第3話 少女、檻に囲われ
目を覚ましたとき、真っ先に視界に飛び込んできたのは、見慣れない天蓋だった。
どこかのホテルの天蓋付きベッド、なんて可愛げのあるものじゃない。
細かすぎるレースと、重そうな布。天井から垂れ下がる影が、まるで私の上に覆いかぶさっている網みたいで、胸がきゅっと縮こまる。
身体の下で、シーツが絹みたいに滑った。
肌に優しいはずの感触が、逆に落ち着かない。
あまりに馴染まなさすぎて、「これは私の居場所じゃない」と布の手触りにまで拒絶されているみたいだった。
鼻先を、甘い花の香りが撫でる。
上品で、どこか高級そうな香り
――なのに、私の中に最初に立ち上がってくるのは、いい匂いじゃなくて逃げ場がないという感情だった。
部屋の空気そのものが、香水の膜で塗り固められているようで、深呼吸ひとつするのさえためらわれる。
その甘さの奥に、うっすらと鉄の匂いが混じっていることに気づいた瞬間、背筋が冷えた。
血の匂い。
さきのオークションの、あの生々しさが一気に蘇る。
厚いカーテンが窓を完全にふさいでいて、外の気配はひとかけらも入ってこない。
朝か夜かも分からない。時計の音すらしない。
静かだ。
でもそれは、眠っている家の静けさじゃない。
世界から切り離されて、ここだけ別の箱にしまわれてしまったような――そんな種類の静寂だ。
(……夢?)
一瞬、そう思いかけた。
そう思いたかった。
(いや、あのオークション……)
鉄格子。
値段を叫ぶ声。
紅の瞳。
思い出した瞬間、胃のあたりがぎゅっと掴まれたみたいに痛くなる。
現実だ。
少なくとも、私の身体はそう判断している。
身体を起こそうとした瞬間、肩に鋭い痛みが走った。
「っ……」
思わず息が漏れる。
視線を落とすと、肩に白い包帯が巻かれていた。
あのとき檻に体当たりした感触が、生々しく蘇る。
手首にも、白布が重ねられている。
縄の痕をごまかすように巻かれた包帯には、乾いた血の茶色い染みが滲んでいた。
(……誰かが、手当てを?)
「助けられた」なんて、安易に言いたくない。
それでも、荒っぽく縛られたまま放置されるよりは、ずっと“丁寧な扱い”だと思ってしまう自分が悔しい。
この世界での自分の価値が商品であることを、包帯の清潔さが逆に突きつけてくる。
「目が覚めましたか?」
穏やかな声が、静寂を軽く叩いた。
心臓が飛び跳ねる。
音の方へ顔を向けると、あの紅い瞳の男が椅子に腰掛けていた。
白いシャツの袖を無造作にまくり上げて、細い指で純白のティーカップを支えている。
淹れたての紅茶を楽しむ“優雅な人”の姿なのに、そこに浮かぶのは安心感ではなく、じりじりする恐怖だった。
「おはよう。……いや、こんばんは、の方がいいかな」
さらりと言って、口元だけで笑う。
ひと口、紅茶を口に運ぶ。
その仕草ひとつひとつがやけにゆっくりに見えて、時計の針もないのに時間だけが引き延ばされていく。
彼はカップをソーサーに戻し、サイドテーブルに置いた。
わずかに首を傾げる、その小さな動きすら計算され尽くした舞台演技みたいで、どこにも隙がない。
「僕はルシェリア。どうぞお気軽にルシェとお呼びください」
名前を告げる声が、妙に耳に残る。
人の名前、というより――魔法道具か何かの固有名を聞かされているような響きだった。
一瞬だけ、その声に人間の温度を感じた気がして、すぐにその自分の感覚を打ち消す。
(騙されない。こういう紳士風が一番タチ悪いんだから)
「あの……どうして私を、その」
自分でも情けないくらい、言葉が喉で絡まる。
「助けた?」
彼が、当然のように続きを言った。
唇がわずかに吊り上がる。
室内の温度が、目に見えないところで一度下がった気がした。
あのオークションで見たときと同じ、美しくて、残酷な微笑。
「違いますよ」
軽く笑う声は、とても人を“商品”と呼ぶ側のものとは思えないくらい柔らかい。
「ただ、君の逃げる姿が面白かっただけです」
刃物のように、さらりと言われた。
胸の奥が、ずくんと痛む。
恐怖と怒りと、悔しさが一度に押し寄せて、うまくどれが何だか分からない。
(……やっぱり。この人、まともじゃない)
