3・庭の放置車両

『あ~。アレはですねぇその、前に住んでいらした方が乗ってみえて、ここを出る時に置いてそのままなんですよ。ええ。だけれども前にもお話したように、もう夜逃げみたいな形で一晩の内に出て行かれたものですからね。細かい家財道具なんかはウチの社員が一通り片付けましたけど、車だけはどうしても業者の手配の都合がつきませんで、ええ』

「そうですか。分かりました。また何か分かったりしたら、連絡を頂けますか」

『ええ、結構ですよ。はい、では失礼致します』

 通話を終了し、カレンダー式の待ち受けに戻る画面を見届け、

「何でもないって。お母さんの言った通り前の人が捨てていったって」としおらしく告げた。

 それを聞いた美鈴は眉間にありったけの皺を寄せ集める。

「そこじゃない、それが聞きたいんじゃなくて」

「何が知りたいの」

 母はシンクに向かいながら、面倒臭そうに拳で肩を叩いた。

「私はあの車がどんな人に、どういう風に扱われて、どういう経緯であそこに至ったかを知りたいの。例えば事故を起こしていないかとか、人を轢き殺していないかとか、練炭自殺に使われなかったかとか、そういう、いきさつの部分を聞きたいの」

 今までの経験からして、物がこうした夢や幻覚・幻聴でアプローチを仕掛けて来る場合は、その物の持ち主や過去の持ち主の念、残留思念が関係している事が多い。

稀に物体そのものの感情が現れる場合もあるが、それはかなり特殊なケースだ。

 今回は車がアプローチを仕掛けてきた形だが、それはあくまで表面上の形であり、果たして車そのものの感情なのか、その夜逃げしたというかつての持ち主か、はたまたこの車に轢き殺されたかもしれない誰かなのか、意志の正体がはっきりと分からない。

 母は太く短い溜め息で返す。

「そんなこと、たかが不動産屋が知る訳ないでしょう。だいたい夜逃げみたいに居なくなったって事は、金銭的に苦しくなって借金取りから逃げたとか、殆どそういうものよ。そんな風に人様の事をあれこれ詮索しないことね」

 夕食の皿を洗いながらぶっきらぼうに問答する母は、勘違いが激しい。

 人様の過去を知りたいのではない。車の過去を知りたいのだ。

「詮索とかじゃなくて、把握しておきたいだけ」

 美鈴は視線をずらし、少しばかり開いた換気用の窓から、丸太のように地面に埋まり込んで憮然としている車を見やった。苔むして磨り硝子のようになったウインドウの先に、いつも人間がじっと座っているように感じる。

こめかみがズキリ、疼く。

「別に近付かなければ済む話じゃないの?」

「庭にある時点でもう十分近いって」

「だったら自分でお金貯めて、レッカー屋さんでも呼んだら済む話。はい、もうこの話はお終いにして。お母さんも忙しいから」

 チタン製のよく砥いだ刺身包丁の水を切り、頭上に設置した刃物差しに差し込んだ。

「……近付かないも何も、真横にあるんだもん。どうしようもないじゃん」

 聞こえないように呟いてから、傍らの椅子を引いてそっと腰掛ける。

「あなた、レポートとかあるんでしょ。さっさと仕上げちゃいなさい」

「あっち~。炭酸ない、炭酸」

 バスタオルで濡れた髪を拭きながら、弟の陽平が現れた。

 すぐに険悪な空気を察知し、引き攣った笑顔を作る。

「何? どうしたの二人とも。なんか殺気感じるね」

「ううん、何でもないのよ。冷蔵庫の中、見てごらんなさい」

 母は煮込みうどんを拵えた土鍋に大量の水を注ぎながら、涼しく返答する。

 しかし姉の表情を見る限り、少なくとも〝何でもない〟事はない。

 陽平は思い出したように軽く指を鳴らした。

「姉ちゃん。またアレ、感じたんだろ」

 美鈴は冷蔵庫へ向かう弟の背中に、氷柱つららのような視線をザクッと突き立てた。

「馬鹿にしたように言わないで。大変なんだからね、当事者は」

 瓶サイダーをそのまま呷ってから、やれやれ、といった調子で応える。

「ごめん。だけど姉ちゃんさぁ、体質なのは仕方ないけど、気にし過ぎなんだって。そこは努力の問題だよな? 流石に引っ越し翌日にそんな事言われちゃあ、俺ら家族の方こそどうしようってなるからさ」

