水路の決壊(ブレイクアウト)


水脈庁の地下拠点。湊と零は、神崎の冷酷な言葉と、裏切りの代償を払う覚悟を決めていた。夜が明ける前に、この管理された「水脈の底」から脱出しなければならない。


「神崎の言葉通り、この施設は私たちの『残響』の動きを完全に監視しているはずだ」湊は、訓練室の隅にある古い工具箱を手に取りながら、零に囁いた。「特に、俺の『回路』の波長は識別されやすい」


「なら、どうやって逃げるの?」零は不安を隠せない。


「俺の回路は、流れを操作できる。脱出には、沙織先生の『アンダースタンド』の目を掻い潜る必要がある」


湊は、工具箱から取り出した導線と、訓練室に残されていた残響計測用のセンサーの破片を組み合わせ始めた。


「俺たちの『流れ』を隠すことはできない。だから、大量のノイズで、沙織先生の目を塞ぐ」


湊は、自らの『回路』を起動させ、センサーの破片に、無数の小さな「無意味な願望」や「瞬時の感情の欠片」といったノイズデータを流し込んだ。


【チューニング開始:ターゲット:システム・ノイズ(攪乱)】


青い光を放つセンサーの破片を、湊は訓練室の隅にそっと置いた。


「これは、このフロアの『残響制御システム』に流し込む、一時的な濁流だ。システムが過負荷でフリーズする。その一瞬だけ、沙織先生の『アンダースタンド』も、ここから先の水路を見失う」


零は、緊張した面持ちで頷いた。

二人は訓練室を出て、中枢から離れた通路を走り出した。地下の冷たい空気が、彼らの肺を刺す。


案の定、彼らが訓練室を離れて数分後、施設内に警告音が響き渡った。


【警告:残響システム・データ異常。一部フロアの監視停止】


「今だ!」湊は零の手を引き、水脈庁のエネルギーコアから遠ざかる通路を選んで走った。彼らの目標は、あの夜、沙織が使った保健室へと繋がる螺旋階段だ。


しかし、彼らが逃走経路として選んだ通路の先で、一台のエレベーターが静かに停止した。


中から現れたのは、御影沙織だった。彼女は白衣ではなく、水脈庁のエージェントが着用する、機能的な黒い制服を身にまとっている。その手には、残響鎮圧用の特殊なガンが握られていた。


「残念よ、雨宮君。あなたは、私の能力を過小評価している」沙織は、冷たい目で二人に銃口を向けた。


「あなたの『回路』が『ノイズ』を流し込んだことは、すぐに理解できたわ。だが、私が『アンダースタンド』で読み取ったのは、そのノイズを生み出すあなたの焦燥感よ」


沙織は、逃走経路を完全に予測していた。


「私たちは、あなたたちの力を失うわけにはいかない。特に、零の『カスケード』は、世界のバランスを保つために必要不可欠だ。戻りなさい」


沙織は一歩踏み出し、銃口を零に向ける。


「戻れば、あなたたちの理想を破壊者として処分することはしないわ。約束する」


「嘘だ!」湊は叫んだ。「あの『濁流』を切り捨てた組織が、俺たちの理想を尊重するわけがない! 俺たちは、あなたたちの犠牲にはならない!」


湊は、沙織の銃口が零に向いた隙を突いた。


【チューニング開始:ターゲット:沙織の足元】


湊は、零の『カスケード』の残響(訓練中に残された微細な粒子)を、沙織の足元のコンクリートに流し込み、その空間の法則を「滑りやすい状態」に一時的に書き換えた。


沙織は、一瞬の異変に気づき、体勢を立て直そうとするが、間に合わない。彼女の足が滑り、バランスを崩した。


その隙に、湊は零の手を引き、通路脇にあったメンテナンス用ハッチを蹴破った。ハッチの奥には、渋谷の廃墟となった古い地下水路が広がっていた。


「逃げるわよ、零!」


「待ちなさい!」沙織の声が背後から響く。


湊と零は、地下水路の濁った水の中へ飛び込んだ。沙織はすぐに立ち上がり、鎮圧用の光線を二人に向けたが、二人の姿はすでに地下水路の複雑な構造の奥へと消えていた。


沙織は、銃を下ろし、冷徹な表情の奥に、わずかな動揺を滲ませた。


「神崎様…『特異点』二名が逃走。脱出経路は、旧・地下水路です。追跡部隊を投入してください」


彼女は通信を終えると、湊が残した「滑りやすい状態」の空間の法則を、自身の能力で元に戻した。その作業は、彼女の体をひどく消耗させた。


「世界の管理を拒むか…雨宮 湊。その傲慢な『治水技術』、必ず回収してやるわ」


沙織は、自身がこの戦いの、最も危険な監視者であり、追跡者であることを再認識した。そして、この逃走劇が、彼らの運命だけでなく、世界の法則そのものを揺るがす戦いの始まりだと悟ったのだった。

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