第4話 少女、侍女に出会う
朝の光が、カーテンの隙間から細い刃みたいに差し込んでいた。
窓そのものは見えないのに、重たい布の隙間をすり抜けてきた光だけが、ここが「夜の続き」ではなく、ちゃんと時間の流れの上にあるらしいことを教えてくれる。
静まり返った部屋は、やっぱりどこか時間が止まったみたいだった。
甘い花の香りに、微かに混じる鉄の匂い。
それは、まだ生きているという現実と、ここは檻だという事実を、同時に突きつけてくる。
綺麗だ。整いすぎている。
だからこそ、完璧さの裏側にぴたりと貼りついた冷たさが、どうしても気になってしまう。
(夢の中にいるみたい……でも、どこか息苦しい)
この空間が本当に実在しているのか確かめるみたいに、ベッドから足を下ろした。
ひんやりした床の感触に、身体が小さく震える。
まるで夢の中の景色を、手探りでなぞるように、部屋の中を歩いた。
豪華な装飾が施されたクローゼット。
ビクトリア様式に近いチェアやテーブル。
ひとつひとつのデザインが凝っていて、「高価そう」とか「センスがいい」とか、そんな言葉でまとめるのが失礼な気がするほど、全部が「選ばれたもの」に見える。
この『箱庭』の持ち主――ルシェリア。
彼の人となりが、少しだけ透けて見える気がした。
派手さと上品さのバランス。
完璧さに対する執着。
そして、自分の世界を「形」にして並べておきたいという欲望。
(やっぱり、全部“彼の世界”なんだ)
そう思いながら、窓へ、扉へと手を伸ばす。
結果は、分かっていたつもりだった。
それでも、実際に触れて確かめてみないと、諦めるに諦めきれない。
窓も、扉も、びくともしなかった。
取っ手を捻っても、押しても引いても、小さな軋みの音ひとつさえ返ってこない。
まるで最初から、「開く」という機能ごと削ぎ落とされた偽物みたいだ。
(……やっぱり、閉じ込められてる)
予想していた答えと、現実として突きつけられる答えは、同じでも重さが違う。
胸の奥が、じわりと沈む。
小さくため息を零して、ベッドへ引き返そうとした――そのとき。
「お目覚めですか?」
さっきまで沈黙しか返してこなかった扉の方から、今度は声がした。
反射的に振り向く。
あれほどびくともしなかったドアの目の前に、いつの間にかひとりの女性が立っていた。
灰色の光をまとっているような人だった。
輪郭が静かに揺れて見えるのは、光の加減のせいか、それとも彼女が「そういう存在」だからなのか、私には判断がつかない。
「……いつから、そこに?」
思わず問いかけると、彼女は微笑を崩さずに答えた。
「ずっと、でございます。お嬢様が“目覚める”瞬間を見届けるのが役目ですから」
柔らかな声。
なのに、言葉の余韻がやけに長く残って、空気の中に薄く溶けていく。
「改めまして、私はこの屋敷の侍女をしております、レーヴェと申します。本日よりお嬢様の身の回りのお世話を担当させていただきます」
「あ……ご、ご丁寧にありがとうございます」
口が、自動的に“いい子の返事”を返してしまう。
状況は最悪なのに、言葉だけ妙に礼儀正しくて、自分でも少しおかしくなる。
レーヴェと名乗った彼女。
灰色の髪に、淡い色の瞳。
穏やかで、どこか人形みたいに無機質――なのに、話しかけてみると、ちゃんと会話を返してくれる優しさがある。
感情の振れ幅が小さいだけで、冷たいわけじゃない。
そんな不思議な印象を抱いた。
慣れないドレスへの着替えを手伝ってもらう。
肌に密着するコルセットも、歩きづらいスカートも、全部ここに合わせて作られた役衣装のようで、ますます現実感が遠のいていく。
そうこうしているうちに、朝食が用意された。
白い皿の上に、きつね色に焼けたフレンチトースト。
外はサクサク、中はふわふわ――ナイフを入れただけで、それが分かる。
「……これも、レーヴェさんが?」
「はい。お口に合えばよろしいのですが」
丁寧な返事。
当たり前みたいに、ここでの生活がセットされていく感じが、逆に怖い。
(普通に美味しいのが、余計にタチ悪い……)
トーストをひと口食べる。
卵とミルクの甘さがじんわり広がって、空腹だった胃が素直に喜ぶ。
身体の方は、「ここは安全で、心地よい場所だ」と勝手に判断し始めている。
それが何よりも怖かった。
ふと、この人なら――という期待が胸の奥に浮かんだ。