「だから、アンタには見えないモノとか聞こえないモノとかが私には分かるの。これのせいですごく神経使うのよ。よく軽々しく扱えるよね」

「はぁ~いはい……この会話、うちの中だけだから通用するけど、他所でやったら姉ちゃんが変人扱いされるぜ。それとも、今日生理だっけ」

「陽平。あなたって子は」母が露骨に嫌な顔をする。

 そう、これこそがが直面する最大の障壁。他者の理解が得られない事だ。

「もうアンタ、ほんとどうしようもないわ。ダメ、幻滅だわ」

 気付けば、吐き捨てるような話し方になっている。陽平は激しく噎せ返る。

「あのさ。じゃあ姉ちゃんが今、一番イヤな感じがするものは一体なんなの? それを教えてくれたらオレも一緒に考えてみる。何かできないか」

「それ。この車」

「え?」

 陽平は換気窓から外を見て、吹き出した。

「このポンコツ? 廃車じゃん。粗大ゴミだよゴミ! 何が怖いの」

「今日、これが夢に出たの。すごくイヤな感じがする。なんというか悪意を感じる」

 今に始まった事じゃないが。下見の時からだが。

「いや、俺は何も感じないけどなぁ。本当にヤバイやつだったら、俺も真っ先に察知しちゃうタチだからさ。うん、たぶん何もないぜ」

「もう、イイ加減にしてちょうだい。気持ち悪い」

 黙っていた母が箸を洗い終え、水を止めた。

 美鈴は飲み物を注ぐためのマグカップを取りに席を立った。

「気持ち悪いのは私の方なんだけど」

 母の返事は無い。

「どっちもどっちだろ。こんなゴミ、親父の知り合いに頼んですぐ――あぶねぇッ!!」「きゃんッ!!」

 陽平はヒラリと身を躱し、美鈴も後ろに倒れ込んだ。

 間一髪だった。二人の正面の床に包丁が三本、垂直に落下してきた。

「あ、あぶなかったァ……!」

 包丁は三本とも卒塔婆のように床に突き立ち、明りを反射して攻撃的に光っている。

「あぁビックリした。二人とも大丈夫だった? ちょっと、どうなってるのよこれ」

 幸代は包丁立てを確認した。二本のビスで留まっているうちの一本が緩んで外れ、重みで振り子のように回転し、立ててあった包丁が勢いよく投げ出されたらしい。

「……冗談じゃない……」

 美鈴はゾッとして、思わず自分の肩を抱いた。

「おーい何してる?」

 ただならぬ様子に義久まで現れた。

「~それは危なかったなぁ。とにかく怪我が無くて良かった。包丁なんて刺さったら、一大事だもんな」

 義久はビスの代わりに釘を打ち込んで応急処置をし、後日ホームセンターで新しい包丁立てを買う事にした。


 どうも納得できない。

 過去に起きた猟奇殺人事件を特集しているテレビ番組に生ぬるい視線を向けながら、緑茶のカップを傾ける。

 包丁は、陽平を狙って落下したように思う。

 陽平が車を嘲笑したから?

 そんな馬鹿な。ありえない。どこにそんな根拠が。

 根拠。

 怪奇現象に、根拠。

 何を。馬鹿げているのは、自分の頭ではないか。


          ***


 起床し、カーテンを開ける。風光明媚で緑豊かな山々が春の麗らかな日差しの中で色濃く描かれ、絵画のように美しい。 

 元々はこの先の盆地に村があったらしい。中腹に位置するここでもこんなに気持ちがいいのだから、高所の盆地ともなれば地上の楽園だったろう。日本らしい景色が大好きな美鈴は、暫し大自然に憩いを求めていた。

「ふぅ」

 階段を降り、リビングもとい台所の引き戸を開ける。

「……あれ」

 いる筈の家族が居ない。サイフォンには熱いコーヒーが沸かされ、よく練られたマーガリンにはバターナイフが刺さったまま。TVではおたまじゃくしの大発生に悩む農家のニュースが流れており、飼っている金魚は自分の姿を認めるなり餌を求めて水面に上がってきた。いつもの風景の中に、異様な静けさだけが立ち込めている。

 音としての静けさではなく、空気が、どうしようもなく硬かった。

「お母さーん。お父さーん」

 返事は無い。妙な蒸し暑さとひりつくような喉の痛みが絶えず襲っている。

「陽平ー。ユメー」

 風呂場、便所、父の部屋、庭。どこにも誰も居ない。

 こめかみがズキリと、疼く。

 まさか寝過ごしたかと思って時計を見るも、ちゃんと午前七時九分を差している。

 美鈴は自分の呼吸の音を意識した事なんて、いつ振りだろうかと真顔になった。

「今日は何も予定は無かった筈……」

 牧浦家は怠け者の集まりだから、そもそも早朝から何処かへ繰り出すなんて大災害でも起きない限り有り得ないことだ。

「そうだ、車」

 スリッパを突っ掛けて駐車場(と言っても、ただの家の陰)へ行ってみた。ある。母のマツダ・デミオと父のヴィクター・レオンは仲良く並んで停まっている。玄関脇には弟の原付もしっかり在宅だ。

