4・前住人

「~い。おーい大丈夫か~い?」

 目を開けると、見知らぬ中年男性が自分を覗き込んでいる。

「あぁっ!? はい大丈夫です!」「おっとっと」

 楓は反射的に、上半身をガバッと起こした。

 中年は「そんなにビックリしなくてもさ」と後頭部を掻いた。

(……?)

 視線をずらすと、傍らで「お父さんだよ」と気まずそうに座り込む美鈴と、難しい顔で胡坐をかく優の姿が目に入った。楓は再び目を白黒させる。

「あたし、どうなったの……?」

「急に倒れちゃったんだってね? あれかな、立ち眩み? 女の子だし貧血かなぁ」

 義久は楓の隣に胡坐をかくと、徐に彼女の額に手を当てた。

「熱は無さそうだねえ。脱水ではなさそう」

 楓は気まずいやら恥ずかしいやらで義久と目を合わせられず、しどろもどろになった。

「あ、あの。迷惑掛けて申し訳ありません。もう大丈夫ですから、あたし帰ります」

 そして、ふらりと揺れるように立ち上がった。

 いつもの陽気は影を潜め、酷く憔悴した様子だった。

「本当に大丈夫なの? やっぱり少し休んだ方がイイわよ。ほら、蕎麦茶も淹れたし、休憩していってイイのよ。下の子も今は寝てるから気にしないで」

 幸代が台所から呼び掛けるが、それも断って帰ろうとする。

「本当に……大丈夫ですから……失礼します」

 俯き加減に言葉を落とし、あれよあれよという間に玄関を出ていく。

「な~んか、いまいち掴みどころの無い子だよなぁあの子。魂が抜けてるみたい」

 義久はまた後頭部を掻きながら、口元を歪めた。

 美鈴と優は力無く歩く楓の後を追った。

 いつの間にやら日は落ち、辺りは暗闇に沈みつつある。時折吹く風が硬い木々を揺らし、カサカサと乾いた音を立てた。しかし空気はじっとりと重苦しい。それがまるで樹海に居るかのような錯覚を起こさせる。

 美鈴はえも言われぬ悪寒に襲われ、優の太い腕にそっと縋った。

「怖いか」

 優は10センチ程下にある頭に向かって低い声を降らせる。

「……うん、怖い。それに寒い。なんだろう、上手く説明出来ないけど……何かを持っていかれそうな気がする。すごく嫌な感じ……」

 美鈴は自分自身の言葉でさらに不安を膨らませ、彼の腕を胸一杯に抱き締めた。

 優は最初、面食らったようにしていたが、小さく鼻息を吐いた。

「何言ってんだよ。俺が居るから気を強く持てよ。大船に乗ったつもりでいろ」

 ふらふらと歩く楓の背を睨みながら、優しく諭す。

「うん、ありがとう」

 今一度、熱くざらざらした腕を撫でる。

「……ところで佐藤。お前は大丈夫なのか」

 優が三mほど先を歩く彼女の背に問い掛ける。

 いらえはない。

「おーい佐藤。返事しろ」

 二人、顔を見合わせた。

 優が小走りで駆け寄り、左肩に手を載せる。

「佐と」「ギャッはぁ!!……あれ、どうしたの優君。なに急に、いったい何事?」

 あまりの豹変ぶりに立ち竦んだ。

「えへ……ちょっと何? 二人とも何マジな顔してるの?」

 楓は何事も無かったかのように、きょとんとしている。

 優の視線が僅かな敵意を含んでいた。

「……お前、来ない方がよかったな、本格的に」

 表情によりいっそう皺を刻んだ。


 やがて落ち着きを取り戻した楓は、バスの中で滔々と話し始めた。

「車の中を覗き込んだ時ね、あたしだけ何だか深い水の中に居るみたいに、急に周りの音が遮られて全身に強い圧迫感を感じたの。紙屑を握り潰すみたいな、こう上下左右からお握りみたいに押さえ込まれる感じ。それで、頭をハンマーで殴られたような半端じゃない頭痛がして、思わずしゃがみ込んで……その辺りで気を失ったはず」

