第3話 『色彩のリストと、屋上のランチタイム』
月曜日の教室は、憂鬱なグレーに塗りつぶされていた。
僕、一ノ瀬蓮は、自分の席でじっと息を潜めていた。
週末に見た「群青色の海」の残像が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
あれは夢だったんじゃないか。そう疑いたくなるほど、今の視界は味気なかった。
「……一ノ瀬くん」
不意に、机の上に影が落ちた。
顔を上げると、雨宮真白が立っていた。
教室がざわつく。
カースト上位の彼女が、底辺の僕に話しかけている。それだけで、クラスメイトたちの好奇の視線が集まるのが分かった。
「……何?」
「はい、これ」
彼女は周囲の視線など気にする素振りもなく、一冊のノートを僕の机に置いた。
パステルカラーの可愛らしい表紙。もちろん、僕にはただの薄い灰色に見えるけれど。
「週末の宿題。……描いてほしいもの、まとめてきたの」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、小走りで自分の席へ戻っていった。
残された僕は、針のむしろだった。
「おい、一ノ瀬。雨宮さんとどういう関係?」
「まさか付き合ってんの?」
「いや、絵を描けとか言ってたし、パシリじゃね?」
ヒソヒソという囁き声。
僕はノートを掴んでカバンに押し込み、逃げるように席を立った。
この学校に、僕の居場所はない。
……あの日までは、それでもいいと思っていたのに。
昼休み。
僕は誰も来ない穴場――屋上の給水塔の裏にいた。
フェンス越しに見える街並みは、墓石のように冷たい灰色だ。
コンビニで買ったパンを取り出す。
パッケージの色も、中身の色も分からない。味も砂を噛んでいるようだ。
色を失ってから、食事はただの「栄養補給」でしかなかった。
「……見ーつけた」
鈴の音のような声。
振り返ると、真白が弁当箱を抱えて立っていた。
「ここ、蓮くんの隠れ家? 眺めいいね」
「……どうしてここが」
「ずっと見てたもん、蓮くんのこと」
彼女は当たり前のように僕の隣に座り込んだ。
スカートがふわりと広がる。
「一緒に食べよ。……あ、逃げないでね。逃げたら大声で『蓮くんの絵が好きだー!』って叫ぶから」
「やめてくれ。……社会的に死ぬ」
僕は観念して座り直した。
真白は嬉しそうに弁当箱を開けた。
「ジャーン! 今日は気合入れて作ったんだよ!」
彼女が見せてくれた中身。
卵焼き、プチトマト、ブロッコリー、タコさんウインナー。
……たぶん、彩り豊かなのだろう。
けれど、僕の目にはすべてが「濃いグレー」と「薄いグレー」の塊にしか見えなかった。
「……美味そうだね」
「嘘ばっかり。何色かも分からないくせに」
真白は僕の左手を取り、自分の膝の上に置いた。
そして、ギュッと握る。
ドッ。
世界が、色を取り戻した。
灰色の塊だった弁当が、瞬く間に宝石箱に変わった。
鮮やかな黄色の卵焼き。燃えるような赤のトマト。瑞々しい緑のブロッコリー。
そして、少し焦げ目のついた愛らしいピンク色のウインナー。
「……うわ」
思わず声が出た。
食べ物が、こんなに美しいものだったなんて、忘れていた。
「ね? 美味しそうでしょ?」
「……ああ。すごく」
「はい、あーん」
真白が卵焼きを箸でつまんで差し出してくる。
「……自分で食べるよ」
「ダメ。手、離したら色が消えちゃうでしょ?」
その通りだ。
左手で彼女と繋がっていないと、この鮮やかさは維持できない。
僕は恥ずかしさをこらえて、口を開けた。
甘い。
砂糖たっぷりの卵焼きの味が、舌の上で解ける。
色が戻ると、味まで鮮明になるような気がした。
視覚と味覚は繋がっているのだと、初めて知った。
「……美味しい」
「えへへ、よかった。早起きした甲斐があったな」
真白は満足そうに笑い、自分のおにぎりを頬張った。
屋上の風が、彼女の髪を揺らす。
その髪は、太陽の光を吸い込んで、透き通るような栗色に輝いていた。
「……蓮くん」
「ん?」
「さっきのノート、見た?」
彼女に言われて、僕はカバンからノートを取り出した。
ページをめくる。
そこには、彼女らしい丸文字で、たくさんの「場所」が箇条書きにされていた。
『遊園地の観覧車から見る夜景』
『秋のイチョウ並木』
『クリスマスのイルミネーション』
『初雪の降る朝』
楽しそうなリストだ。
でも、僕はページをめくる手を止めた。
「……真白」
「なに?」
「これ……全部、冬までの予定だね」
クリスマス。初雪。
リストはそこで終わっていた。
その先、春の桜も、来年の夏も、書かれていない。
彼女の笑顔が、一瞬だけ曇った気がした。
でも、すぐに明るい声で答えた。
「うん。……だって私、欲張りだから。冬までには全部叶えてもらわないと困るもん」
彼女は僕の手を握る力を強めた。
「私の命の期限は、お医者さんが決めたことだけど……。私の思い出の色は、蓮くんが決めてくれるんでしょ?」
その言葉は、重かった。
僕の筆先一つに、彼女の人生の彩りが委ねられている。
僕はノートを閉じた。
「……分かった。全部、描くよ」
「本当?」
「ああ。……僕も、もっと色が見たいから」
それは半分本音で、半分は彼女を安心させるための言葉だった。
彼女の残された時間が、灰色で塗りつぶされないように。
僕が、世界で一番鮮やかな色を、キャンバスに残してやる。
昼休みの終わりのチャイムが鳴った。
手を離す。
世界が再び色を失う。
卵焼きの黄色も、空の青も、彼女の頬の赤も、すべてが消え失せた。
でも、口の中に残った甘い味だけは、確かな現実としてそこに残っていた。
教室に戻ると、男子生徒の一人が僕の前に立ちはだかった。
神崎 海人(かんざき・かいと)。
サッカー部のエースで、真白の幼馴染だと噂されている男だ。
「……おい、一ノ瀬」
彼は僕の胸ぐらを掴むような勢いで詰め寄った。
その瞳(僕にはグレーに見えるが)には、明確な敵意が宿っていた。
「お前、真白とどういう関係だ」
「……ただの、クラスメイトだよ」
「嘘つくな。屋上で一緒にいただろ」
神崎は声を荒げた。
「あいつの体に何かあったら、タダじゃおかねえぞ。……お前みたいな暗い奴に、真白は釣り合わないんだよ」
何も言い返せなかった。
彼の言う通りだ。僕は暗くて、色も見えない欠陥品だ。
でも。
彼女に色を与えられるのは、皮肉にも、色を失った僕だけなのだ。
僕は無言で神崎の横をすり抜けた。
背中に突き刺さる視線を感じながら、僕はポケットの中のノートを強く握りしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます