閑話 紅を見た夜
あの夜のことを、俺は今でも時々、夢に見る。
血の匂いと、煮詰まった欲望のざわめき。
喉の奥にへばりつく熱気。
そして――檻の中の少女。
オークションの仕事なんて、とうに慣れているはずだった。
生きた獲物を扱うのも、もはや日常。
泣こうが叫ぼうが、値札がついた時点で、ただの“商品”だ。
……なのに、あの人間を初めて見た瞬間だけは、背筋が妙に冷えた。
「完全個体」「希少」「愛玩にも最適」。
司会の声が、いつもの調子で会場に響くたび、客席からは下卑た笑いが上がる。
誰もが口々に値を競り合い、自分の欲望を、金色の数字で飾り立てていた。
俺も、その輪の中にいるはずだった。
いつも通り、落札者の護衛兼監視の仕事を請け負い、
“品”を確実に納品する――それだけが、俺に与えられた役割。
全部、いつもの夜のはずだった。
けど、あの夜だけは違った。
檻の中の少女が、まっすぐ前を見ていたからだ。
泣き叫ぶでもなく、諦めて俯くでもなく。
まるで何かを探しているみたいに、暗闇の向こうを見据えていた。
(……怖がらねぇのか)
最初に浮かんだのは、そんな場違いな感想だった。
そう思った瞬間、彼女の背後で、小さく光るものが目に入った。
ガラスの破片。
あとになって考えれば、あれがすべての始まりだった。
「……おい、あの子、動いてないか?」
誰かがそう言った。
それは、ただの違和感の指摘だったはずなのに
――その一言で、空気が一段、低く変わった。
次の瞬間、鉄格子が破られる音がした。
驚く暇もなく、少女が飛び出した。
檻を蹴り破るあの瞬間だけ、あの目は獣みたいに鋭かった。
群衆が一斉に悲鳴を上げ、獣たちが獲物を見失った肉食獣のように立ち上がる。
熱気が爆ぜ、ざわめきが渦になった。
俺はすぐ追いかけた。
それが俺の仕事で役目だったからだ。
“逃げた品”は、生かして返せない。
――本来なら、な。
だが、通路を抜けた先で見た光景が、
それまでの俺の常識をひっくり返した。
「こちらへ」
低い声が、闇を滑る。
その瞬間、空気が震えた気がした。
見えたのは――紅。
薄暗い回廊の奥。
そこに、男が立っていた。
白い髪。紅い瞳。
そして、血よりも濃い色をして揺れる魔力の気配。
周囲の空気が、一瞬で膝を折らせるほどの圧を帯びた。
俺は思わず壁に手をついた。
肺が急に働き方を忘れたみたいに、呼吸がうまくできない。
身体が動かない。
ただ、見ていることしかできなかった。
男は少女の腕を取り、静かに囁く。
「逃げる人間を見るのは久しぶりですね」
その声音に、なぜだか、ぞくりと震えた。
殺意も怒りもない。
それなのに、心の一番奥の柔らかいところを、素手で掴まれたような感覚があった。
少女は怯えながらも、目を逸らさなかった。
あの紅を、真正面から見返していた。
――まるで、惹かれているみたいに。
次の瞬間、光が弾けた。
強烈な閃光でも、爆発でもない。
世界の色だけを一度、白に塗り替えるような光。
気づけば、二人の姿は消えていた。
残されたのは、紅の残滓と、石がわずかに焦げたような匂いだけ。
そこにいた誰も、何も言えなかった。
沈黙を裂くみたいに、やがてオークショニアが現れる。
「……ルシェリア様が動かれた」
そう、低く一言だけ呟いた。
その名を聞いた瞬間、背筋が凍る。
ルシェリア。
幻影界でも最上位に位置すると言われる存在。
「絶滅しかけた幻獣の生き残り」だって話もある。
さらには「世界を編む力を持つ」なんて、冗談みたいな与太話さえ囁かれるほどの。
「逃げた人間は……彼に選ばれたということだ」
主催者は淡々とそう言った。
“選ばれた”。
その言葉がどういう意味を持つのか、誰も説明しない。誰も訊こうともしない。
けれど、あの紅を一度でも見たら分かる。
――逆らえない。
その夜、会場は早々に閉鎖された。
何もなかったかのように、記録はすべて抹消される。
客たちは記憶を封じられ、
職員の大半も、跡形もなく姿を消した。
気づけば、俺だけが偶然、生き残っていた。
それ以来、俺は夜の鈴の音が怖くなった。
風もないのに、チリ、と鳴る音を聞くたびに、
あの紅い瞳が、脳裏の暗闇から顔を出す。
夢の中で、何度も同じ場面を見る。
暗闇。檻。紅い光。
そして――少女の瞳。
逃げたはずの彼女が、
その紅に包まれて、微笑んでいる夢を。
それが救いなのか、それとも別の檻なのか。
俺には、分からない。
ただひとつだけ、はっきりしているのは。
あの紅を見た瞬間、俺の中で“現実”と“夢”の境界が壊れた、ということだ。
あの夜から、
俺の世界も、ずっと――檻の中だ。
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【あとがき】
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