 終始目を泳がせながら、彼女自身言葉で説明出来ない事を無理矢理に文章に変換して語ってみせた。優と美鈴は全て察したように顔を見合わせる。

「これは思ったより重症かも」

 さらに楓は、気を失っている間にも奇妙な夢を見たと繋いだ。

「なんだか夢とは思えないくらいハッキリしてたけど……映像がコマ送りで、絵葉書か何かを一枚一枚見ていて、それに音が付いて来るっていう感じ」

 古い無声映画の映像イメージが美鈴の脳裏を駆け巡る。楓は滔々と弁士のように話を進めた。

 ――初めに出てきたカットは、牧浦家。

「失礼な事言っちゃうけど……今と比べると随分綺麗で庭も手入れが行き届いてた」

「まぁ事実、庭は荒れ気味だからね」

 夢の中の楓は猫だったそうだ。ポカポカと麗らかな陽気に欠伸をかましながら、石塀の上から家の玄関を眺めている。厳寒の冬からようやく小春日和になったような、妙にウキウキと胸が高鳴り、不思議な心地良さが支配していた。どこからともなく背が高くて恰幅の良い男が現れたかと思うと、引き戸を開けて家の中へ入っていく。どうやらここの主人のようだ。髪型はしっかりとセットされたオールバック、黒色で擦り切れたツナギ服を着用し、その背中には何か文字が書いてある。

「月っていう字は、覚えてるんだ」

 楓は虚ろに言った。

 家に入った男は靴を脱ぐとそのまま自分が寝かされている部屋へと向かってきた。

その際の彼女の視点はというと、まるで人形セットのミニチュアハウスのように家の内部を断面的に見ており、時折男の後に続くように切り替わったという。

「潜入捜査とか、スパイのゲームみたいだった。FPSだっけ? ああいう感じ」

 客間に入った男は漆箔の装飾を施した座卓の上に盛られた無数の艶やかな林檎を洗いもせずにそのまま齧り始めた。五、六個あった林檎を全て食い尽くしたところで映像は終わり、男の声が聞こえてきた。心底驚いて目を開けると――

「――っていう夢」

「それであんなにビックリした訳ね」

 美鈴は哀しいような、一方で安堵したような複雑な吐息を漏らした。

「うん……ゴメンねなんか。帰ったらお父さんによろしく謝っといて」

「そこは気にしないで。あの人ほんとに何も考えてないから」

 自転車に15万も出すような人だから、と付け加えても楓は笑ってくれなかった。

「なぁ佐藤。その夢に出てきた男の顔、覚えてるか」

 優が珍しく食い付いた。

「いや、顔は……陰になってたり俯いてたりで全然見えなかった。あ、それともう一つ」

 朦朧とする意識で歩いている途中、直に脳に伝わってきた。

 ――叩き付ける豪雨の道を疾走する新車のように綺麗な白のセダン。郊外の人気の無い山道へ入り、朽ち果てた倉庫の前に停車する。先ほどのオールバックの男が下りて来て倉庫の扉を開け放つと、そこには巨大なトラックが格納されており、それに乗り込んだ男は峠を下りると先ほどの家へと向かった。仲間と思しき男性が三人待っており、それぞれ自分のトラックから降りると威勢の良い挨拶を交わす。そして最後に一人、老人がやってきて――

「ここで、優君があたしの肩を叩いたってわけ」

 優は額に手の甲を載せ、恨めし気に唸った。

「あぁくそ、タイミング悪かったな~。その先こそ気になるところなのに」

 駅舎の自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、静かに語り終えた。楓は自分でも上手く状況を飲み込めておらず、終始一貫して視線を泳がせていた。怯え、戸惑っているのがボディランゲージに表れている。

「結論は、やっぱり来るべきじゃなかったってこと。これに懲りたでしょ」

 美鈴は厳かに咎めの言葉を述べた。優も同感らしく静かに頷く。

「うん……でも、行って得たものもあった」

 足元から雉が立った。

「え、なに?」

 楓は曇り無い顔で美鈴を見返す。

「ひょっとしたら、美鈴が感じている気の正体を突き止められるかもって思ったから。一歩、近付けたような気がしたんだ。ほんとだよ」

 二人とも、心底肝が冷えた。

 構内アナウンスと共にむず痒い空気を打開したのは優だった。

「なぁ美鈴、もうすぐ電車が来る。こいつは俺が送ってくから、おまえはもう帰れ」

「分かった。おやすみ。気を付けてね」

 やがてホームに滑り込んできた列車に二人が乗り込み、がらんどうの鉄の箱は真っ暗な線路を突き進んでいった。美鈴は列車の尾灯を見つめながら、また深い溜息を吐いた。

 激しく混乱している。

 僅かながら霊感のある楓が、ここまではっきりとしたビジョンを見てしまったのだ。しかも説明が具体的であり、所々自分の見た夢と共通点がある。こんな話を聞けば、例え超常現象を信じない者でも気分が悪くなるだろう。しかも彼女は家の中を知らないというのに部屋や間取りの証言が的を射ていた。

