第9話 追憶の赤 ⑥
パチパチパチ バック!
世界が歪む。
首を締め上げる圧力が消え、景色が逆再生される。
竜也の怒号が吸い込まれ、プロデューサーが出ていく音が逆回転する。
バタンッ!
プロデューサーが応接室の扉を強く閉めて出て行った直後の時間帯。
翔琉は応接室のソファの横に立っていた。竜也はまだ扉の方を向いて立ちすくんでいる。
十秒後、この男は振り返り、僕を殺さんばかりの勢いで襲ってくる。
(逃げなきゃ!)
翔琉は一瞬の迷いもなく、応接室のドアを開けて廊下へ飛び出した。
廊下の先には、部屋を出て行ったプロデューサーの後ろ姿が見えた。
助けを求めるか?
いや、あの人は冷たかった。「私には関係ない」と言った。助けてくれる保証はない。
翔琉は反対方向へ目を向けた。そこに「トイレ」のマークがあった。
あそこなら鍵がかかる!
翔琉は全速力でトイレへと駆け込んだ。
その直後、応接室から獣のような咆哮が聞こえた。
「クソガキがー!! 逃げてんじゃねーよ!」
荒い息遣いと、ドカドカという足音が迫ってくる。
翔琉は一番奥の個室へ滑り込み、震える手でカギをかけた。
心臓が破裂しそうだ。便器の蓋の上に体育座りで縮こまり、息を潜める。
すぐに、トイレの入り口から怒声が響いた。
「オラァー! 出てこいこの野郎ぉー! 失敗してんじゃねーよ! 逃げらんねーぞ!」
竜也は完全に常軌を逸していた。
ガンッ!
隣の個室のドアが蹴られる音が響く。
ガンッ!
その隣。一つずつ確認しているのだ。
そして、翔琉のいる個室の前に影が立った。
「ここか……?」
翔琉は両手で口を押さえ、悲鳴を噛み殺した。
ガンッ!
凄まじい衝撃が扉を襲う。竜也は工事現場で使うような、指先に鉄板の入った安全靴を履いていた。
ガンッ! ガンッ!
鍵の部分が悲鳴を上げ、蝶番が歪む。
「開けろ! ぶっ殺してやる!」
ガンッ! ドカッ!
ベニヤ板が裂ける音がした。なんと、扉に穴が開いてしまったのだ。
その穴から、竜也の血走った目がギョロリと覗き込んだ。
「みーつけた」
ヒッ、と翔琉の喉から音が漏れる。
蹴り上げが続く。穴が徐々に大きくなり、竜也の手が伸びてくる。
もうダメだ。殺される。
翔琉絶体絶命の、その時だった。
「あの人です! 捕まえてください!」
トイレの入り口から、凛とした声が響いた。
聞き覚えのある、大好きな声。
続いて、複数の大人の男たちが雪崩れ込んでくる足音がした。
「コラッ! 何をしている! 警察だ!」
三人の警察官が、竜也に飛びかかった。
「うわっ! なんだテメェら!」
竜也は翔琉に向けていた怒りを警察官へ向け、暴れ回った。
「放せ! 俺が何したっていうんだよ! 教育だ! これは教育なんだよ!」
「逮捕だ! おとなしくしろ!」
三人がかりで組み伏せられ、竜也はトイレの床へ押さえつけられた。冷たいタイルに顔を押し付けられながらも、まだ悪態をつき続ける。
「どうしてこんな目にあうんだよ! 俺は被害者だぞ!」
その背中に膝を乗せ、手錠をかけながら、年配の警察官が事務的かつ冷徹に告げた。
「未成年者略取・誘拐罪、それから器物破損。十一時四十分、現行犯逮捕」
カチャリ、と金属音が響き、竜也の自由が奪われた。
その様子を見守っていた小柄な老婦人が、壊れかけた個室のドアに歩み寄った。
「翔琉ちゃん。そこにいるの? もう安全だから、出ておいで」
慶子おばあちゃんだ。
その優しく震える声を聞いた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
翔琉はカギを開錠し、ゆっくりと扉を開けた。
目の前には、心配そうに眉を下げたおばあちゃんの顔があった。
「おばあぢぁあ”-ん!」
翔琉は慶子の腰に抱き着き、堰を切ったように泣き出した。
「ウワァーン 怖かったよー ウワァーン」
慶子は翔琉の小さな体を強く抱きしめ、背中をさすった。
「怖かったねー。ごめんね、気づくのが遅れて。もう大丈夫だから。大丈夫だから」
竜也は警察官に立たされながらも、いまだに納得のいかない様子で喚いていた。
「誘拐って何だよ! 俺たちは家族だぞ! 親戚だぞ! ちょっと遊びに連れて来ただけで誘拐になるかよ! 無実だ!」
それを聞いていた慶子が、翔琉を抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
普段は温厚で、虫も殺さないような慶子の目が、静かな怒りで燃えていた。
「……あなたは家族なんかじゃありません」
慶子の毅然とした声が、トイレに響いた。
「いい加減にしてください! 仕事もせず昼からお酒飲んでギャンブルして、家に来るたびお金せびったり……挙げ句の果てに、翔琉ちゃんをこんな目に遭わせて!」
「け、慶子さん……?」
「翔琉ちゃんに悪いこと教えないで! それに、翔琉ちゃんに凄い力なんてありません! 普通の小学生です! お願いですから、金輪際、二度と翔琉ちゃんに近づかないでください!」
