​第5話 『幼馴染の焦燥と、持たざる者の覚悟』

​ 翌日の学校は、針のむしろだった。

 僕、一ノ瀬蓮が教室に入ると、神崎海人からの突き刺さるような視線を感じた。

 彼はクラスの中心で談笑しているように見えて、その目は常に僕を監視している。

 まるで、少しでも不審な動きをすれば、すぐにでも噛み付こうとする番犬のように。

​ 雨宮真白は、今日は欠席だった。

 昨日の無理が祟ったのだろうか。

 彼女がいない教室は、いつも以上に彩度が低く、息苦しいグレーの世界だった。

​ 昼休み。

 僕が購買でパンを買って戻ろうとすると、廊下の角で腕を掴まれた。

​「……ちょっと、面貸せよ」

​ 神崎だった。

 拒否権はない。僕は無言で頷き、彼について行った。

​ 連れて行かれたのは、人気のない体育館裏だった。

 コンクリートの壁。曇り空。

 神崎は壁を背にして立ち、僕を睨みつけた。

​「……単刀直入に聞く」

​ 彼の声は低く、押し殺した怒りに震えていた。

​「お前、あいつの病気のこと、どこまで知ってる」

「……半年後には、いなくなるかもしれないってことだけだ」

「ふざけんな」

​ 神崎がダンッ、と壁を蹴った。

​「『いなくなるかも』じゃねえ。……いなくなるんだよ。確実に」

​ 彼は苦しげに顔を歪めた。

​「俺はな、幼稚園の頃からあいつを見てきた。心臓の手術も、入退院も、全部見てきたんだ。……あいつがどれだけ痛みに耐えて、どれだけ生きたいと願ってるか、お前に分かるかよ」

​ 分かるはずがない。

 僕はつい数日前、彼女と出会ったばかりの他人なのだから。

​「あいつは今、無理をしてる。……お前に絵を描かせるために、寿命を削ってんだよ」

​ 神崎は僕の胸ぐらを掴んだ。

​「お前といる時のあいつは、楽しそうだ。……だから俺は今まで黙ってた。けどな、昨日のアレはなんだ? あんな埃っぽい部屋に閉じ込めて、顔色が悪くなるまで付き合わせやがって」

​ 至近距離で睨まれる。

 僕には色は見えないが、彼の瞳に宿る激情の炎だけは、肌で感じることができた。

​「俺は、あいつを守りたいんだ。……少しでも長く、穏やかに生きてほしい。それなのに、お前はあいつを殺す気か?」

​ 守りたい。

 その言葉の重みが、僕の胸に刺さる。

 彼には、彼女を守るための知識も、体力も、そして10年分の思い出もある。

 僕には何がある?

 色も見えない。体力もない。ただ絵を描くだけの、無力な存在。

​「……言い返せよ! なんか言えよ!」

​ 神崎が揺さぶる。

 僕は、彼の腕を掴み返した。力では勝てない。でも、ここで引くわけにはいかなかった。

​「……僕には、彼女の病気を治すことはできない」

​ 僕は静かに言った。

​「君のように、彼女を支えて守ることもできないかもしれない。……僕は無力だ」

「なら、消えろ」

「でも、彼女は言ったんだ。『生きた証を残したい』って」

​ 僕は神崎の目を真っ直ぐに見返した。

​「穏やかに生きて、何も残さずに消えること。……それが本当に、彼女の望みなのか?」

「……ッ」

「彼女は、命を削ってでも、何かを残そうとしてる。……僕にできるのは、その覚悟をキャンバスに焼き付けることだけだ」

​ 僕は宣言した。

​「僕は、彼女を描く。……最後の瞬間まで、彼女が『生きた』という色彩を、僕が全部受け止める」

​ それは、神崎に対する言葉であり、僕自身への誓いでもあった。

 神崎の手から力が抜ける。

 彼は呆然とした顔で僕を見ていたが、やがて手を離し、乾いた笑い声を漏らした。

​「……ハッ。ムカつく野郎だ」

​ 彼は髪をくしゃくしゃとかきむしった。

​「勝てるわけねえじゃんか。……あいつ、昔から頑固なんだよ。一度決めたら梃子(てこ)でも動かねえ」

​ 神崎は壁にもたれかかり、空を見上げた。

​「……俺には、あいつの遺影なんて描けねえよ。悲しくて、手が震えちまう」

​ その言葉に、彼の深い愛情と、敗北感が滲んでいた。

 彼は、優しすぎるのだ。だから、彼女の「死」を前提とした願いを受け入れられない。

​「おい、一ノ瀬」

「……なんだ」

「もし、あいつが倒れたら……すぐに俺を呼べ。おんぶしてでも病院に運ぶ」

​ 神崎は僕を睨んだ。でも、そこにはもう殺気はなかった。

​「その代わり……絵のほうは、任せる。最高傑作にしなかったら、ぶっ飛ばすからな」

「……ああ。約束する」

​ 男同士の、奇妙な協定が結ばれた。

 彼は彼女の「命」を守り、僕は彼女の「魂」を残す。

 役割分担だ。

​ その夜。

 家でスケッチブックの手入れをしていると、スマホが震えた。

 真白からだ。

​ 『元気になったよ! 心配かけてごめんね』

​ そのメッセージだけで、部屋の空気が少し明るくなった気がした。

 続けて、もう一通。

​ 『次はね、夜の遊園地に行きたいの。観覧車から、キラキラした世界を見たいな』

​ リストの二つ目。

 夜の遊園地。観覧車。

 それは、恋人たちの聖域だ。

​ 『わかった。今度の金曜日の夜に行こう』

​ 僕は返信した。

 神崎との約束を胸に、僕は筆を握る。

 残された時間は短い。

 次に見る色は、きっと今までで一番、眩しくて切ない色になるだろう。

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