第15話:ソフィアの実力
薄暗い森の中へと足を踏み入れると、ソフィアが小声で話しかけてきた。
「いいタクマ。ここからは、私が合図するまで絶対に動かないで。息もできるだけ殺して」
ソフィアは先ほどまでの口うるささが嘘のように、低い声で囁いた。その表情はBランクの冒険者としてのそれに切り替わっており、翡翠色の鋭い眼光が森の奥を油断なく探っている。
その横顔からは、先程の少女らしさは微塵も感じられなかった。
俺たちはソフィアを先頭に、ゆっくりと森の奥へと進んでいった。
動きには一切の無駄がない。木の根や落ち葉を踏む音もほとんど立てず、まるで森の一部に溶け込んでいるかのようだ。
その歩き方一つとっても、熟練の冒険者のようだった。
進むことおよそ三十分。
ソフィアが、不意にぴたりと足を止めた。身を屈め、地面に落ちていた木の枝を拾い上げると、その先端についたわずかな湿り気を指で確かめている。
「……新しい。まだ乾いていないわ。この近くにいる」
そう囁くと、右手の人差し指を静かに口元に当てた。「静かに」という合図だ。
俺もその場で動きを止め、五感を研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。
すると前方の鬱蒼とした茂みの奥から、獣の低い唸り声が聞こえてきた。
「グルルルル……」
地を這うような威嚇的な響き。間違いない。フォレストウルフだ。その声には、空腹と縄張りへの侵入者に対する明確な敵意が込められていた。
ソフィアは腰を低く落とし、音もなく剣を鞘から引き抜いた。日光を反射して、銀色の刀身がぬらりと光る。
そして俺の方を振り返り、目で合図を送ってきた。
『あんたはここに居て。絶対に、出てくるな』
俺はこくりと頷き、近くにあった巨大な樫の木の陰に、息を殺して身を潜めた。心臓が嫌な音を立てて高鳴る。
次の瞬間、ソフィアの姿がまるで陽炎のように揺らめいた。
そして素早く一直線に茂みへと突っ込んでいく。その動きは、まるで風そのものだった。
「ガウッ!」
茂みから驚いたようなウルフの鳴き声が響き、一体の巨大な狼が飛び出してきた。体長は三メートル近くあり、その名の通り、森の木々のような緑がかった灰色の毛皮に覆われている。剥き出しにされた牙は、一本一本が短剣のように鋭く、その瞳は飢えた獣の赤い光を宿していた。
だがソフィアは一切怯まない。
ウルフの鋭い爪による薙ぎ払いを、まるでその攻撃を予期していたかのように、最小限の動きでひらりとかわす。その動きは、死線の上で舞う舞踏のようで、恐ろしいほどに優雅で、そして美しかった。
「シッ!」
短い気合と共に、ソフィアの剣が閃光を放った。
銀色の軌跡が、ウルフの屈強な前足に鋭く刻まれる。
「キャンッ!」
ウルフは甲高い悲鳴を上げ、びっこを引くように後ずさった。その赤い瞳に、驚きと苦痛の色が浮かぶ。しかし、ソフィアは追撃の手を緩めない。
ウルフの周りを高速で動き回り、その注意を撹乱する。ウルフが焦れて飛びかかろうとするたびに、的確に、そして容赦なく、その四肢や胴体に剣を突き立てていった。
一撃一撃は、致命傷には見えない。だが、その手数は圧倒的だ。まるで、無数の銀色の針が、巨大な獣を少しずつ、しかし確実に蝕んでいくようだった。
ソフィアは決して深追いはしない。
相手の攻撃範囲の外側を常に維持し、反撃の隙を与えずに、一方的にダメージを蓄積させていく。
完璧なまでの立ち回りだった。
俺はただその光景を呆然と見ていることしかできなかった。
なるほどな。これがBランク冒険者の実力。
Cランク程度の依頼では苦戦することはないようだ。
そして戦いは唐突に終わりを迎えた。
ソフィアは、体中から血を流し、動きが鈍くなったウルフの懐に、一瞬で潜り込んだ。
それはそれまでの慎重な立ち回りとは打って変わって、あまりにも大胆な踏み込みだった。
そしてがら空きになった喉元を、下から上へと一気に切り裂いた。
「グル……ァ……」
ウルフは断末魔の声を上げることもできず、その赤い瞳から急速に光が失われていく。やがて、巨体は生命活動を完全に停止し、どさりと音を立てて地面に横たわった。
森に再び静寂が戻る。血の匂いだけが、先ほどまでの死闘の激しさを物語っていた。
ソフィアは、返り血一つ浴びていない優雅な仕草で剣を鞘に納めると、俺の方を振り返った。
「……終わったわよ」
「……ああ」
俺は木の陰から姿を現し、絶命したフォレストウルフの巨体を見下ろした。
結局、俺は何もしていない。ただ、このBランク冒険者の圧倒的な実力を、特等席で見せつけられただけだ。
「……すごいな、ソフィア。あんた、めちゃくちゃ強いじゃないか」
俺は感嘆の声を隠すことなく素直に褒めた。それは紛れもない本心だった。
ソフィアの剣技は俺が知るどんなゲームのキャラクターよりも、鮮やかで、洗練されていて、そして実戦的だった。
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの肩が、ほんの少しだけピクリと震えた。
すぐにそっぽを向き、ぶっきらぼうに答える。
「べ、別に。こんなの、Bランクなら当然よ。あなたが大げさなだけ」
その声はいつものようにツンとしている。だが、俺には分かった。
必死に平静を装っているが、その声はわずかに上ずっている。フードの影になっている横顔は、きっと真っ赤に染まっているに違いない。隠そうとしても隠しきれない喜びが、その全身から滲み出ていた。
「そ、それより、早く解体するわよ! 素材を剥ぎ取らないと、報酬が減額されるんだから! ほら、新人さん、ぼーっとしてないで手伝って!」
ソフィアは照れ隠しのように早口でまくし立てると、腰のポーチから解体用のナイフを取り出した。その手つきは、どこかぎこちなく、そわそわしているように見える。
そして俺が隣にしゃがみ込むと、小さな声で、ほとんど独り言のようにぽつりと呟いた。
「……まあ、でも……その……ありがと……」
その言葉は、森の静寂の中に、小さく、だけど確かに響いた。
そんな不器用な可愛らしさに、思わず笑みがこぼれるのを止められなかった。
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