エピローグ『残り香を纏う朝』

​台風一過の朝は、皮肉なほどに晴れ渡っていた。

障子の隙間から差し込む朝日が、散乱した浴衣や、シーツの乱れた布団を白々しく照らし出している。

​「……起きなさい、桐島くん。もう七時よ」

​聞き慣れた、凛とした声。

俺が重いまぶたを持ち上げると、そこにはすでに完璧にスーツを着こなした高嶺志保が立っていた。

髪はきっちりとまとめられ、メイクも完璧だ。昨夜、獣のように乱れ、涎を垂らして喘いでいた雌の姿は、跡形もなく消し去られている。

​「おはようございます、部長。……早いですね」

​俺は気怠い体を起こし、わざとあくびをした。

全身の筋肉が心地よい疲労感を訴えている。それは彼女も同じはずだ。

ふと見ると、彼女が鏡の前で、首元にスカーフを巻いているのが見えた。

​「……そのスカーフ、どうしたんですか?」

​俺が尋ねると、志保は鏡越しに俺を睨みつけた。その瞳には、昨夜の情熱とは違う、鋭い光が宿っている。

​「誰かのせいで、ファンデーションじゃ隠しきれない痕がついたからよ。……本当に、デリカシーがないんだから」

​言いながらも、彼女の耳が微かに赤い。

その「痕」こそが、俺が彼女に刻み込んだ所有の証だ。会社で部下たちを叱責する時も、役員と会議をする時も、彼女はそのスカーフの下に俺のキスマークを隠し持っていることになる。

その想像だけで、俺の下腹部に再び熱が灯りそうになった。

​「すみません。美味しくて、つい」

「……戯言はそこまでにして。チェックアウトするわよ。電車も動き出したみたいだし」

​彼女は手早く荷物をまとめ、部屋を出て行こうとする。

その背中は、再び「鉄の女」の甲冑を纏っていた。

だが、すれ違いざま、ふわ、と彼女から匂いがした。

シャンプーの香りでも、香水の香りでもない。昨夜、俺たちが何度も混じり合い、発酵させた、あの濃厚な雄と雌の残り香だ。

​「志保さん」

​呼び止めると、彼女はドアノブに手をかけたまま立ち止まった。振り返らない。

​「会社に戻ったら、昨夜のことはすべて忘れます。……業務上は」

​「……そう。それが賢明ね」

​「でも、俺は忘れませんよ。あなたの身体が、どれほど深く俺を受け入れてくれたか」

​沈黙が落ちた。

やがて、彼女は小さく「……馬鹿」と呟き、ドアを開けた。

だが、その声は拒絶ではなく、どこか甘い響きを含んでいた。

​駅へと続く道。

昨日の豪雨が嘘のように、空は青く澄み渡っている。

前を歩く高嶺部長のヒールの音が、カツ、カツ、と小気味よく響く。

そのタイトスカートに包まれたお尻が、昨夜俺の腰にどれほど激しく打ち付けられたかを知っているのは、世界中で俺だけだ。

​「桐島くん、今日の会議資料、再確認しておいて」

「はい、部長」

​交わす言葉は、上司と部下のそれだ。

だが、俺たちは知っている。

一度壊れた境界線は、二度と元には戻らない。

次に雨が降る夜、あるいは残業で二人きりになる夜、この堅牢なスーツが再び脱がされることを、俺も、そして彼女自身も、心の奥底で期待しているのだ。

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『熟れた蜜の音』 さんたな @Konnithiha

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