 ――決めた。

 隣人の杉野氏ならこの家に以前住んでいた人物について何か知っているに違いない。予定を立てながら、見えない糸に操られているような気持ちになった。


          ***


「おぉ。えーっ、と……そう、勝浦さんとこの子や」

「いえ、わたし牧浦です」

「あーそうそう秋浦さんな。大きぃなったなぁ。そろそろ就職か」

「……初めまして、ですね」

 キャップを被り、作業ズボンにブルゾンという出で立ちの杉野氏は美鈴を快く家に入れた。

「こんに若い娘さん呼んだなぁ、はたしてぇどんだけ振りかぇの」

 三和土で靴を脱いでいる最中、酔ったように顔を赤らめ、渇いた笑い声をあげる。さすが毎日畑の世話を焼いているだけあって妙に高い上がり框も、間引きしたように幅の大きな階段もすいすいと踏破していた。

 美鈴は初めて見る〝隣人〟の家の内装に目移りした。ハイテク社会の昨今、こんなジブリアニメに出てきそうな純朴な内観の家屋も少ないだろう。本物の日本人の家というものを目の当たりにした気がした。新居に越した今となっては、あながち人の事を言えない状態だが。

「いけんいけん、一人やとつい散らかしてしまうで、かなん(いけない)なぁ」

 靴箱の上に綺麗な女性の写真が飾られている。妻を亡くして随分経つ様子だ。子供も皆都会へ出てしまい、長らくここで一人暮らし、尋ね人と言えば町内会の人間と様子見にやってくるホームヘルパーや市役所(福祉サービスの必要は無さそうだが)くらいのもの……といったところか。

「えぇもん(いいもの)無いけんど、気ィ遣わんと食べて」

 畳と漬物と木の匂いが充満する座敷に通され、番茶、黒飴、そしてなぜかサラミを盆に並べる杉野氏。机の端っこには、驚いた事にひん曲がった運転免許証が放ってあり、生年月日は平成七年十二月二十三日とある。とすると、御年七十二歳だ。一昨年他界した母方の祖父は享年七十六歳だったので、なんとなく親近感を覚える。

 室内に飾られた市松人形や虎の木彫り、歌舞伎のお面等を見回していると、前にもここに来た事があるような、不思議と懐かしい気持ちになった。

「ありがとうございます、戴きます」

「お~おぅ、どおぞ」

 絶妙な苦みと渋みの番茶を一口飲み下し、本題を切り出す。

「あの、どうしてもお聞きしたい事があって、お伺い立てました」

「ん~ふ、何でも聞きな。かみさんと別れてからぁ人とめっきり付き合いが無くなってなぁ。寂しい毎日さ、何でも話してくれや」

 杉野氏は仏様のように目を細め、サラミを齧った。入れ歯なのか自分の歯かわからないが、この歳でサラミを齧るなんて、なんと逞しい人だろうかと感じる。一般的な高齢者のイメージからかけ離れている。

「以前、私の家に住んでいた人について教えて頂きたいんですが」

 仏像のように穏やかだった杉野氏の顔貌が豹変した。サラミを掴んだままカッと見開いた目が美鈴を捉える。肩越しに睨む翁の面と、ものの見事に重なる。

「……ん~むぅ」

 時間にして、三秒に満たない。

 目線を落してサラミを口に放り込み、わなわなと揺れるように低い声を出した。

「あのうちに住んどった人ぁなぁ、あんまり、エェ感じのする人と違ったでのぉ」

 早口に言うと、茶碗に注がれた番茶を清酒でも嗜むようにクイッとやった。

「そ、そこをどうにかお聞きしたくて」

 ここが関門だ、身を乗り出して頼み込む。

「……んまぁ、あんまり口外するのんは避けてほしいけどやな」

「秘密は守ります」

 美鈴は思わず上目遣いになった。一瞬、ひょっとこのように破顔しかけた杉野氏は派手に咳払いをして、がらがらと話を繋ぐ。

「ん、ん。あのな、背の高い男の人が一人っきりで住んどったわ。しっかりして、住み始めの挨拶回りの時も、そりゃあ溌剌とした笑顔でな。あぁ~こりゃエェ人が来たなぁって好印象だった訳よな」

「はい」

「仕事はな、確か運送業がどうした、こうしたとかって。トラックに乗ってたんでないかな。どこの勤めかは聞きそびれたけんど、それでいて、いっつも破けた黒いツナギ服でおってな、背中に【灯】……なんとかって」

