第9話 “選択”
5月21日
その日の放課後。
俺は大橋さんと前回の喫茶店で会っていた。
「え? もう解決したのか……?」
今の俺は、さぞかし間抜けな顔を晒している事だろう。
「加藤君の問題は女子の心変わりに対する恐怖。……仕方ないわ。同性のわたしから見ても、態度が急変する子は多いもの。山本さんの態度に失恋の傷を刺激されていたのよ」
― ―何だろう。
今日の大橋さんは何処か様子がおかしい気がする。
何がとは言えないけど、妙に引っ掛かる。
「そっか……。隆俊は、それで……?」
「傷が癒えたわけでは無いけど、随分と肩の力が抜けているように見えたし、もう大丈夫だと思うわ」
微かに笑みを浮かべる大橋さんを見て、俺はホッと胸を撫で下ろす。
徐々にでも傷が癒えると良いな……。
俺にも何か出来れば良いんだけど。
「……その……葵は……?」
何となく、葵の名前を大橋さんの前で出すのを躊躇った。
理由は分からない。
場の空気とでも言うべきだろうか。
それが口を重くしていた。
「そうね。アレから顔を出してないけど、そろそろ動く頃合いだと思うわ」
やっぱり、様子がおかしい。
前回のように苛立った素振りが無い。
妙に落ち着いているんだ。
良い事のはずなんだけど、違和感が拭えない。
「そっか。俺は大橋さんを信じるよ。実際、隆俊を助けてくれたんだから」
そうだ。
隆俊を助けてくれた。
きっと、彼女でなければ難しかった。
俺じゃ……ましてや、葵では逆効果だっただろう。
「ありがとう。そうして貰える?」
やっぱり、奇妙なほど落ち着いた様子。
変じゃ無い筈なのに、どうしても違和感を覚える。
「ああ。そうするよ」
いや、気にし過ぎだ。
色々あって、俺も疑心暗鬼になっているのかも知れない。
「……ねえ、藤田君。わたしの事も助けてくれる?」
そう告げた時の大橋さんの瞳は形容し難い色を
きっと、ずっと忘れない。
そんな色だった。
「俺に出来る事なら何でも。今回……何の役にも立たなかったし」
俺は本当に何もしていない。
ただ、勉強に打ち込んでいただけ。
葵じゃ無くて、俺が学生の本分を全うするという奇妙な現象。
なんか、皮肉も良いところだな。
「そう? それなら、1つだけお願いしても良い?」
何だ。
胸が、ざわざわする。
奇妙な予感だ。
事が起きる……そんな感覚。
俺が返事に迷っていると、大橋さんが続きを口にする。
「良ければ、わたしとお付き合いしてくれる? 藤田君」
全く予想していなかった言葉が大橋さんの口から発せられた。
「……っ……えっと、それは……どういう意味で……?」
俺は動揺して舌を噛んでしまった。
でも、まだ頭が追い付いていない。
舌から血が出てるな、等と関係のない事ばかりが頭に浮かぶ。
この状況に混乱している証拠だ。
「そのままの意味。彼氏彼女と言えば、分かり易いかしら?」
確かに簡潔で分かり易い。
でも、全く分からない。
話の流れがおかしい。
どういう事だ……?
「藤田君は、わたしが厄介な男子から好かれ易いのは知っているでしょう?」
言葉を失っている俺に、大橋さんが続けて語り掛けて来た。
「あ、ああ。それは……知ってる」
あまりにも有名だ。
ストーカー気質の男子に粘着されていると、1年の時にも噂になっていた。
彼女の面倒見の良さを勘違いしてしまう男子が後を絶たないのだ。
「それで、藤田君には男子避けをお願いしたいの」
男子避け……?
あ、そういう事か。
気付いてしまえば、すんなり理解出来た。
やっと頭に冷静さが戻って来る。
「つまり、仮の恋人って事?」
「そうね。“今は”」
なんて意味深な言い方……。
男子は期待してしまうんだよ、大橋さん。
悲しいかな、俺も勘違い野郎の1人だったという事か。
「……仮か」
それなら、良いのかな……。
良いのかなって、何だ?
