​第2話 『五〇センチの距離と、群青(ぐんじょう)の海』

​ 週末の駅前ロータリーは、待ち合わせの人々で溢れかえっていた。

 僕、一ノ瀬蓮の視界には、相変わらず灰色の濃淡しかない。

 行き交う人々の服も、並木の緑も、すべてがモノクロの無機質な映像として流れていく。

​「蓮くん!」

​ 雑踏の中から、鈴を転がすような声が聞こえた。

 人波を割って現れたのは、雨宮真白だった。

 白いワンピースに、麦わら帽子。

 色が見えなくても分かった。彼女だけが、まるでスポットライトを浴びているかのように輝いて見えたからだ。

​「……遅い」

「ごめんごめん! 服選んでたら迷っちゃって。……どうかな? 変じゃない?」

​ 彼女はくるりと回ってみせた。

 変も何も、僕には白とグレーにしか見えない。

​「……普通だよ」

「むぅ、そっけないなぁ。もっと褒めてよ」

​ 真白は頬を膨らませたが、すぐにニコニコと僕の腕を引いた。

​「さあ、行こう! 今日は海だよ、海!」

​ 電車に揺られること一時間。

 僕たちが降り立ったのは、湘南の海に近い駅だった。

 潮の香りが鼻をくすぐる。

 だが、僕の目の前に広がるのは、鉛のように重く、暗い海だった。

 波の音は聞こえるのに、その姿はまるでインクを流した汚水のようにしか見えない。

​「……これが、君の見たい景色?」

​ 僕はスケッチブックを抱えながら聞いた。

​「うん。……私ね、海が好きなの。広くて、深くて、全部を飲み込んでくれそうで」

​ 真白は砂浜に降り立つと、サンダルを脱ぎ捨てて波打ち際へ走っていった。

 灰色の波と戯れる彼女の姿は、古いサイレント映画の女優のようだ。

​「蓮くん! こっち来て!」

​ 彼女が手招きする。

 僕はため息をつきながら、砂に足を取られないように歩み寄った。

​「……で、どうするんだ。描けって言われても、僕にはこの汚い灰色しか見えない」

「だから、言ったでしょ?」

​ 真白は僕の隣に立ち、そっと僕の左手を握った。

​「……私の体温を、絵の具にして」

​ ギュッ。

 柔らかい手のひらの感触。

​ その瞬間。

 

 バシャアァァッ……!

​ 音と共に、視界が弾けた。

 鉛色だった海が、息を呑むような「群青色」に染め上げられた。

 空は突き抜けるような「スカイブルー」。

 雲の純白。

 そして、隣で笑う彼女のワンピースの、淡いレモンイエロー。

​「……あ」

​ 僕は言葉を失った。

 綺麗だ。

 二年ぶりに見る海は、記憶の中にあるそれよりも遥かに鮮やかで、暴力的ですらあった。

​「どう? 見える?」

「……ああ。見えすぎて、目が痛いくらいだ」

「ふふ。じゃあ、描いて」

​ 彼女は僕の手を握ったまま、波打ち際に座り込んだ。

 僕も隣に座る。

 この体勢でないと描けない。左手で彼女と繋がり、右手で筆を動かす。

 傍から見れば、手を繋いで海を眺めるバカップルだ。

​ 僕はスケッチブックを開き、パステルを走らせた。

 色が分かる。色の名前が思い出せる。

 ウルトラマリン。セルリアンブルー。エメラルドグリーン。

 指先が震えた。絵を描く喜びが、指先から全身に駆け巡る。

​ 三十分ほど経っただろうか。

 僕の手は止まることなく動き続けていた。

 真白は、じっと僕の横顔を見ていたようだった。

​「……蓮くんの手、あったかいね」

「……描くのに集中してるからだ」

「ううん。優しい手だよ」

​ 彼女は握った手に、少しだけ力を込めた。

​「ねえ。……私がいなくなったら、この青色も、蓮くんの中から消えちゃうのかな」

​ ドキリとした。

 筆が止まる。

​「……縁起でもないこと言うなよ」

「事実だもん。……私、半年後にはいないんだよ?」

​ 彼女の声は明るかった。

 まるで、明日の天気の話をするように。

​「だからね、残しておきたいの。……蓮くんの絵の中に、私の見た世界を全部」

​ 彼女は僕の肩に頭を預けてきた。

 甘いシャンプーの香り。

 彼女の体温が、僕の左手を通じて、心臓へと流れ込んでくる。

​ こんなに温かいのに。

 こんなに鮮やかなのに。

 彼女は、消えてしまうというのか。

​「……描き切るまでは、死なせない」

​ 僕はぶっきらぼうに言った。

​「君が満足するまで、僕が何度でも色を塗る。……だから、勝手に終わらせるな」

「……うん」

​ 真白は嬉しそうに目を細めた。

​ その時。

 彼女の体が、ビクリと小さく跳ねた。

 繋いだ手が、強張る。

​「……真白?」

「……っ、ごめん。ちょっと、休憩」

​ 彼女は僕の手を離した。

 フッ。

 世界から色が消え、再び灰色の海に戻る。

​ 真白は胸元を押さえ、苦しそうに呼吸をしていた。

 顔色が悪い。さっきまでの笑顔が嘘のように、唇が紫色に見える(グレーだが、濃さが違う)。

​「おい、大丈夫か!?」

「だい、じょうぶ……薬、飲めば……」

​ 彼女は震える手でバッグからピルケースを取り出し、数錠の薬を水なしで飲み込んだ。

 数分後。

 彼女の呼吸が落ち着いてくる。

​「……ごめんね、驚かせて」

「今の発作……病気のせいか?」

「うん。……たまにね、心臓が『そろそろ時間だよ』ってノックしてくるの」

​ 彼女は自嘲気味に笑った。

 僕は何も言えなかった。

 彼女の余命が、単なる設定や冗談ではなく、冷酷な事実であることを突きつけられた瞬間だった。

​ 帰り道。

 電車の中で、彼女は疲れ果てて眠ってしまった。

 僕は彼女の手を握ろうとして、やめた。

 今、色を見てしまえば、彼女の顔色の悪さを直視することになる。それが怖かった。

​ 灰色の世界で、彼女の寝顔を見つめる。

 色がない分、彼女の「存在」そのものが、輪郭を帯びて迫ってくるようだった。

​ あと半年。

 僕はこの少女の死へのカウントダウンを、特等席で見届けることになる。

 その残酷さと、愛おしさが、僕の胸を締め付けた。

​ 家に着き、完成したスケッチを見る。

 そこには、鮮やかな群青の海と、光り輝く笑顔の少女がいた。

 この絵の中にだけ、彼女の時間は永遠に閉じ込められている。

​「……綺麗だ」

​ 僕は呟いた。

 それは、絵のことなのか、彼女のことなのか。

 自分でも分からなかった。

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