水脈庁へ


保健室の床下に現れたのは、磨き上げられた金属でできた螺旋階段だった。その奥からは、冷たい、湿った空気と共に、微かな機械の作動音が流れ出てくる。


「行きましょう。夜明けはもうすぐよ」


御影沙織は、白いヒールを鳴らして躊躇なく階段を降り始めた。その姿は、もう学校の保健教師ではなく、冷徹なエージェントそのものだった。


湊は、意識が完全に回復したばかりの零を支えながら、その暗い階段を下り始めた。


階段はすぐに終わり、二人はコンクリートで補強されたトンネルへと出た。そこは、渋谷の地下鉄や地下街とは一線を画す、無機質で高い天井を持つ空間だった。


「ここが、『水脈の底』…」と零が呟いた。


トンネルの壁には、半透明のチューブが張り巡らされ、その中を、青や緑、時に赤く明滅する光の粒子が、奔流となって流れている。湊にはそれが、人々の「意志の残響」がデータ化され、物理的なエネルギーとして輸送されている様子だと理解できた。それは、渋谷の膨大なエネルギーを、この地下で集約し、処理しているかのようだった。


「この光が、都市のエネルギー、『残響』の流れよ。あなたたちの力が乱した、世界の『水脈』そのものなのよ、この流れを安定させることが私たちの使命だわ」


零は、その壁の光の奔流を見つめ、体が微かに震えた。彼女の「カスケード」の根源と同じ、純粋なエネルギー。しかし、彼女の体内にある奔流が感情の塊なのに対し、ここにあるものは、徹底的に管理され、計測され、無機質化されていた。


「私の力は…ここから生まれているの?」


「いいえ。あなたの力は、それ自体が水脈よ。世界から独立した、強大すぎる水源。だからこそ危険で、だからこそ、我々が必要とする」


さらに奥へと進むと、トンネルは巨大なドーム状の空間へと繋がっていた。


そこは、まるで未来の発電所か、巨大なサーバー室のようだった。中心には、巨大な水晶体のコアが青白い光を放ち、周囲には無数のモニターが並び、数十人のオペレーターが沈黙して作業にあたっている。彼らは、湊が右腕に持つ「回路」の紋様と同じ、幾何学的なデザインが施された制服を着ていた。


「驚いたか、雨宮 湊」


ドームの中央、一段高いプラットフォームから、声が響いた。


声の主は、白髪をオールバックにし、端正な顔立ちを深い皺が刻む、威厳に満ちた初老の男だった。彼は、沙織よりもさらに複雑で荘厳な紋様が刻まれた白衣をまとい、プラットフォームの上で、この巨大な施設全体を見下ろしていた。


「ようこそ、『水脈庁』へ。私は、この組織の統括責任者、神崎 悟(かんざきさとる)だ」


神崎は、零を一度、そして湊の右腕を二度、値踏みするように見つめた。


「お前たちの力は、まさに天の恵み。特に、君の治水技術は、数百年に一度しか現れない、最高の『フレーム(法則)』だ」神崎は、満足げに微笑んだ。


その笑顔は、人の良さそうに見えるが、その奥には、世界のすべてを手のひらで管理しているという、傲慢な自信が見て取れた。


「早速だが、君たちには世界の真実を知ってもらおう。君たちが、なぜここで力を管理される必要があるのか。なぜ、その力が暴走すると、世界が崩壊するのか」


神崎は、巨大なコアの前に立ち、手をかざした。


すると、ドーム全体を覆うモニターが一斉に切り替わり、青い「残響」の流れの中に、黒い亀裂が走る映像が映し出された。それは、湊が今夜、渋谷で目撃した現象と酷似していた。


「この世界は、人々の集合的な『意志の残響』によって、かろうじて維持されている。だが、君のような強大な『カスケード』が制御を失うと、現実と法則の境界線に亀裂が入り、世界は内部から水に浸されるように崩壊する」


神崎は、その現象を厳かに呼んだ。


「世界の『浸水(インフレーション)』だ」


湊と零は、目を見開いた。彼らの「流れ」は、単なる能力ではなく、世界の存在そのものを揺るがす、最終兵器だったのだ。


「君たちの力は、あまりにも強大すぎる。故に、君たち自身が、この世界のバランスを保つガーディアン(管理者)となる必要がある」


神崎の言葉は、拒否を許さない絶対的な命令だった。湊と零は、今、世界の核心に立たされていることを悟った。彼らの戦いは、この地下深くの秘密基地から、始まる。

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