第8話 追憶の赤 ⑤

 翌日。

 空は昨日の風が嘘のように晴れ渡り、突き抜けるような青が広がっていた。だが、翔琉かけるの心には、昨日のなな子との一件で生じた小さな曇りが残ったままだ。

 いつものようにランドセルを背負い、団地の裏手にある待ち合わせ場所へと向かう。なな子と合流し、何食わぬ顔で登校するためだ。

 コンクリートの壁に囲まれた通路を抜け、いつもの電柱の下が見えてきた。

 しかし、そこに立っていたのは、赤いランドセルを背負った少女ではなかった。


「よう、翔琉。おはようさん」


 そこにいたのは、叔父の竜也だった。

 昨日の今日だというのに、彼は不敵な笑みを浮かべて待ち構えていた。だが、その笑顔はどこか張り付いたようで、目の奥は決して笑っていない。

「あれ? 竜也おじちゃん、おはよう。どうしたの?」

 翔琉が足を止めると、竜也は気持ち悪いほどの満面の作り笑顔で距離を詰めてきた。

「おはよう翔琉君ー! 待ってたぞー! 元気だったかー?」

「……昨日会ったばかりじゃん」

 翔琉の冷めた反応などお構いなしに、竜也は馴れ馴れしく肩に手を回してきた。タバコと安酒の混じった不快な臭いが鼻をつく。

「えっ? そうだったな。まあいい、細かいことは気にするな。ところで今日はよぉ、とびきり面白い所へ連れてってやるからさ。とりあえず俺の車に乗れよ」

 竜也が顎でしゃくった先には、ボロボロの軽自動車が路駐してあった。

「面白い所? 今から? 無理だよ。僕はこれから学校へ行くんだから」

「学校? ハッ、学校なんていいのいいの。そんな所はな、行かなくたってちゃーんと大人になれるから。ホラ、現に俺だって学校さぼっても大人になれたんだから」

 それは説得力があるようで、反面教師にしかならない最悪の具体例だった。翔琉は眉をひそめて後ずさりした。

「えー? でも、もうすぐなな子ちゃんが来ちゃうしー」

「あー、あのうるせぇ女か。あいつなら先に来てたから、俺が学校へ行かせてやったよ。『翔琉は風邪ひいたから今日は休む』って伝えてな」

「えっ……」

 なな子が先に来ていた? 竜也おじちゃんと話した?

