限界警報(オーバーフロー)


水脈庁の地下深くに位置する調整室。湊と零は、今日も御影沙織の監視のもと、能力の連動訓練を繰り返していた。零は、感情の波を安定した青い光のフィールドに変換する術を学び、湊は、そのフィールドに僅かな乱れが生じた瞬間、即座に『安定(スタビライズ)』のチューニングを流し込む練習をしていた。


「遅い、湊。零の『流れ』が乱れてから0.3秒の遅延。その間に、法則の亀裂は周囲のコンクリートを浸食するわ」沙織の指摘は容赦ない。


「くっ…」湊が悔しげに右腕を握りしめたとき、調整室の壁に設置されたモニターが、赤く点滅し、けたたましい警告音を発した。


【警報:オーバーフロー発生。エリア:渋谷・宮益坂。残響レベル:臨界突破】


沙織の表情が一瞬で引き締まった。


「事態発生よ。訓練は中断」


沙織が手元の端末を操作すると、メインモニターに渋谷の地図と、青いエネルギーの流れを示す「水脈」の図が表示された。その一角、宮益坂エリアを示す箇所が、急速に黒く、ドロドロとした色に染まっていた。


「これが…」零が息を飲んだ。

「新たな『濁流(ストリーム)』の発生よ」沙織が説明する。「君の『カスケード』のような純粋な青ではない。破壊的な負の『意志』によって、世界の法則を乱し、周囲の残響を汚染しながら浸食している」


統括責任者である神崎が、通信回線を通じて声を発した。


「御影管理官。現場の状況は?」


「神崎様。レベルは臨界突破。一般人の意識への干渉が始まっています。早急な鎮圧と、『回収』が必要です」沙織は一切の私情を挟まず報告した。


「よろしい。新たな特異点である『治水技術者』と『流れの担い手』を、現場へ投入せよ。実戦経験を積ませる。任務は、濁流の無力化と、残響発生源たる能力者の回収だ」


湊と零は、顔を見合わせた。自分たちの力が、初めて、誰かを傷つけるかもしれない状況で使われる。


「待ってください、神崎様」零が思わず口を開いた。「回収とは…その人も、私と同じ能力者なんでしょう?救済はできないんですか?」


神崎の声は冷たかった。「救済は、我々の管轄外だ。世界のバランスを保つためには、不安定な要素は排除する必要がある。彼らは、世界の法則を乱した罪人よ。任務に集中せよ、零」


沙織は、二人に振り返った。

「あなたたちの実戦訓練よ。いいわね。零は『カスケード』の安定放出による抑圧。湊は、私が『濁流』の本体に近づけるよう、周囲のノイズを『整流』する。そして、最後に鎮圧と回収を行う」


沙織は、壁のロッカーから、二人に特殊な素材で作られた動きやすい制服を手渡した。それは、彼らの能力を増幅し、外部の残響から身を守るためのものらしい。


三人は、特殊な高速エレベーターで一気に地上へと向かった。


夜の雑居ビル街に到着すると、そこは既に異様な光景と化していた。


周囲のビルの窓ガラスは、まるで内側から熱で融解したかのように歪み、街灯はランダムに点滅している。そして、最も異常なのは、立ち込める空気の重さだ。


湊には見える。空気が、ドロドロとした黒い泥のような残響粒子で満たされ、人々の感情をねじ曲げ、不快感と絶望を撒き散らしている。


「あのビルだ」沙織が、宮益坂の裏手にある、特に歪みが激しい雑居ビルを指差した。


『諦めない気持ちが ずっとここに 満ちているから』


湊の心に、零と誓った決意が蘇る。これは、あの夜の救済とは違う。これは、戦いだ。


ビルの中から、低い唸り声のような残響が響き渡る。湊の右腕の「回路」が、訓練室とは比べ物にならない、本物の破壊の奔流に反応して激しく警告の光を放ち始めた。


「準備はいいわね、治水技術者。流れの担い手」


沙織の冷徹な声が、夜の闇に響いた。


「これが、世界の裏側よ。理想論は捨てなさい。生き残ることが、世界のバランスを保つ唯一の正義だ」


湊と零は、互いの顔を見つめた。その瞳に、迷いはなかった。彼らは、自らが望まぬ形で世界の管理者となり、初めて、世界の法則を乱す存在と対峙する。

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