幻影の主は、檻の中で愛を乞う

あぽろのすけ

第1話 少女、オークションに

 目を開けた瞬間世界は暗闇で塗りつぶされていた


 真っ黒、という一言では片づけられない。

 視界いっぱいに広がるのは、濃く沈んだ墨を何度も重ねたみたいな暗さで、どこまでいっても底が見えない。


 光がない。輪郭がない。

 自分のまぶたすら、本当に開いているのかどうか分からなくなってくる。


 ただの暗さじゃない。

「何も見せない」と決めた誰かに、意図的に視界を奪われているような、そんな種類の闇だ。


 耳を澄ますと、張りついた静けさの向こう側で、何かがかすかに軋んだ。

 鉄が擦れるみたいな、古い木材がゆっくり悲鳴を上げるみたいな、遠い音。


 それだけが、この闇が――私の都合とは関係なく進んでいる「現実」なんだと、無理やり納得させてくる。


 喉が張りついて、うまく息が吸えない。

 吸い込む空気はぬるくて重く、冷たさとも温かさとも違う、どこか濁った感じだけが肺の奥にたまっていく。



(ここ、どこ……?)



 状況を考える前に、まず不安だけが膨らんでいく。


 やがて、その静寂を割るように、男の声が響いた。



「続いての品は――“人魚の鱗”五百グラム!」


(……オークション?)



 あまりにも場違いな単語に思考がついていかない。

 乾いた喉がひゅっと鳴った音が、やけに大きく耳に返ってきて、自分の身体だけがこの暗闇の中で浮いているような心もとなさが一気に増した。


 しばらくして、暗闇を形づくっているものの正体に気づく。目のすぐ前ぎりぎりまで、何か分厚い布が垂れ下がっている。


 布越しに、くぐもったざわめきが聞こえた。笑い声とも、囁きともつかない音が、重たく滲んでいる。


 両手は後ろで固く縛られていた。

 手首に食い込む縄のざらつきが、じわじわと痺れに変わって、そこから先の指の感覚を奪っていく。


 背中には、冷たい鉄格子の感触。

 硬くて無機質なその冷たさだけが、ここまでが自分の背中と、輪郭をかろうじて教えてくれていた。


 汗が皮膚にまとわりつき、それが少しずつ冷えていく。


 鼻を刺すのは、鉄錆と乾ききらない血の匂い。

 どこだか分からない場所で、どこの誰とも知らない何かが息をしている気配が、じっとりとまとわりついてくる。



(嫌だ……ここ、絶対普通の場所じゃない)



 胸の奥で、ようやく言葉が形になる。



 私――檻の中にいる。



 その事実をはっきり自覚した途端、怖さが一気に色を持って迫ってきた。



(なんで……私、どうしてこんなところに?)


 頭の中に、焦りが薄い膜みたいに張り付く。

 その膜の内側で、逃げ出したい感情だけが暴れているのに、そのさらに下では、もうひとつの自分が冷静に過去をたぐり寄せようとしていた。


 ◇


 長引いた残業が終わったのは、終電の時刻表が頭をよぎるような時間だった。

 高校を卒業して入った会社は俗に言うブラック企業で、充電を逃すことだって多々あった。


 蛍光灯の光は相変わらず白く、デスクに積み上がった書類も、上司の愚痴も、その日一日の疲労も。

 全部オフィスに置いてきたつもりなのに、身体の芯にだけ、じくじくとした重さが居座っている。


 ビルを出て夜風を吸い込むと、その重さがほんの少しだけ溶けた気がした。

 冷たい空気が喉を撫でてくれて、やっと「今日が終わるんだ」と実感が追いついてくる。


 歩き慣れた道。

 コンビニの看板、閉店しないチェーン居酒屋のちょうちん、マンションの窓から漏れる青白いテレビの光。


 いつもの景色。

 いつもの道。

「いつもどおり」が、ぐったりした自分を安心させてくれる――はずだった。


 なのに、その流れの中に、ぽつんと異物が混ざっていた。


 そこだけ、時間の流れが違うみたいに、静かに灯りをともす店。

 まわりのコンビニや居酒屋の光が「現代」だとしたら、その店の灯りだけが、別の時代から切り取られてここに置かれたみたいに浮いて見える。


 ガラス越しに、室内の一部が見えた。


 丸みを帯びた白い陶器。

 こすれば気持ちよさそうな、厚手のラグ。

 壁には、長い年月をくぐり抜けてきたような振り子時計。


 全部、「オシャレ」「可愛い」で片づけられそうなものばかりなのに、今の私には、どれもこれも“ここだけ別世界です”という札をぶら下げているように見えた。



(こんな店、あったっけ……?)