彼女になら、聞いてもいいかもしれない。そんな甘い考え。
「ねぇ、ここから出たいの」
一拍置いてから、レーヴェは静かに首を横に振った。
「申し訳ありません。外の扉は、主の許可がないと開きません」
(……主、ね)
やっぱり、そこに行き着く。
その言葉を聞いたほとんど同じタイミングで、扉が音もなく開いた。
白い手袋が、隙間からちらりと見える。
「僕が一緒なら外に出てもいいよ?」
軽い調子の声。
この屋敷の主――ルシェリアだ。
彼が一歩踏み入れるだけで、部屋の空気が僅かに震えた気がした。
まるでこの空間そのものが、彼の呼吸に合わせて呼吸し直しているみたいに。
朝の光を背に立つ姿は、この世界そのものが彼を中心に回っている、そんな錯覚を見せつけてくる。
オークションの時に着ていた、金の刺繍があしらわれた純白のジャケットではなく、今日はもっとラフな――けれどやっぱり高貴さを隠そうともしないブラウス姿。
細身の身体を引き締めるコルセットと、ハイウエストのパンツ。
そのシルエットが、彼の長い手足と華奢な骨格を、容赦なく際立たせていた。
(たぶん何を着ても似合うんだろうな、この人)
そんなことを思ってしまう自分に、すぐさまツッコミを入れる。
「あなたのいう『箱庭』……“優しい檻”って、部屋の外にすら出られないのね」
できる限り皮肉を込めて言うと、ルシェは肩をすくめるように微笑んだ。
「危険ですから。この屋敷内ならともかく、外には君を狙うものがたくさんいる」
「……信じられない」
即答すると、彼は楽しそうに目を細めた。
「ふふ、いいですよ。信じなくても」
ルシェは微笑みながら、紅茶を差し出してくる。
カップから立ち上る香りだけで、意識の輪郭がふわりとぼやける感じがした。
逃げ場のない甘さ。
口に含む前から、すでに香りだけで少し飲み込まれそうになる。
「ところで、君。名前は?」
何気ないふりをした質問。
でも、その紅の瞳は、はっきりと一歩中に踏み込みたいという光を宿している。
「あなたに教える名前なんてない」
思い切り棘を込めて返す。
ささやかな抵抗くらいはしておきたい。
「へぇ」
紅の瞳が怪しく輝き、そして細く笑った。
「嫌いじゃないですよ、その強気なところ。……では、君が教えてくれるまで、いくらでも待つとしましょう」
声は穏やかだったのに、なぜか心臓が強く跳ねた。
“いくらでも待つ”と言いながら、その実、もうすでに囲い込みは始まっている気がする。
「……ルシェリアさん」
自分で呼んでおいて、舌の上に残るその名前の余韻に少したじろぐ。
「ルシェで構いませんよ、僕の子猫ちゃん」
「子猫ちゃんは嫌」
即座に拒否すると、彼は心底楽しそうに笑った。
「どうして? 警戒心が高くてそっくりじゃないですか。まあ、どうしてもと言うのであれば、“ルシェ”と呼んでくださればやめますよ」
甘く煮詰めた飴のような瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。
彼は時折、露骨に意地が悪い。
ほんの数時間一緒に過ごしただけで、そういう性格なんだと分かってしまう自分がちょっと憎い。
(完全に、手のひらの上って感じがして、居心地悪い……)
そう思いながらも、喉元まで出かかった言葉を飲み込めない。
「………………ルシェ」
観念してそう呼ぶと、彼は即座に返事をした。
「はい、なんでしょう」
紅の瞳が期待の色を帯びる。
その視線から逃げるように、私は真正面から要求を投げた。
「お外に出たいです」
一瞬だけ、空気が止まった気がした。
「駄目だと言っているでしょ」
返ってきたのは、やっぱり予想通りの答え。
けれど、その微笑の奥に、どこか寂しげな影がちらりと見えた気がした。
その瞬間、私は気づいてしまう。
――この檻の鍵を握っているのは、たぶん外の怪物でも、この屋敷の仕掛けでもなく。
きっと彼自身の孤独なんだと。
彼が世界を閉じているのだ。
私を閉じ込めているのと同じくらい、彼自身もまた、ここから出られないのかもしれない。
そう思ったとき、静寂の奥で、ごく微かに鈴の音が鳴った気がした。
あの夜、あの店の前で聞いた、あの音に似た――。
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