​第6話 『観覧車の密室と、届かない1センチ』

​ 金曜日の夜。

 僕たちは、湾岸エリアにある遊園地のゲート前に立っていた。

​ 僕の目には、そこはただの「光る廃墟」のように映っていた。

 回転するメリーゴーラウンドも、空を走るコースターも、すべてが白と黒の明滅を繰り返すだけの無機質な鉄塊だ。

​「蓮くん、手」

​ 隣に立つ真白が、待ちきれないように右手を差し出した。

 今日の彼女は、淡い色のワンピースにカーディガンを羽織っている。夜風が冷たいからだ。

 僕は神崎の顔を一瞬思い浮かべ、覚悟を決めて彼女の手を握った。

​ カッ。

 視界が、光で埋め尽くされた。

​「……うわ」

​ 思わず声が漏れた。

 さっきまでの廃墟が、一瞬にして宝石箱に変わった。

 イルミネーションのシャンパンゴールド。点滅するネオンの赤と緑。行き交う人々の服の色彩。

 夜の闇が濃いぶん、その輝きは昼間の海よりも鋭く、僕の網膜を刺した。

​「綺麗……!」

​ 真白が歓声を上げる。

 彼女の瞳の中に、遊園地の光が反射してキラキラと輝いている。

 その瞳の色こそが、僕にとって一番美しい宝石だった。

​「行こう、蓮くん! パレード始まっちゃう!」

​ 彼女に引かれて歩き出す。

 繋いだ手は熱い。

 この手を離せば、世界はまた死んだような灰色に戻る。

 だから僕は、彼女の手を命綱のように強く握りしめた。

​ 園内を歩き回り、いくつかのスケッチをした。

 光の洪水を絵にするのは難しい。でも、彼女の楽しそうな横顔を描くのは、不思議と手が動いた。

​ 閉園間際。

 僕たちは、遊園地のシンボルである巨大な観覧車の前にいた。

​「……最後にあれ、乗りたい」

​ 真白が指差す。

 巨大な円環が、夜空をゆっくりと回っている。

​「分かった。行こう」

​ ゴンドラに乗り込む。

 扉が閉まり、外界の音が遮断された。

 狭い密室。向かい合わせの席。

 ゴンドラがゆっくりと上昇を始める。

​ 僕はスケッチブックを開こうとしたが、真白がそれを止めた。

​「……今は、描かないで」

「え?」

「絵じゃなくて……本物の私を見て」

​ 彼女は席を立ち、僕の隣に座り直した。

 肩が触れ合う距離。

 窓の外には、地上の光が星の海のように広がっている。

 だが、真白は夜景を見ようとはせず、じっと僕の顔を見つめていた。

​「……蓮くん」

「なに?」

「私ね、怖いの」

​ 彼女の声が震えた。

​「こうして楽しい時間を過ごせば過ごすほど……時間が過ぎるのが怖くなる。時計の針を止めたくなるの」

​ 彼女の手が、僕の手をきつく握りしめる。

​「神崎くんは、私に『安静にしてろ』って言うの。長く生きるために、じっとしてろって。……でも、それじゃ意味がない」

​ 彼女は僕の肩に頭を預けた。

​「私は、蓮くんと色んな景色を見て、笑って、ドキドキして……そうやって命を使い切りたい」

​ 命を使い切る。

 その言葉の重みに、僕は息を呑んだ。

 彼女は、自分の死を受け入れているようで、誰よりも生に執着している。

 「思い出」という形で、生き続けるために。

​ ゴンドラが頂上に近づく。

 一番高い場所。空に近い場所。

​「……ねえ、蓮くん」

​ 真白が顔を上げた。

 至近距離。

 彼女の瞳が、潤んでいる。

​「……キス、して」

​ 時が止まった。

 心臓が破裂しそうなほど脈打つ。

 彼女の唇は、薄い桜色をしていた。柔らかそうで、触れたら壊れてしまいそうなほど儚い。

​ したい。

 彼女を抱きしめて、その全てを確かめたい。

 男としての本能がそう叫んでいる。

​ だが、僕の脳裏に神崎の言葉がよぎった。

 『あいつは無理をしてる。お前に絵を描かせるために、寿命を削ってんだ』

​ 彼女の呼吸が、少し荒いことに気づく。

 顔が赤いのは、照れ隠しなのか、それとも微熱があるのか。

 この高揚感さえも、彼女の心臓には負担なのかもしれない。

​ 僕は、彼女の唇まであと1センチのところで止まった。

​「……蓮くん?」

「……ごめん」

​ 僕は、彼女の額に、そっと唇を押し当てた。

 熱い。やはり、少し熱がある。

​「今は、これだけだ」

「……どうして?」

「君が……大切だからだ」

​ 僕は彼女を抱きしめた。

 壊れ物を扱うように、優しく。

​「僕は、君の『最後』を描くって約束した。……だから、こんなところで終わらせない」

「……」

「もっと色んな景色を見よう。もっとたくさん絵を描こう。……キスは、その全部が終わった時のご褒美だ」

​ それは、僕なりの精一杯の誠実さであり、臆病な逃げでもあった。

 彼女の命の責任を負うことへの恐怖。

​ 真白は僕の胸に顔を埋め、小さく笑った。

​「……意地悪。蓮くんの弱虫」

「うるさい」

「でも……あったかい」

​ 彼女の腕が、僕の背中に回る。

 ゴンドラが頂上を越え、ゆっくりと下降を始める。

 窓の外の光が、涙で滲んだように揺らめいて見えた。

​ 地上に降りた時、真白は眠っていた。

 緊張の糸が切れたのだろう。

 僕は彼女をおぶって、タクシー乗り場へと向かった。

​ 背中の重み。

 あまりにも軽い。命の重さとは裏腹に、彼女の体は羽のように軽かった。

 僕は、色のある世界を歩きながら誓った。

​ 神様。

 もしいるなら、僕の色を一生奪ってもいい。

 だから、この子の時間を、あと少しだけ伸ばしてください。

​ タクシーの中で、彼女の手が僕の服を握りしめたまま離れなかった。

 その温もりだけが、不安な夜の唯一の救いだった。

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