第1話:泥だらけの少年と、黄金の約束

 西暦一九一〇年(明治四十三年)。ニュージーランド北島、ウェリントン郊外。

 鉛色の空から、冷たい雨が降り注いでいた。

 地面はぬかるみ、踏みしめるたびに嫌な音を立てる。

 ここは、英国からの移民たちが開拓を進める工事現場の飯場(はんば)だ。

 だが、そこで泥にまみれて働いているのは、白人ではない。マオリ族や、アジアから流れてきた安価な労働者たちだった。

「おい、サボってんじゃねえぞ、この野蛮人が!」

 怒号と共に、鈍い音が響いた。

 革のブーツが、ぬかるみに倒れ込んだ少年の腹を蹴り上げたのだ。

「ぐっ……」

 蹴られたのは、褐色の肌をした巨躯の少年だった。

 まだ十歳そこそこだというのに、大人顔負けの体格をしている。顔には殴られた痕があり、唇が切れて血が滲んでいた。

 彼の名は、ウィレム。

 この土地のマオリ族の首長の息子だが、部族の土地を二束三文で買い叩かれ、こうして出稼ぎに来ているのだ。

「ふん、これだから土人は使えねえ。おい、立て! 日が暮れるまで石炭を運べ!」

 英国人の現場監督は、あざけるようにウィレムの顔に唾を吐きかけた。

 ウィレムは何も言わない。ただ、その黒い瞳の奥に、決して消えない憎悪の火を燃やしながら、じっと耐えていた。反抗すれば、部族の家族に迷惑がかかることを知っているからだ。賢すぎるがゆえの沈黙だった。

 だが。

 その沈黙を破る者がいた。

「――おい、白豚(ホワイト・ピッグ)」

 雨音に混じって、場違いに落ち着いた声が響いた。

 監督が眉をひそめて振り返る。

 そこに立っていたのは、小柄な東洋人の少年だった。

 ボロボロの作業着を着ているが、その立ち姿だけは、なぜか王侯貴族のように堂々としている。

「あぁ? なんだお前は。ジャップのガキか?」

「聞こえなかったのか? その汚い足をどけろと言ったんだよ」

 少年――九条湊(くじょう・みなと)は、監督を真っ直ぐに見据えて言った。

 湊はこの世界に生を受けて十年、ずっと燻(くすぶ)っていた。

 前世は日本の国会議員。国を憂い、激動の時代と戦った記憶がある。それなのに、転生した先は日本ですらない、南半球の植民地。

 父は政治犯として日本を追われ、一家でこの地に逃れてきた。

 極貧生活。差別。理不尽な暴力。

 湊の「愛国心」と「正義感」は、この十年でどす黒い怒りへと変わっていた。

(どいつもこいつも、肌の色が違うだけで家畜扱いしやがって……!)

「はっ! 英語が喋れると思えば、生意気な黄色い猿だ。お前も教育してやろうか?」

 監督がニヤつきながら、鞭のようにしなる杖を振り上げた。

 ウィレムが「逃げろ!」と叫ぼうとした、その時だ。

 湊は逃げるどころか、一歩前に踏み出した。

 そして、作業用に持っていた「ツルハシ」を、躊躇なく監督の足元へフルスイングした。

 ――ガァンッ!!

 金属音が響き、監督のブーツのつま先ギリギリ、数ミリの地面にツルハシが突き刺さる。

「ひっ!?」

「次は脳天に穴を空けるぞ。失せろ」

 湊の声は低く、そして恐ろしく冷徹だった。

 それは十歳の子供が出せる殺気ではなかった。人を何人も葬ってきたかのような、修羅の気迫。

 監督は腰を抜かし、悲鳴を上げて後ずさった。

「き、キチガイだ! このジャップは頭がおかしい!」

 監督は泥に足を滑らせながら、逃げるように去っていった。

 周囲の労働者たちが、呆気にとられてそれを見送る。

 静寂が戻った現場で、湊は「ふぅ」と息を吐き、ツルハシを地面から引き抜いた。

 そして、泥まみれのウィレムに手を差し伸べる。

「立てるか? デカブツ」

「……ああ」

 ウィレムは痛む腹を押さえながら、湊の手を借りて立ち上がった。

 間近で見ると、やはり奇妙な日本人だ。体は小さいのに、瞳だけが老成している。

「無茶をするな。あいつらは後で報復に来るぞ。俺たちだけじゃなく、家族も狙われる」

 ウィレムが冷静に指摘すると、湊は鼻で笑った。

「来ないさ。あいつは臆病者だ。それに、あいつの帳簿には不正がある。さっき脅し文句と一緒に証拠を突きつけてやった。明日にはここを辞めるだろうよ」

「……お前、何者だ?」

「九条湊。ただの日本人だ」

 湊は泥を払い、ニッと笑った。

「なあ、お前。名前は?」

「ウィレムだ」

「ウィレムか。いい目をしてるな。さっき蹴られている時、いつかあいつの喉笛を食いちぎってやろうって顔をしてた」

 図星だった。ウィレムは少しだけ目を見開く。

「俺も同じだ。この国が気に入らねえ。イギリス人のふんぞり返った面を見るたびに、吐き気がする」

 湊は雨空を見上げた。

 その視線の先には、未来のビジョンが見えているようだった。

「俺は変えるぞ。この腐った植民地を、俺たちの国にする」

「……正気か? 俺たちはただの労働者だ。武器も金もない」

「金ならある」

 湊はポケットから、小さな「石ころ」を取り出した。

 泥にまみれているが、わずかに鈍い光を放っている。

「なんだそれは」

「金(ゴールド)だよ。この近くの川上流、誰にも見つからない場所に鉱脈がある。俺には『鼻』が利くんでな」

 それは前世の地質学の知識と、歴史知識によるものだ。この地域に未発見の金山があることを、湊は知っていた。

「これを元手に、まず土地を買う。人を集める。武器を作る。……ウィレム、お前は頭がいい。俺にはわかる。その筋肉だけじゃなく、脳みそも優秀だ」

 湊はウィレムの胸を拳で軽く小突いた。

「俺についても来い。お前が俺の『盾』となり『剣』となるなら、俺がお前の部族も、尊厳も、全部取り戻してやる。白人どもが二度と手出しできない最強の国を作ろうぜ」

 途方もない話だった。

 狂人の妄想だ。

 だが、ウィレムは不思議と笑えなかった。

 この少年の瞳が、あまりにも本気だったからだ。そして何より、自分を助けてくれたその小さな背中に、かつて語り継がれた「伝説の英雄」の影を見た気がしたのだ。

 ウィレムは少し考えた後、分厚い唇を歪めて笑った。

「……いいだろう。どうせこのまま泥水をすすって死ぬ一生だ。その『賭け』に乗ってやる」

「決まりだな! 頼りにしてるぞ、相棒!」

 湊は嬉しそうに、ウィレムの泥だらけの手を握りしめた。

 その顔は、先ほどの修羅のような表情とは打って変わり、年相応の少年のようにクシャッと笑っていた。

 一九一〇年、雨のウェリントン。

 後に世界を震え上がらせる「泣き虫皇帝」と「鉄の宰相」のコンビは、こうして泥沼の中で結成されたのである。

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