 翔琉の中に嫌な予感が走る。だが、竜也は考える隙を与えなかった。

「だからほら、車に乗れって! あとあれだ、うまいもんも腹いっぱい食わせてやるよ。翔琉はハンバーグが好きだったろ? なっ!」

 竜也は半ば強引に翔琉の腕を掴むと、軽自動車の助手席へと押し込んだ。

 バタン! とドアが閉められる。

 鉄の箱に閉じ込められた翔琉を乗せて、車は海果月みかづき市の中心部へと走り出した。


 車窓を流れる景色を見ながら、翔琉は昨日の出来事を思い出していた。

 時間を戻す能力。それは確かに万能に思えた。だが、なな子には通じなかった。そして今、竜也おじちゃんは何を企んでいるのか。

 車は三十分ほど走り、市内で一番高いビルの前で停車した。

 海果月テレビ局。地方局とはいえ、この辺りでは目立つランドマークだ。

「ここどこ? 大きなビルだねぇー」

 翔琉がいまだに状況を飲み込めずにいると、竜也は慎重に猫なで声を出した。

「そうだなー。でけーなー。今からここでよ、大事な人と会うからよ。それが終わったら一番上まで行って景色でも見るか?」

 竜也の狙いは単純かつ浅はかだった。

 昨日、翔琉が見せたトランプ透視や文字当て。あれがタネも仕掛けもない本物の超能力であると確信した竜也は、すぐさま金儲けの悪知恵を働かせたのだ。

 ――こいつをテレビに出演させれば、出演料で一生遊んで暮らせる。

 竜也は様々なつてをたどり、中学時代の後輩がこのテレビ局でプロデューサーとして働いているという情報を掴み、無理やりアポをねじ込んで押しかけてきたのだった。


 翔琉はいつになく優しい竜也を不審がりながらも、その背中についてビルの中へと入っていった。

 受付で名前を告げ、通されたのは小さな応接室だった。

 革張りのソファに座らされ、待つこと二十分。

 ようやくドアが開き、疲れ切った顔の中年男性が入ってきた。番組プロデューサーだ。

「お待たせしてすみませんねぇー。前の撮影が押しちゃって押しちゃって」

 竜也は長く待たされて内心イラついていた貧乏ゆすりをピタリと止め、立ち上がって愛想笑いを浮かべた。

「よぉ元気だったか? 全然待ってないよ。偉くなっちゃってぇー。お前も大変だねー」

「電話でも言いましたけど、本当に忙しいので五分だけですよ」

 プロデューサーは腕時計をチラリと見ながら、立ったままで話を切り上げようとする姿勢を見せた。

「まぁそう言うなよ。中学時代に散々面倒見てやったろうに」

「もう二十年も前の事じゃないですか。勘弁してくださいよ。それよりも後四分でお願いしますよ」

「まぁそう焦るなって。俺が連れてきたこの翔琉は、本当にすげぇんだ。こいつを使えばよぉ、俺とお前でガッポガッポ儲かるいい話なんだよ。ちなみによぉ、テレビの一回の出演料っていくら位もらえるんだ?」

 いきなり金の話か。プロデューサーは露骨に顔をしかめた。

「だから先輩。まずは見せてくださいよ、その凄い能力ってのを。話はそれからです。ちなみに後三分ですよ」

 プロデューサーの冷淡な態度に、竜也のこめかみに青筋が浮かんだ。

「ったく。さっきから聞いてたらやたらと上からモノ言いやがって……。まあいい、この能力を見たらそんなでかい口叩けなくなるぞ。翔琉、昨日のアレやってやれ」

 竜也が振り返り、翔琉に命令する。

 その目を見た瞬間、翔琉は全てを悟った。

 (ああ、やっぱり。この人は僕を利用しようとしているだけなんだ)

 昨日の「お菓子」も「優しさ」も、すべてはお金のため。僕をサーカスの動物のように見世物にして、稼ごうとしている。

 翔琉の胸の内に、竜也に対する強烈な嫌悪感が渦巻いた。と同時に、冷ややかな計算が働いた。

 ――ここで能力を使って認められたらどうなる?

 テレビに出て、有名になって、竜也おじちゃんの財布代わりにされて……一生、この男の言いなりで連れ回されることになるんじゃないか?

