強制リクルート
湊は、気を失った零と、冷たい眼差しの沙織を交互に見つめた。彼の右腕の「回路」は、まだ光を失ったままだ。抵抗する力も、逃げ切る術もない。そして何より、零の命と力を守ることが最優先だった。
「…わかりました」
湊は、絞り出すように言った。
「あなたたちの『水脈庁』とやらに協力します。ですが、条件があります」
沙織は動かずに、続きを促す。
「この子は、僕の知り合いでも妹でもない、ただの滝川 零です。僕と同じ『特異点』として、その力を守るために連れていく。その代わり、彼女が目を覚まし、自分の意志で判断するまで、一切の接触も、移動もさせないでください」
沙織は腕組みを解き、微かに口角を上げた。
「結構よ、雨宮君。あなたが現実を理解する速度は、想像以上だわ。その冷静さが、あなたの治水技術の源泉ね。彼女が目覚めるまで、ここで待機しましょう」
沙織は、保健室のドアを施錠し、カーテンを閉めると、校舎の地下にいるであろう「水脈庁」の何者かに、無言で通信を送ったようだった。彼女は窓際に立ち、夜の校庭を見下ろしながら、湊を無視するように沈黙を保った。
静寂が保健室を支配した。
湊は再びパイプ椅子に座り、ぐったりと眠る零を見つめた。彼女の顔にはまだ疲労の色が濃いが、呼吸は安定している。
『誰も知らない場所で 息をひそめたまま 積み重ねたものを』
彼の孤独な「積み重ね」は、あっけなく、この一人の教師によって見破られ、世界の巨大な歯車に組み込まれようとしていた。
どれほどの時間が経っただろうか。窓の外が微かに白み始めた頃、零の睫毛が震えた。
「…ん」
零は、ゆっくりと目を開けた。青い瞳が、見慣れない保健室の白い天井を捉え、混乱に満ちた。
「ここは…」
「目覚めたのね、滝川零」沙織が静かに口を開いた。「気分はどう?」
零は、沙織の有無を言わさぬ威圧感に、体が硬直した。
「大丈夫か、零」湊はベッドに近づき、安心させるように声をかけた。「ここは学校の保健室だ。俺が運んできた」
湊は、沙織に盗聴されていることを承知の上で、昨夜の出来事と、沙織の正体、そして「水脈庁」からの強制的なリクルートについて、簡潔に説明した。
零は、熱を帯びた手で湊の右腕を握った。
「…私の力が、世界を変えるほどのものだったなんて。そして、それを制御したあなたが、こんなにも危険な場所に連れ込まれるなんて」
彼女は、すべてを自分の責任だと感じていた。
「違う。俺たちの力が、世界の裏側でバランスを保つために必要だと言っている」湊は、沙織の言葉をそのまま繰り返すことで、零に現状の深刻さを理解させようとした。
零は、夜空に顕現させた、青い翼の残像を瞼の裏に感じていた。あの時、確かに自分の願いは世界に届いた。そして、その達成感は、彼女の孤独を初めて満たしてくれた。
「私には、これしかないの」零は、小さくつぶやいた。「ずっと、誰にも気づかれずに溜め込んできた。それが、世界の法則とやらを乱すなら…」
零は、ベッドから身を起こし、まっすぐ沙織を見つめた。
「わかりました。行きましょう、その『水脈の底』へ。私の力が、本当に世界のために使われるべきものなのか、確かめたい」
零は、自分の力が世界に求められていることに複雑な感情を抱きつつも、排除される恐怖よりも、初めて力を肯定されたという事実に突き動かされていた。そして何より、自分を救い、疲弊しきっている湊を一人で行かせるわけにはいかなかった。
「それが、あなたの答えね」沙織は満足そうに頷いた。「では、早速出発しましょう。夜が明けて、生徒たちが登校する前に、この学校を離れる必要がある」
沙織は、保健室の隅に置いてあった救急箱を一つ手に取ると、その底を叩いた。救急箱は鈍い金属音を立てて開き、中から出てきたのは、医療品ではなく、地下へと続く階段だった。
「渋谷の地下には、都市のエネルギー『残響』が流れる水路がある。私たちの拠点は、その水路の最深部に存在するわ」
沙織は、階段を指差した。その奥から、冷たい、機械的な空気が流れ出てくる。
湊と零は顔を見合わせた。彼らは、誰にも気づかれないまま、夜明け前の高校の保健室から、現代の影に潜むファンタジーな戦いの舞台、「水脈の底」へと足を踏み入れたのだった。
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