第2話 少女、甘く優しい檻へ
心臓が、胸の内側から無遠慮に叩きつけてくる。
ドク、ドク、と音がうるさいくらいで、自分の鼓動に追い立てられているみたいだった。
喉は焼けつくように熱いのに、手足は相変わらず氷水に浸されたみたいに冷たい。
身体の中で熱と冷たさがちぐはぐに暴れていて、自分の温度がどこにあるのか分からない。
息が苦しい。肺が火事みたいに悲鳴を上げている。
それでも、走るのをやめたら本当に終わる――その確信だけが、もつれそうになる足を前へと押し出していた。
(止まったら捕まる。捕まったら、さっきの続きだ。今度こそ終わり)
そんなイメージが頭の中で勝手に映像になって、余計に足を止めることができなくなる。
背後から、怒号が追いかけてくる。
石畳を叩く足音が、重なり合って大きな波みたいに迫ってきた。
音の厚みからして、追っているのは一人や二人なんかじゃない。
このまま真っ直ぐ走っているだけでは、いつか確実に追いつかれる。
それくらいのことは、恐怖で混乱している頭でもはっきりと分かった。
(どこかで曲がらなきゃ……)
肺が「やめて」と悲鳴を上げているのに、
心臓は「まだ走れ」と命令してくる。
思考も感覚も、全部がバラバラな方向を向いているのに、それでも視界だけは必死に逃げ道を探していた。
視界の端に、曲がり角が見えた。
何があるか分からない。
だけど、ここに留まる方がよっぽど怖い。
意を決して、私はそこを飛び抜けた――ちょうどそのとき。
「こちらへ」
耳元で、低く穏やかな声が囁いた。
あまりにも突然で、悲鳴を上げる暇すらない。
反応するより早く、腕を掴まれる。
ぐい、と強い力で引かれ、背中が硬いものに押しつけられた。
壁。
冷たい石の感触が骨を通して伝わってきて、肺から空気が押し出される。
「……っ」
息が詰まり、咄嗟に顔を上げる。
目の前に立っていたのは、金の刺繍があしらわれた純白のジャケットを羽織る男。
布地の質の良さが、薄暗い廊下の中で異様に浮いて見える。
そして――さっき、バルコニーから私を見下ろしていた、あの紅の瞳だった。
「……あなたは、さっきの……!」
喉から無理やり押し出した声が震える。
恐怖なのか、息切れなのか、それとも別の感情なのか――自分でも判別がつかない震えだった。
「ふふ。逃げる人間を見るのは、久しぶりですね」
彼の口元に浮かんだ微笑は、愉悦でゆるやかに歪んでいた。
からかうような、玩具を見つけた子どものような
――それでいて、底の見えない笑み。
艶やかな絹糸のような白い髪が、私の頬をかすめる。
ほんの一瞬、軽く触れただけなのに、背筋を冷たいものがぞくりと走った。
その直後、ふと香りがした。
熟成されたワインのような、重たく甘い香り。
その奥に、かすかに滲む鉄の匂い。
鼻腔をくすぐるその香りは、さっきまで会場に満ちていた血の臭気より、ずっと洗練されていて、ずっと危険だった。
(怖い。……のに、その怖さすら忘れるくらい、綺麗)
こんな状況で、そんな感想が浮かぶ自分に腹が立つ。
けれど、それでも彼の存在感は「美しい」としか形容しがたかった。
芳醇で甘く、それでいてどうしても隠しきれない鉄の香り。心臓の奥で、何かがとろりと溶けるような音がした気がした。
「怖くないのかい?」
囁くような声が、耳のすぐ近くで響く。
耳元なのに、どこか遠くから聞こえてくるような、不思議な響き方をする声だった。
「怖いに決まってる」
反射的に言い返していた。
肺に残っていた空気を勢いよく吐き出すみたいに、短く、荒く。
男の指先が、そっと頬をなぞる。
氷のように冷たい肌の感触に、思わず肩がビクリと跳ねた。
冷たいはずなのに、心臓だけがますます熱を帯びていく。
鼓動が早まるのは、恐怖のせいだ――そう何度も自分に言い聞かせる。
穏やかに放たれる言葉が、耳の奥にするりと入り込んで、甘く絡みつく。
まるで、見えない鎖を一本一本かけられていくみたいに、身体の自由がゆっくりと奪われていく気がした。
「……あなたも、向こう側の人なんでしょ」
なぜ口にしたのか、自分でもよく分からない。
それでも、この男が「人間ではない側」に立っている――その確信だけは揺らがなかった。
「まぁ、そんなところです」
男は楽しげに笑う。
美しくて、残酷で――それでも目を逸らせなくなる笑み。
細められた紅の目が、檻の中から見上げたときの姿と重なる。
その重なりを認識した瞬間、心臓が小さく跳ねた。
「君、面白いですね」
紅い瞳が、じっとこちらを覗き込む。
獲物としてではなく、興味深い標本を見るような目だった。
「放して」
ようやく絞り出した言葉は、予想以上に頼りなくて、情けなく耳に届く。
「嫌ですよ。こんな面白い人間、滅多にいませんから」
くすりと笑いながら、彼は指先で私の頬のラインをもう一度なぞる。
その仕草はあまりに自然で、まるで日常のひとこまみたいですらあった。
けれど、この状況は日常から何万キロも離れている。
その乖離が、逆に今の自分の置かれている現実を、よりくっきりと浮かび上がらせる。
紅の瞳は、不思議と冷たくなかった。
ただ静かに、私という存在を観察している。
バタバタと足音が近づいてくる。
追っ手の気配。
怒鳴り声が、とうとうここまで届きそうな距離になっていた。
見つかるのは時間の問題だ。
今は、この男に構っている場合ではない
――頭では分かっているのに、身体はうまく動かない。
(離れなきゃ。ここにいたら、本当に――)
胸の奥で警報が鳴り続ける。
無理やり腕を振りほどこうと、力を込めたその瞬間。
「安心してください。ここでは誰も君に触れません」
男が、あまりにも自然にそう言った。
(……あなた以外は、でしょ)
胸の内だけで呟いたつもりだったのに、男の口元が愉快そうに歪む。
「ふふっ、あなた、存外分かりやすいですね」
紅い瞳が、からかうように細められる。
その視線に射抜かれるたび、自分の心の内側まで根こそぎ見透かされている気がした。
「さあ、おいで。君を“安全な場所”に連れていこう」
伸ばされた手。
その言葉の「安全」が、どんな意味を含んでいるのか全然分からない。
それでも、迫りくる足音と、この場からどうにかして逃げたいという本能が、私の躊躇を容赦なく押し流していく。
眩しい光が視界を包んだ。
世界が一度、白で乱暴に塗りつぶされる。
瞼を閉じる間もなく、景色が切り替わっていた。
柔らかな感触が背中を支えている。
目を瞬かせると、天蓋つきの豪奢な寝台が視界に広がった。
天井には繊細な彫刻。
重厚なカーテン。
空気には、香水のような花の香りが満ちている。
さっきまで鼻についた血と鉄の臭気は、跡形もなかった。代わりに満ちている甘さが、さっきのオークションが夢だったと言い張ってくれる。
――けれど、痛みがそれを簡単には信じさせてくれない。
ただ一つだけ、変わらないものがある。
寝台のそばで、紅の瞳の男が、静かに微笑んでいた。
「ようこそ、僕の屋敷へ。君が逃げた“檻”よりも、少しだけ――甘い檻ですよ」
その言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
甘さと、冷たさと、得体の知れない予感をぐるぐるに混ぜ合わせながら。
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