 美鈴の目が見開く。楓も同じ事を言っていた。

「待って下さい。背中に字が書いてあったんですか?」

「ごほっごほ」

「大丈夫ですか?」

 氏は手首を振り回してひとくさり無事を訴えてから、大変な事を口走ってしまった、と口端を下げた。

「んん、そんだがな、ど~ったかな……【灯】の後がどないしても浮かんでこん……」

 腕を組んで渋紙のように顔中に皺を寄せていたが徐にペンを手に取り、近くあった新聞紙に何かを書き始めた。美鈴は逆さになったそれを黙って見守る。

「おら、こんなだった。【灯】の次に……今思うと、【天】だったんかね。的屋の屋台みたいに崩した字ぃやで定かではないけんど」

「天……」

 思い出した。

 あの家には【灯の間】と【天の間】という二つの部屋がある事を。

「その後は、続きはなんと書いてありましたか?」

 美鈴は更に身を乗り出してかかる。

「……もう思い出せんなぁ……んむ、そういえば白い車に乗っとったような」

 その車こそ、マークⅡの事だろう。

「その車、今はウチに置きっ放しになっています。その男の人の名前、苗字だけでも教えて頂く事は出来ませんか?」

「ん~っとな、苗字、確か……」

 杉野氏は再びむっつりと腕を組んだ。


          ***


「うわー汚い。冗談でしょ」

 襖を開けると、古い布団のような独特の香りが流れ出てきた。広く、こびりつくような闇の立ち込める奥座敷。押入れの方から妙に冷え込んだ空気が漂ってくる。一歩踏み入れば、脳天から爪先まで無数の虫が駆け下りるような、縮み上がるような悪寒に襲われる。

「ヒッ」

 足裏のワシャッとした感触に心臓がひっくり返った。

 よく目を凝らすと、干からびて縮んだ百足ムカデの死骸が転がっていた。

「……こんな部屋があったなんて……」

 下見の際、ここは使われていないと内見が割愛された記憶はあるが、まさかここまでひどいとは思わなかった。改めて見た室内は、まるで独房か座敷牢のような異常な閉塞感が漂っている。


(!?)


 その時、突如として締まる襖。

「何、やめて!!」

 慌てて二枚の襖に飛び付いて取っ手を引くも、ピッタリと固着してビクともしない。元の強度を完全に凌駕していた。屈強な男性が本腰を入れて押し止めているように固い。

「出してよ!! 助けて誰かぁ!!」

 こめかみがズキリと、疼く。

 背後で軽い音が鳴った。

 振り向くと、欄干から差し込む光で見える室内の何かがおかしい。

 そうだ、押入れだ。さっきは開いていなかった押入れが、開いている――

「怖いよぉお父さん!!陽平!!お母さん!!」

 必死で襖を叩きまくる。この際、外してしまってもいいと思った。


シュカンッ 

ガタンッ

                      スカッ 

 スコッ  

           ガリッ

 

 背後。自分の悲鳴を上回り、恐怖心さえ吹き飛ばす物音の群れ。

 見なければいいのに、背後を顧みてしまう。

 押入れから障子から天袋から、ほんの数秒前まで閉まっていたモノが全部開かれて黒い口を開けている。そして、まるでだるまさんがころんだをするように、数秒の間憮然としていた。何か空気が漏れるような、ヒューヒューという音がする。ちょうど、夢佳が発作を起こした時に器官からこんな音がする。

「なにあれ……」

 待ち構えていたように、部屋の奥から畳が二枚ずつ、巨大な拳で突き上げるように宙に投げ出されていく。畳は壁や天井にぶつかり、穴を空けたり凹ませたりしながら床下の〝何か〟が確実にこちらにやって来る。まるで鮫の背びれが水を掻き割って迫るように真っ直ぐこちらへ突き進んでくる。

 ――今しかない。

 襖を開け放ち、死にもの狂いで廊下を走り、台所まで辿り着いた。

「助けてお母さっ」仕切りに躓き、床に倒れ込む。

「なに、ちょっと、どうしたのよ?」

 母が迷惑そうな顔でニンジン片手に駆け寄る。

「【灯の間】、行っちゃダメ、絶対ッ」

 動揺し過ぎて単語しか出てこない。

「え? あんた何言ってるの。あの部屋はもう使わないって話だったでしょ? 締め切ってあったのに、なんで勝手に入るのよ?」

 母は刺々しく詰め寄った。

「あの部屋に、何かあるの……この家おかしい。お母さん、やっぱりこの家、変っ」

 苦虫を噛み潰したように、すぐに背を向ける。

「何を今更。もうこの家の住人になったんだから、そんな煮え切らない事言わないの。やめてちょうだい」

「だから、やめてとかそういう問題じゃない! あの部屋は危ない。近付いたらダメなんだってば」

 美鈴は床に座り直し、強い口調で押した。

「はぁ? 私からしたらあんたが一番危ないわよぉ。環境が変わったからって子供みたいな態度ばっかり。成人したんだから、家族を困らせるような事はやめなさい」

 ニンジンに包丁の刃を滑り込ませながら、幼子に接するような態度をとる母。

 もはや、抗議の念すら湧かなかった。


          ***

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