それは、長年積もり積もった我慢の爆発であり、孫を守ろうとする祖母の魂の叫びだった。
いつもおとなしく、言うことを聞いていた慶子の鬼気迫る態度に、竜也は言葉を失った。
意気消沈した竜也は、そのままズルズルと警察官に連行されていった。
現場からの帰り道。パトカーでの事情聴取を終え、慶子と翔琉はタクシーで帰路についた。
翔琉はひとしきり泣いて落ち着きを取り戻していたが、手は慶子の服の裾を強く握ったままだった。
「ねぇおばあちゃん。どうして僕のいたところがわかったの?」
翔琉の問いに、慶子は優しく答えた。
「なな子ちゃんが教えてくれたんだよ。後でちゃんとお礼を言わなきゃね」
「なな子が……?」
実は今朝、なな子が翔琉との待ち合わせ場所へ行くと、苦手な竜也がそこにいたことに違和感を覚えた。
さらに、『翔琉は風邪ひいたから今日は休む』と聞かされたが、翔琉が風邪を引いた姿を見たことが無く、絶対に怪しいと直感して、学校へ行くふりをして近くで隠れて様子を見ていた。
すると、そこへ翔琉が現れたため、声を掛けようとしたが、すんでのところで竜也に車に乗せられてどこかへ行ってしまった。
なな子は、その車のナンバーと特徴を覚えて、全速力で慶子の元へ走った。
報告を受けた慶子は迷うことなく警察へ通報。
警察はNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)を駆使し、竜也の車が海果月テレビ局方面へ向かったことを特定し、急行したのだった。
その夜。
翔琉と慶子は、静かな夕食をとっていた。
慶子は翔琉に、竜也の性悪さと、世の中には悪い大人がいるということを改めて説明した。そして、最後にこう付け加えた。
「彼の事は忘れて、今日の事件の事も忘れなさい。翔琉ちゃんは何も悪くないんだから」
しかし、翔琉は箸を止めて俯いた。
何も悪くないわけがない。
今回の事件は、僕が調子に乗って能力を見せびらかしたことが原因だ。僕の力が、竜也という怪物を呼び寄せてしまったんだ。
もし、この力のことを公言すれば、また同じような大人が現れるかもしれない。次は助からないかもしれない。
恐怖が、翔琉の心に深く刻まれた。
(隠そう。この力のことは、誰にも言っちゃいけない)
翔琉は、二度と能力を使わず、封印しようと心に誓った。
翌日。
翔琉はいつもの待ち合わせ場所へ行った。
そこには、赤いランドセルを背負ったなな子が待っていた。
「なな子、おはよう」
翔琉が声をかけると、なな子は振り返ってニッコリと笑った。
「おはよう。元気そうでよかった」
慶子から一部始終を聞いていたなな子は、いつもの軽口で続けた。
「あんなにトランプの数字をホイホイ当ててたら、そりゃあトラブルに巻き込まれるわよ。気を付けなさいよ」
その言葉に、翔琉の胸が締め付けられた。
なな子は、僕の力を信じているのかもしれない。でも、それを認めてしまったら、いつか彼女も僕を「化け物」を見るような目で見るようになるかもしれない。あるいは、彼女を危険に巻き込むかもしれない。
翔琉は、必死に平静を装い、ヘラヘラと笑ってみせた。
「何言ってんだよ。あれ、全部適当だったんだよ。全部偶然」
「え?」
「たまたま当たっただけさ。超能力なんてあるわけないじゃん。もう二度とあんなことは起こらないから。二度とね。……だからこれからもずっと友達でいてくれよな」
それは、翔琉なりの精一杯の「守るための嘘」だった。
能力なんてない、ただの翔琉として、君の隣にいたい。
すると、なな子は少し驚いた顔をした後、ふっと視線を逸らし、頬を赤く染めて言った。
「……ずっと友達のままは、いやかも」
蚊の鳴くような小さな声だった。
なな子が口にした言葉の意味が分からず、首をかしげた翔琉は聞き直した。
「え? どういうこと? 嫌なの? なぁ、友達でいてくれよ」
鈍感な翔琉の反応に、なな子はムッとした表情になった。
彼女は背負っていた赤いランドセルの肩ベルトを両手で持ち、軽快にジャンプしながら体を反転させ、背負い直して歩き始めた。
「バーカ! 分からなかったらもう一度聞き直したらいいじゃない。学校遅れるわよ。早く行きましょ」
「ええー? わかんないよー。待ってよー」
小走りで遠ざかる赤いランドセル。
さらに首をかしげながら、なな子の後を追っていく翔琉であった。
一方、叔父の竜也は実刑判決を受け、翔琉が住む
こうして、翔琉の少年時代における「能力」にまつわる一連の騒動は幕を閉じた。
将来多くの人々を救い、同時に多くの人々を困らせることになる刑事の誕生秘話であることを、彼はまだ知らない。
通学路は、風が強く吹き荒れていた。
まるで、これからの彼の波乱に満ちた人生を予感させるように、慶子おばあちゃんがランドセルの横に括り付けた防犯ブザーを、ユラユラと揺らし続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます