そんな反社まがいの所を使う気か?」


「い、いえ! 違います! 今のは言い間違いで……!」


雄一郎さんは真っ青になって訂正しようとする。

でも、私の「内助の功」は止まらない。


(あ、ごめんごめん! 間違えちゃった。じゃあこっち! 私の好きな言葉を言って!)


私は彼の首筋に冷たい指を這わせ、脳髄に直接、甘い電気信号を送り込んだ。


『愛してる。世界で一番、七海を愛してる』


雄一郎さんの口が、意思に反してパクパクと動く。


「……あ、愛して……」


「ん? 何だ?」常務が身を乗り出す。


「愛し……愛と、希望の、コストダウンを……!!」


雄一郎さんは必死の形相で叫んだ。

意味不明だ。

会議室の空気が、「厳粛」から「困惑」、そして「ドン引き」へと変わっていく。


「永井くん、君……疲れているのか?」


常務が呆れ顔で眼鏡の位置を直した。


「少し休んだ方がいいんじゃないか? 最近、顔色が悪いぞ」

「も、申し訳ありません……!」


雄一郎さんは深々と頭を下げた。

その背中で、私はクスクスと笑った。

あーあ、失敗しちゃった。でも、雄一郎さんの慌てる顔、可愛かったな。


***


会議の後、雄一郎さんは自分のデスクで頭を抱えていた。

周囲の部下たちが、遠巻きに彼を見ている。

「課長、大丈夫ですか?」なんて声をかけてくる人は一人もいない。

みんな、彼が「おかしい」ことに気づき始めているのだ。


私は彼のデスクの横に立ち、パソコンの画面を覗き込んだ。

彼は今、挽回しようと必死で稟議書を作成している。


カチャカチャカチャ……ッターン!


エンターキーを叩く音が神経質に響く。

ねえ、雄一郎さん。そんなに仕事ばかりしてないで、私と遊ぼうよ。

ほら、マウスが動かないよ?


私はマウスの上に手を重ね、カーソルを勝手に動かした。

カーソルが画面上をスルスルと滑り、メールソフトのアイコンをクリックする。


「な、なんだ!? マウスが!」


雄一郎さんが慌ててマウスを握り直すが、カーソルは意思を持ったように動き続ける。

『新規作成』をクリック。

宛先は……『全社員』。


「やめろ! やめろおおお!!」


彼は小声で叫びながら、ケーブルを引っこ抜こうとする。

でも、今のマウスはワイヤレスよ、雄一郎さん。


件名:『懺悔(ざんげ)』

本文:『私は……』


私がキーボードを叩く(念じる)と、文字が勝手に打ち込まれていく。


『私は罪を犯しました。』

『山に埋めました。』

『愛する人を。』

『でも、彼女は今ここにいます。』


「ひいいいいいッ!!!」


雄一郎さんは悲鳴を上げ、モニターの電源ボタンを連打した。

ブツン。

画面が消える。

送信ボタンを押す寸前で、なんとか阻止できたようだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


彼は椅子に崩れ落ち、震える手で顔を覆った。

フロア中の視線が彼に集まっている。

もう、「独り言を叫ぶヤバい上司」としての地位は確固たるものになっていた。


(惜しかったなー。もうちょっとで全社員にカミングアウトできたのに)


私は残念そうにモニターを見つめた。

でも大丈夫。

このパソコンには、まだ仕掛けが残ってる。


彼がトイレに立った隙に、私はデスクトップの壁紙を変えておいたのだ。

彼が戻ってきて、モニターをつけたら驚くぞお。


壁紙は、彼が私のスマホで撮ってくれた、私の満面の笑顔の写真。

しかも、泥加工付き。


――その時だった。


「課長、お客様がお見えです」


部下の女子社員が、怯えた様子で声をかけた。

雄一郎さんがビクッとして顔を上げる。


「だ、誰だ? アポなんてないはずだが」

「それが……永井課長のご友人だと仰ってまして……」


ご友人?

雄一郎さんに友達なんていたかしら?


入り口の方を見る。

そこに立っていた人物を見て、私の笑顔が凍りついた。

雄一郎さんの顔からも、血の気が引いていく。


そこに立っていたのは、腕を組み、仁王立ちしている女性。

私の親友であり、唯一、雄一郎さんとの不倫を猛反対していた――**由美ちゃん**だった。


「……久しぶりですね、永井さん」


由美ちゃんの目は笑っていなかった。

その手には、見覚えのあるものが握られている。

私が誕生日に雄一郎さんに渡したはずの、ネクタイの箱だ。


「七海と連絡がつかないんです。……最後に会ったのはあなたですよね?」


低い声が、静かなオフィスに響き渡った。


(第3話 完)

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