俺は― ―
誰に対して言い訳をしているんだ。
「勿論、断ってくれて構わないわ。一方的に無理なお願いをしているのだから」
そう告げる大橋さんは、やはり不思議な瞳をしていた。
吸い込まれそうになる、そんな瞳。
(……仮……仮なら、良いよな……?)
本当に― ―俺は誰に言い訳しているんだろう。
「……分かった。それくらいなら任せてくれ」
これで良いはずだ。
俺は恩を返すだけ。
間違ってない……正しいはずだ。
俺は……自分の何かから目を逸らした。
「………そう。良いの?」
妙に強い瞳をした大橋さんに一瞬気圧されてしまいそうになる。
「……ああ。俺で役に立てるなら」
嘘じゃない。
嘘なんて……吐いて無い。
「……ありがとう。これからよろしくね。湊斗」
呼び捨てにされた瞬間、背筋にゾクッと電流が走る。
不快だったわけじゃない。
逆だ。
仮とは言え、そういうニュアンスで名前を呼び捨てにされるのは心臓に悪い。
「……よ、よろしく。大橋」
敬称くらいは取っても良いよな。
臆病では無い、慎重なだけだ。
ヘタレとか言うんじゃないぞ。
「そこは、美桜って呼ぶべきじゃない? ね、湊斗」
やっぱり、ゾクゾクする。
羞恥と高揚感の入り交じった不思議な感覚。
大橋の声が妙に艶っぽく感じる。
背筋にゾクッて来るんだ。
「分かった。……みみ……美桜」
何だ、みみって。
緊張で舌が回って無いじゃん。
凄い恥ずかしいんだけど。
え、世の中の恋人って自然とこれやってるの?
皆、凄いな。
俺が情けないワケじゃ無い……はず。
「フフッ、みみって。カッコ悪いわよ? 湊斗」
「………」
その美桜の笑顔を見た瞬間。
俺は酷い罪悪感に苛まれていた。
見惚れてしまったから。
それが何故か後ろめたくて。
「改めて、明日からよろしくね。湊斗」
「……ああ」
こうして、俺は大橋― ―
美桜と仮の恋人になった。
そう自分のナニカから目を逸らし。
どういう結果に繋がるのか深く考えずに。
◇◇◇
あんなやり方で良かったのだろうか。
我ながら、意外と不器用だったみたい。
本当は仮のつもりなんて無かったのに。
恋愛感情なのかは分からない。
でも、不快な男子じゃないし気に入ってる。
だから、真剣に付き合ってみるのも良いかなって。
でも……切り出した時の湊斗の様子。
わたしは鈍くない。
アレは間違いなく断られる雰囲気だった。
気付いた瞬間。
わたしは咄嗟に仮だと口にしていた。
その後の反応も観察してみたけど、正しかった気がする。
湊斗からは、誰かに対する後ろめたさを感じたから。
好きな人でも居るのかも知れない。
でも。
初恋もまだだって、以前言っていた。
「……仮から、始めてみるのも良いのかも……」
自分でも、彼をどう思っているのか分からない。
でも、好意は抱いているのだと思う。
だって。
そうじゃなければ、あそこまではしない。
とっくに、関わらないようにしていた。
面倒事に巻き込まれないように。
それなのに、わたしは真逆の行動を起こした。
山本葵の真意に気付いた時、強い苛立ちを覚えて。
そう、覚えてしまった。
だから、即座に行動を起こしたんだ。
分からないなら、確かめれば良い。
様子見なんて性に合わないから。
「……好きなのかどうか確かめれば良い。そして」
彼の事を知っていこう。
わたしの事を知って貰おう。
これからだって良いんだ。
仮に偽物だったとしても、本物にすれば良い。
「………馬鹿みたい」
その言葉は誰に向けたモノだったのだろう。
妙に浮足立っている自分に対してなのか。
それとも。
わたしは― ―
自分の中のドス黒い感情から目を背けた。
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