​第7話 『白い病室の境界線と、毒薬としての愛』

​ 週明けの月曜日。

 教室に入った瞬間、僕は息が詰まるような錯覚を覚えた。

​ 窓際の席。雨宮真白の席が、空っぽだったからだ。

 いつもなら、僕が入るとすぐに振り返り、花が咲くような笑顔で「おはよ!」と言ってくれるはずの場所。

 そこには、ただ無機質な灰色の机と椅子があるだけだった。

​「……一ノ瀬」

​ 低い声に呼び止められた。

 神崎海人が、僕の席の横に立っていた。

 彼の顔色は悪く、目の下には隈ができている。週末、眠れなかったのだろうか。

​「……真白は?」

「入院した」

​ 神崎は短く告げた。

​「金曜の夜、帰宅してすぐに倒れた。……熱が下がらず、そのまま緊急入院だ」

​ ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。

 金曜の夜。遊園地の帰りだ。

 僕が彼女を連れ回し、夜風に当て、はしゃがせたせいだ。

​「……僕の、せいか」

「ああ、そうだと言いたいところだが」

​ 神崎は悔しげに拳を握りしめた。

​「医者が言うには、風邪をこじらせただけだそうだ。心臓の発作じゃねえ。……不幸中の幸いだな」

「……病院は、どこだ」

「教えねえよ」

​ 神崎は冷たく突き放した。

​「お前が行けば、あいつはまた無理をする。……あいつにとって、お前は劇薬なんだよ。元気にもなるが、命も削る。今のあいつには安静が必要なんだ」

​ 正論だった。

 僕は彼女の「生」を輝かせることはできても、「命」を守ることはできない。

 絵を描くたびに、彼女を死に近づけているような気さえする。

​ 放課後。

 僕は神崎の忠告を無視して、街中の総合病院を片っ端から探したわけではない。

 以前、彼女が持っていた薬袋に書いてあった病院名を覚えていたのだ。

​ 受付で面会を申し込むと、看護師は困った顔をした。

 「ご家族以外は……」と断られかけたが、ちょうど通りかかった真白の母親らしき女性が、「あの子の友達?」と助け船を出してくれた。

​ 通されたのは、個室の病室だった。

 ドアの前で、足がすくむ。

 中に入るのが怖い。

 色を失ったこの目で、弱りきった彼女を見るのが怖かった。

​ 意を決して、ノックをする。

 「どうぞ」という、掠れた声が聞こえた。

​ ドアを開ける。

 そこは、どこまでも無機質な灰色の空間だった。

 灰色のベッド、灰色の点滴スタンド、灰色のシーツ。

 その中に埋もれるようにして、真白が眠っていた。

​ 顔色が分からない。

 唇の色も、頬の赤みも、僕には見えない。

 ただ、呼吸に合わせて上下する胸の動きだけが、彼女が生きている証だった。

​「……蓮くん?」

​ 彼女がゆっくりと目を開けた。

 酸素マスクはしていないが、鼻には酸素カニューレ(チューブ)が通されている。

​「……ごめん。来ちゃった」

「ううん……嬉しい。……来てくれると思ってた」

​ 彼女は弱々しく微笑み、布団から手を出した。

 その腕には、痛々しい点滴の針が刺さっている。

​ 僕はベッドサイドに歩み寄り、恐る恐るその手に触れた。

 細く、折れそうな指先。

​ ――色が、灯る。

​ 真っ白だったシーツが白さを取り戻し、花瓶の花が鮮やかなピンク色に染まる。

 そして、真白の顔。

 ……蒼白だった。

 透き通るような肌は、以前よりもさらに白く、目の下には薄く影が落ちている。

 けれど、僕を見つめる瞳だけは、宝石のような琥珀色に輝いていた。

​「……顔色、悪いな」

「そうかな。……蓮くんが来てくれたから、今は元気だよ」

​ 彼女は僕の手を握り返そうとしたが、力が弱かった。

​「……ごめんね。遊園地、楽しかったのに」

「謝るなよ。……僕が無理させたんだ」

「違うよ。……私が、もっと遊びたかっただけ」

​ 真白は天井を見上げた。

​「ねえ、蓮くん。……ここ、退屈なの」

「そうだな」

「窓の外、見える? ……あそこだけ、空が四角く切り取られてるの」

​ 彼女の視線の先には、小さな窓があった。

 そこに見えるのは、夏の気配を含んだ入道雲と、抜けるような青空。

​「……あの空、描いてくれる?」

​ 彼女のおねだりに、僕は頷いた。

 カバンからスケッチブックを取り出す。

 左手で彼女の手を握ったまま、膝の上で鉛筆を走らせる。

​ サラサラという音だけが、静かな病室に響く。

 僕の手を通して伝わる体温が、彼女の命そのものだ。

 この温もりが消えてしまったら、僕の世界は永遠に闇に閉ざされてしまうだろう。

​「……できた」

​ 数分後。

 僕は、窓枠に切り取られた「四角い空」の絵を見せた。

 雲の白と、空の青。

 なんてことのない風景画だが、そこには「ここから出たい」という彼女の願いを込めた。

​「……綺麗」

​ 真白は絵を指でなぞった。

​「蓮くんの青色は、やっぱり優しいね」

「……早く良くなって、本物を見に行こう」

「うん」

​ その時、廊下から足音が聞こえた。看護師の見回りだ。

 僕は立ち上がった。

​「……もう行くよ。あんまり長居すると、神崎に殺される」

「ふふ。海人、怒ってた?」

「鬼みたいな顔してたよ」

​ 僕はそっと手を離した。

 フッ、と世界から色が消える。

 鮮やかだった青空も、彼女の琥珀色の瞳も、すべてがグレーの闇に沈んだ。

​ 耐え難い喪失感。

 でも、僕は笑顔を作った。

​「また来る。……次は、何か本でも持ってくるよ」

「うん。待ってる」

​ 病室を出る直前、真白が小さな声で言った。

​「……蓮くん」

「ん?」

「私ね……まだ、死なないよ」

​ 彼女の声は、確信に満ちていた。

​「だって、まだリストの半分も終わってないもん。……花火も、雪も、まだ見てない」

「ああ。……全部、描かせてくれよ」

​ 僕はドアを閉めた。

 廊下に出ると、緊張の糸が切れて、膝をつきそうになった。

​ 彼女は強い。

 僕なんかより、ずっと強い。

 でも、その強さは「残り時間」を知っているからこその、必死の輝きなのだ。

​ 病院の玄関を出ると、外は眩しいほどの晴天だった。

 僕には灰色にしか見えないけれど、空はきっと、あの絵のように青いのだろう。

​ 僕は空を見上げた。

 夏が来る。

 彼女の命を燃やす、短くて熱い季節がやってくる。

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