 毎日のように通っている道だ。

 昨日まで、ここは空きテナントだった――と断言しかけて、記憶に自信がなくなる。

 疲れで見落としていただけなのか、本当に突然現れたのか、そのどちらとも言い切れない。


 確信と、「私が見逃してただけかも」という情けない迷いが、胸の中でぶつかり合う。


 そのとき、風鈴のような、鈴のような音が風に揺れた。


 夏祭りの屋台を思い出させる、透明な音色。

 なのに、そこに人の気配はない。

 耳のすぐそばで鳴っているのに、遠くでも同時に鳴っているような、不自然な響き方だった。


 その音が、私の疲れた神経の一番弱いところをピンポイントで撫でてくる。



(……なんか、変。でも、ちょっとだけなら)



 知らないものへの警戒と、「現実から一歩だけ外れてみたい」気持ちが、ほんの少しだけ前者に負ける。


 気づけば足が自然と店のほうへ向かっていた。

 今日一日まとわりついていた疲れが、少しだけ遠のくような、ふわっとした感覚が胸に広がる。



(ちょっとだけ見て、すぐ帰ろう。見るだけ、見るだけ)



 自分にそう言い訳して、重そうなドアノブに手をかける。


 ギイ、と少し大げさな音を立てて扉が開くと、内側でまた小さく鈴が鳴った。

 さっきよりも近くで聞こえるのに、やっぱり現実感が薄い。


 ひんやりとした空気が肌を撫でる。

 外よりも気温が低いわけじゃないのに、空気に含まれている“温度”だけが違うような感じがした。


 壁一面に並んだ棚。

 陶磁器と古い本と、色あせないガラス細工。


 それぞれはただの物のはずなのに、全部でひとつの「景色」を作っていて、その景色そのものが私を試しているみたいに見える。


 その奥で――何かの「気配」が、ふっとこちらを振り向いた気がした。


 人かもしれないし、人でないものかもしれない。

 姿が見えないのに、「見られた」とだけははっきり分かる感覚。


 名前のつかないその気配に、私は思わず視線を奥へ投げてしまう。


 ――あ、やばい。踏み込んじゃいけないところに、踏み込んだかも。


 そう思ったあたりで、記憶はぷつりと途切れていた。


 ……そこから先の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちている。


 ◇



「それでは次の品です。“人間種の少女”――希少な完全個体! 食すもよし、愛玩にするもよし」



 耳に突き刺さるようなその言葉に、息が止まった。


「人間種」。

「少女」。

「完全個体」。


 ひとつひとつの単語が、頭の中でゆっくりと組み合わさっていく。

 そのパズルが完成した瞬間にできあがる絵は、あまりにも最悪だった。



 私のことだ。



 全身の血が、一気に心臓の中心から引いていく。

 手足の先が冷えきって、自分の身体が自分のものじゃないみたいに遠くなる。


 恐怖は、津波みたいに一気に押し寄せてくるんじゃなかった。

 ぬめっとした泥が足元から這い上がってきて、膝、腰、胸へとじわじわ侵食してくるような感覚だった。


 ざわ、と空気が震える。

 すぐ目の前の黒い布が、乱暴に引きはがされた。


 光が雪崩れ込んでくる。


 長く暗闇に慣れていた目には、それはただ白い炎みたいに眩しくて、思わず顔をしかめた。


 ぱちぱちと瞬きを繰り返して、ようやくぼんやりと形が浮かんでくる。

 格子越しの、外の世界。



「可愛い顔だ」「人間なんて久しぶりに見た」

「血を抜けば長持ちするぞ」



 飛び交う声。笑い声。

 それは、職場の飲み会で耳にするような、人間のざわめきとは明らかに「質」が違っていた。


 そこにいるのは、人間と呼ぶにはあまりに「異質」な存在たちだ。


 むき出しの牙を覗かせて笑う者。

 額から、ねじれた角をそびえ立たせている者。

 背中に翼らしきものを畳んだまま、じっとこちらを値踏みするように見ている者。


 目の色も、肌の色も、私の常識から遠く離れている。

 青白い皮膚。煤けた鉄みたいな黒。

 暗闇の中で、微かに光を放つ瞳。


 舞台のように高く設えられた檻――その中にいるのが私で、その前に整然と並んでいるのは、文字どおりの「怪物」たちだった。



(……やばい。本当に、やばい。冗談じゃなくて、文字どおり――食べられる)



 頭の中で警報が鳴り続けるのに、身体の自由は今ひとつ戻ってこない。



「五千万クリートから!」

「六千万!」「八千万!」



 聞き慣れない通貨の名。

 それでも、そこに込められた熱だけで、それが「高値」であることくらいは分かる。


 彼らは本気で、私に値段をつけている。

 肉として。玩具として。

 そのどちらに転んでもいい、という顔で。



(……夢、だよね? だとしたら、趣味が悪すぎる)