 スマートホンを取り出し、母に電話を掛ける。

『お掛けになった電話番号は、現在使われていないか、電波の』「なんで?」

 全員の番号が繋がらなかった。そんな筈はない。いくら山奥とはいえ、電波が届かないという事はない。アンテナもしっかりと立っている。

「どうなってるの」

 美鈴はとうとう家を飛び出し、五十メートル程走っての杉野宅へ駆け込み、インターホンを押した。いつも早くから畑に出ている杉野すぎの達也たつや氏の在宅は、窮屈なスペースに停められた軽トラックで判断する。

「杉野さーん! 早くにすみませーん、杉野さーん!」

 再三呼び掛けても、返答がない。はっとした。先程から人の気配、人間の発する周波数が全く感じられない。空気が静まり返っている理由はこれではないか。博物館にある精巧に再現された、しかし生活感に欠けたジオラマの中に一人で居るような感覚。

 過去にも経験がある。

中学生の頃。初恋の男子とのデートで廃業した遊園地に遊びに行った際、用を足すために離れていった男子を待つ間に感じた。本当は華やかで賑やかなはずの場所が怖いと思うほど静まり返っていると、空間がぐるぐると回り出すような錯覚に陥り、その場からぴたりと動けなくなる。その時と全く同じ感覚だ。

 風が吹かない。

 音が鳴らない。

 日が傾かない。

 気が付くと、どこをどう通って来たのか、町内会長の家の門前に立ち尽くしていた。自宅からここまでは車で十五分は掛かるというのに、意識は掻い摘んだように唐突に「今」にアクセスした。恐る恐る戸を叩くが、やはり返答が無い。

 また気が付くと、高校時代の友人のアパートの廊下に立っていた。目の前には、友人の部屋のドアがある。自宅から四十分は掛かる場所だ。もちろん人の気配は皆無。

「みんな、どこへ行ったの」

 思えば、街にも人や車の往来がまるで無い。

誰も渡る者の居ない交差点、見る者の居ない信号、客の居ないコンビニ、動かない電車、鳴らない踏切警報機、下りない遮断桿。

「おかしい。ありえない」

 半ばパニックになりながら家に帰り着いた。

 つい先程まで清々しい朝だったのに、もう夜が更けていた。

(!?)

 ――敷地の入り口に佇む、黒い塊――

 わにのようにずんぐりと構えて身動みじろぎ一つしないソレは、雲の切れ間から差し込む満月の灯りに朧に照らし出された車だった。こちらに鼻面を向けて蹲るセダン。

「……うそだ」

 マークⅡ。

「どうして、動いてるの」

 月光でぼんやりと浮かび上がった車体は、その問い掛けに応えるかのように静かに近付いてくる。生臭い臭いがする。夢の光景が閃く、白昼に視た車内に居座る人の影。タイヤが土を踏む湿っぽい音だけが鮮烈に耳殻を這い回る。

 美鈴は片足を引いた。黙って動向を見守る。

 やがて、炎のような青白い靄が車体を包んだ。

 魅入られたように少しも動く事が出来ない。

 車は敷地から道に出たところで音も無く加速を始め、無音で急接近を仕掛けてきた。

「っ……!!」

 いよいよぶつかると思った矢先、目の前に巨大な猫の顔が現れた。

「うわっ!!」

 ベッドに寝ていた。その顔を一匹の小奇麗な白猫が覗き込んでいる。

「ひい、なにっ!?」

 美鈴が驚いて上体を退くと、向こうはヒラリと身を翻し、開け放たれた窓から外へ出て行った。カーテンが風も無いのにそよそよと、機嫌良さげに揺れていた。

 ひりつくような胸の痛みに、眉間に皺を寄せながら小さく喘ぐ。

「……この家、本当にやばいかも……」


          ***


「うん、本当にまずいな。それは」

 カップにミルクを注ぎ、表情を曇らせる。こっちも不安が増す。

「どういう風に、まずいと思う?」

 口内と同じ苦みが感情からも滔々と湧き出して表情に困る。

「確実にその廃車に憑いてる何かに狙われてる。気を付けろよ。お前たぶんイジめやすいんだと思うわ」

 三船みふねゆう。経営学部三回生で美鈴のボーイフレンド。短い黒髪と林業のアルバイトで日焼けした肌が美鈴とは対照的で、凸凹カップルとよく冷やかされる。小中高と水泳で鍛えた体は逞しく、一八○強の身長もあって精悍な印象を与える。また、当キャンパスで密かに活動する【護身術研究会】の副会長も務める偉丈夫だ。