 それは御免だ。

 翔琉は、とぼけた顔を作って首をかしげた。

「昨日のアレって?」

 面会相手にイラついていた竜也は、翔琉の発言でさらに焦り、語気を強めた。

「ほら、紙に書いたものを当てるヤツだよ! オメーとぼけんじゃねぇよ。……まぁいい。おい、お前、その持ってる手帳に何か単語を書いてみろよ」

 竜也はプロデューサーを顎でしゃくった。

 プロデューサーは、ぶっきらぼうな竜也の態度にあきれながらも、胸ポケットから赤い手帳を取り出した。

「書きましたよ。これでどうするんですか?」

 プロデューサーがペンを走らせ、手帳を閉じる。

 舞台が整ったことにより、竜也は急に上機嫌になった。

「さぁ、ここからが凄いんだ。今、お前が書いた単語はお前しか知らねぇよな。それをなんと、この翔琉がズバリ当てちまうんだ。さぁいいぞ翔琉。言ってやれ!」

 竜也が期待に満ちた目で翔琉を見る。

 逃げ場はない。だが、翔琉には「武器」がある。

 いつもなら、ここで適当な答えを言って間違え、正解を見せてもらってから時間を戻す。

 だが今回は違う。

 翔琉は口を開いた。

「……ラーメン」

 それを聞いて、プロデューサーは真顔のまま固まった。

 竜也はその沈黙を「的中による驚愕」だと解釈し、身を乗り出して目を輝かせた。

「どうだ! 正解だろ! スゲェだろ! さぁいつでもテレビに出てやるぞ。今日でもいいぞ。その代わり出演料はとっぱらいだ。とっぱらい」

 まくし立てる竜也。

 しかし、プロデューサーは冷ややかな目で竜也を一瞥すると、手に持っていた手帳をゆっくりと広げて見せた。

 そこには、達筆な文字でこう書かれていた。


 『何か単語』


「は……?」

 竜也の口が半開きになる。

 プロデューサーはため息交じりに言った。

「あなたが『何か単語を書いてみろ』って言ったから、その通り書いたんですよ。ラーメンなんて書いてません」

 翔琉は心の中で安堵した。

 もしここで能力を使って、「何か単語」というひっかけ問題を当ててしまっていたら、僕は本当に終わっていたかもしれない。

 だから、能力は使わない。間違えたままでいい。

 翔琉が失敗したため、竜也の顔面は蒼白となった。

「な、何かの間違いだ。あれだあれ、緊張してただけだよな、翔琉。もう一度やってやれ。次こそは大丈夫だよな!」

 必死に取り繕おうとする竜也。だが、あきれ顔のプロデューサーは手帳を閉じて腰を上げた。

「はい、五分経ちましたので、失礼しますね。では」

 スタスタと出口へ向かうプロデューサー。竜也は慌てて立ち上がり、必死にその背中にすがった。

「待て待て待てって! せっかくここまで来たんだ。あと一回くらいいいだろ? それに、あれだ、昔の借りをこれでチャラにしてやるから。なぁ!」

 その言葉に、プロデューサーが足を止めた。

 ゆっくりと振り返ったその顔には、軽蔑の色が濃く浮かんでいた。

「……勘弁してくださいよ。こんな小さな子供を引きずり回して、勘に頼った怪しい事に巻き込まないでください」

「なっ……」

「こっちはまじめに働いているんですよ。地元のツレからあなたの噂聞いてますよ。色々と借金があるみたいじゃないですか。それなのに無職でこんなことしてぇ、まじめに働いたらどうですか?」

 正論の刃が、竜也のちっぽけなプライドをズタズタに切り裂く。

「それから翔琉くん、親戚って言ってましたけど、ちゃんと親御さんの許可取って来たんでしょうね。まぁ私には関係ないからこれ以上は言いませんけど。これ以上やっても私の貴重な時間と、手帳の貴重な余白の無駄ですから帰ってください」

 バタンッ!

 プロデューサーは応接室の扉を強く閉めて出て行ってしまった。


 部屋には、重苦しい静寂が残された。

 竜也は扉の方を向いて立ちすくんだまま、肩を小刻みに震わせていた。呼吸が浅くなり、ヒュー、ヒューという音が聞こえる。

 全身の血液が顔面へと集まり、赤黒く染まっていく。

 絶望が、どす黒い怒りへと変化した。

 そしてその矛先は、すぐ横にいた小さな子供へと向けられた。

「テメー……この野郎……!」

 竜也がゆっくりと振り返る。その目は血走り、完全に理性を失っていた。

「人が必死に取り付けた約束を、よくも台無しにしてくれたな! なんで失敗しやがった! テメーもしかして、わざと間違えたのか? だとしたら……ただじゃおかねーぞぉー!!」

 怒りが頂点に達し、我を忘れた竜也が襲い掛かってくる。

 翔琉が逃げようとするより早く、竜也の太い腕が伸びてきた。

 胸倉を掴まれ、そのまま宙に吊るし上げられる。

「ぐっ……うぅ……!」

 足が床から離れ、首が絞まる。苦しい。息ができない。

 大人の暴力。その圧倒的な恐怖が翔琉を支配する。

 だが、翔琉は諦めなかった。

 身動きの取れない体勢であったが、かろうじて動かせる部分があった。

 マブタだ。

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