 現実感が足りない。

 なのに、頬を撫でる風の冷たさも、鉄格子の硬さも、手首に食い込む縄の痛みも、やけにリアルだ。


 恐怖で頭が真っ白になる――はずなのに、どこかで冷静な自分が顔を出す。


 逃げなきゃ。


 その言葉だけが、この状況の中で唯一、はっきりとした形を持っていた。


 私はそっと足元に目を落とす。

 檻の床に、小さなガラス片が散らばっていた。

 照明を受けて、かすかに光る透明な断片。


 それが、ここで唯一味方になってくれそうなものに見えた。


 足先でそれを引き寄せる。

 縄が擦れて音を立てないように、慎重に、ゆっくりと。


 体勢を変えないようにしながら、後ろ手の指先を伸ばす。ガラス片に触れた瞬間、冷たくて鋭い感触が皮膚をなぞった。



(大丈夫。切れる。切れるはず)



 自分に言い聞かせるようにして、縄にガラス片を押し当てる。


 ごり、と繊維が削れる感触。

 同時に、自分の指先も切れて、温かい液体がじわりとにじみ出る。


 血の匂いが強まった気がした。

 それに釣られるように、周囲の視線が少しこちらに集まったようにも感じる。


 けれど、今は痛みを数えている暇なんてなかった。



「一億!」「一億五千!」



 値段が跳ね上がるたびに、歓声とどよめきが大きくなる。

 そのたびに、背筋がざわざわと粟立つ。


 知らない単位で、自分の命に値段がつけられていく。

 その不快感と、どうしようもない現実味を帯びた恐怖が、胸の中で絡まりあう。



(早く。早く切れて)



 焦りで指先に余計な力が入る。

 縄を削る感触と、肉を裂く感触。

 その境目が曖昧になっていく。


 そのとき、ふ、と空気が変わった。


 背中を、冷たいものが撫でる。


 視線――だ。


 ただ見られているだけなのに、肌の上を氷の指でなぞられたような感覚が走る。

 その視線は、値踏みでも、好奇でも、欲望でもなく、もっと別の何か。

 言葉にできない異質さを孕んでいた。



(……誰か、見てる)



 思わず顔を上げる。


 視線の先。暗がりの上段、バルコニーの影。

 そこに、ひとつの白い影が立っていた。


 金色のワイングラスを揺らしながら、

 静かにこちらを見下ろしている。



 目が合った。



 心臓が、一拍遅れて跳ねる。


 紅い瞳――夜の底に沈んだ宝石のように、冷たく、研ぎ澄まされた光。


 睨んでいるわけでも、笑っているわけでもない。

 ただ、興味深そうに、じっと観察している目。

 それだけなのに、その一瞥だけで、呼吸のリズムが一気に乱された。


 私は、居心地の悪さに耐えきれず、瞬間的に視線を逸らす。


 会場のざわめきが、さらに熱を帯びる。

 その渦の中で、誰かが言った。



「おい、あの子……動いてないか?」

「さっきより姿勢が違うぞ」



 会場がざわりと揺れた。



(しまった)



 胸の奥で小さく自分を呪う。

 オークショニアが眉をひそめ、係員に目配せした。



「確認を。状態に異常があれば値が下がる」


(でも、今しかない。今以外にない)



 縄はもう、ところどころほつれている。

 あと少し。あとひと削り。


 鍵を手にした係員が、檻の前に立った。

 視線が、冷たい興味を帯びてこちらを舐める。

 錠前に鍵が差し込まれ、金属が擦れる音が静かに響いた。


 ――その瞬間、縄がぷつりと切れる感触がした。


 身体を支えていたものが消え、手首が一気に軽くなる。

 同時に、扉のロックが外れる小さな音。


 私は、その二つの合図を確認すると同時に、全身の力を込めて立ち上がり、扉を蹴りつけた。



「きゃあっ!?」「逃げたぞ!」



 悲鳴と怒号。

 鎖の跳ねる音。

 仰け反った観客のざわめき。


 全部を背中側に押しやって、私はただ走った。


 どこへ向かうかなんて分からない。

 ただ、この檻から、この場所から、

 一歩でも遠くへ――。


 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

【あとがき】

 お読みいただきありがとうございます。

 こちらの作品は「カクヨムコンテスト11」に

 エントリーしています。


 この作品には思い入れが強く、

 なんとしても読者選考を突破したい……!と

 本気で願いながら書いています。


「少しでもいいな」「続きが気になる」と

 思っていただけましたら、

『作品フォロー』と『☆レビュー』で

 応援してもらえると、とても励みになります。


 皆さまのそのひと手間が、

 この作品を先へ進ませてくれます。


 それでは、どうぞこの先もお楽しみください。


 あぽろのすけ

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