傷を手当てしたのも、檻から連れ出したのも、全部「面白かったから」。
そう言い切れることが、何よりも怖い。
彼は椅子から立ち上がり、机の上に置かれたポットから紅茶を注ぐ。
その音まで、やけに静かに聞こえる。
差し出されたカップから、甘く濃い香りが立ちのぼった。
さっきまで感じていた花の香りと混じり合い、この部屋全体が逃がさないと言っているように感じる。
「飲めますか?毒なんて入ってません。僕がそんなつまらない真似をすると思います?」
“毒は入ってない”と言いながら、言葉そのものが毒みたいに喉に貼りつく。カップを受け取ろうとして、指先がわずかに震えた。自分でそれに気づいて、さらに緊張する。
警戒心を隠せない私を見て、彼は喉の奥でくすりと笑った。
「可愛い反応ですね。……人間って、こんなに表情豊かでしたっけ」
可愛い、なんて言葉ですら、この人の口からこぼれると別種の意味に変わる気がする。
(人間ってことは……やっぱりこの人は――)
「人間」ではない側。
同じ言葉なのに、線を引かれてしまった事実だけが、妙にくっきり胸に残った。
「私をどうするつもりなの」
震えを押し隠すように、言葉だけは真っ直ぐ投げる。
「さて。まだ決めていません」
あまりにも軽く返されて、逆に血の気が引いた。
“決まってない”ということは、“何にでもなり得る”ということだ。
彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
一歩近づくごとに、部屋の空気がそちら側へ傾いていく気がした。
「他のヤツらの手に渡るにはあまりに惜しい。ならばいっそ、僕のこの『箱庭』に囲ってしまおうと思ってね」
「『箱庭』……?」
可愛らしい響きのはずの言葉が、この人の口から出た途端、牢屋の別名みたいに聞こえる。
彼の声が、耳の奥で波のように何度も反響する。
その波に合わせるみたいに、心臓が落ち着かないリズムで跳ねた。
「『箱庭』――それは“現実”から切り離された、誰にも触れられない僕の、僕だけの世界」
説明されればされるほど、その世界から出口が削られていくように感じる。
誰にも触れられない。
聞こえは綺麗だけれど、それはつまり、誰も助けに来ないということだ。
「ねぇ、人間。君は自由がほしい?」
紅い瞳が、真正面から私を射抜く。
問いかけというより、試されているような視線だった。
「……当たり前でしょ」
喉がからからなのに、なんとかそう答える。
ここで「はい」と言わなかった自分が、辛うじて最後の線を守った気がした。
「そう。ふふっ、少しは楽しめそうだね」
楽しそうに笑うその声が、背筋に冷たいものを這わせる。
そのまま彼の指先が、私の顎をすくい上げた。
逃げようとしても、紅の瞳が視線を絡め取る。
近くで見るその色は、血のようでいて、宝石のようでもあり、底が見えない。
「僕が君に絆されるのが先か、君が僕に絆されるのが先か――実に興味深いとは思わないかい?」
耳元で囁かれた言葉は、甘い鎖みたいだった。
どこにも鍵穴がない、飾りだけは美しい鎖。
紅の瞳がふっと微笑む。
その目に映っている自分が、檻の中の小動物みたいに見えて、ぞっとする。
彼の指が、そっと私の目を覆った。
すぐそこにある冷たさ。
なのに、その冷たさに触れたところから、じわじわと意識が溶かされていく。
花の香りが遠のいていく。
嫌でも感じていた鉄の匂いも薄れ、音がひとつ、またひとつと消えていった。
沈んでいく意識の底で、彼の声が甘く絡みつく。
「逃げてもいい。ただし、僕からそう簡単に逃げられるとは思わないことですね」
“逃げてもいい”と言われているのに、そこにまったく自由の気配がないことだけは分かる。
沈みゆく思考のどこかで、鈴の音が微かに響いた。
――檻の外は、まだ、遠い。
静寂の奥で、鈴の音といっしょに、かすかな笑いが混じった気がする。
夢の残り香みたいに、甘くて、やけに遠い。
やがて、闇の底で、紅の声がやさしく囁いた。
「おやすみ、良い夢を」
その言葉が蓋になって、世界がそっと閉じられた。
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