「狙われてるって? ねえそれすっごく嫌な表現」

 優は両手の指を絡ませては解しを繰り返して不快感を主張。

「アプローチの仕方からして攻撃的だからな。悪意しか感じられないだろ、おまえも」

「だから狙ってるって解釈は早とちりというか、誤解というか。もっと違う意味がある気がするんだけど」

「いやいや。事実何度も夢に出て来て、決まっておまえに嫌がらせしてくるんだろ。その車、明らかにおまえに危害を加えようとしてるって」

「じゃあそれがどんな内容で、且つどれくらいのレベルで私に干渉しているのかが全くもって見当」「おは~!」

 突然、突き抜けて明るい声の女子が二人の会話に割り込んだ。

「お、おは」

 優はさっと目を逸らした。

「なになにコレは、優君が美鈴の癒えない心の傷を、文字通り優しくケアしてあげてるリア充の図かな?」

 佐藤さとうかえで。教育学部三回生で去年の研究合宿で知り合った仲だ。名前だけの登山サークルに所属し、この季節はいつもトレーニングという名のハイキング、新規開拓と称する廃虚や心霊スポット巡りに嬉々狂々と興じている。今日もキャップを逆向きに被って薄手のパーカーにジャージのボトムというラッパーなファッション。

「相ッ変わらず喧しいな。この空気読めねえかよ?」

「暗いよりかよっぽどマシでしょ。あ、アイスコーヒーいいな~あたしも頼む」

 優は半ば呆れながらも、しぶしぶといった感じに隣の椅子に置いてあった鞄を下ろして彼女に席を設けてやった。

「お、優君の隣ゲット! 嫉妬するなよ美鈴」

「一体どこに嫉妬する要素があるのよ」

 楓の登場によって一瞬明るくなった空気も、話が戻った途端、再び陰鬱になった。

 しかし楓は空気に毒されるという事はなく、彼女を混ぜると幾ばくか話が展開し易くなるのだった。その意味では一役買っている。

「ちょっと見てみたいんですけど、そのクルマ」

 仕舞いにはそんな事まで言い出す始末。

「本気で言ってる? もし冗談だとしたら、今のうちに撤回してほしい」

 美鈴は体ごと楓に向かって、文字通り全身全霊で抗議の意を表した。

「冗談で言うワケないじゃん」

「だめだめ! 関わらない方がイイよ。ああいうのは本当に厄介だから」

 美鈴は楓の片足を弾き返そうと、柄でもなく躍起になった。

 というのも楓は性格こそ突き抜けて明るいものの、霊や某かの思念の影響を顕著に受けてしまう、俗に言う憑依体質の持ち主なのだ。これまでに何度か彼女の危機を優と美鈴で救ってきた過去がある。

 そしてそれを知るのも、守れるのも、自分たちしか居ない。その責任感があった。

「そうだぞ。今回は本当によしとけ。悪い事は言わねぇから」

 ゆえに優も折を入れるが、楓の瞳は悪い意味で童心を取り戻していた。

 こうなると、とうに手遅れなのだ。

「うは、盛り上がってきた。じゃあ明日の午後ね。二人とも講義入ってないよね?」

「お前、人の話を聞くって事が出来ねぇか。それにこの前、金曜はロシア語が入ってるとか言ってなかったか?」

 優は背凭れにふん反り返って渋顔を見せた。せっかくバッセン打ちっぱなし3時間に誘ってやったら、ロシア語は予習が命だと抜かしてすっぽかされた恨みが未だに消えない。

「いーのいーの、サボッちゃえあんなの。教授は滑舌悪いし声も小さいから何言ってるか分かんないし。ニ・ヴァルヌィスィア!」

「お前、絶対ロクな男に恵まれない」

「はあ!? そっちこそ美鈴と出逢わなかったら未だにただのムサ苦しい泥マッチョでいたでしょーに!」

「うっせえ。教育学部が売り言葉に買い言葉で喧嘩するな。ガキの喧嘩止める側だろ」

「喧嘩吹っ掛けたのはそっちでしょーが!」

 美鈴は紙ナプキンで口を拭いながら、血気盛んな二人に聞こえないよう溜息をついた。


          ***


  電車とバスで一時間半を費やし、楓と優が来てしまった。

  結局、来てしまった。

  止める事が出来なかった……己の甘えゆえに。

「あたし、こう見えても実はれっきとした霊感少女でね」

「しょうじょお? いや、ちょっと待て。ちょっと、待て。お前しょうじょなのか」

「なんか文句あるの」

「日本語、分かるか。しょうじょってのは」

「それ次言ったら祟り殺すからね」

 道中、ずっとそんな事を囁いては斜めの方向に二人をビビらせる楓だったが、最寄りの鵜集うつどい駅を降りた辺りから急に体調不良を訴え始めた。

「あ~、また痛くなってきた」

 庫和戸町に入ってから、ずっと両肩が痛いという。

 そして一歩一歩は待ったなく、牧浦家が近付くにつれ訴えは激しさを増す。優はさっぱり信じていないようで、完全にスルーしていたが、曲がりなりにもかのじょを巻き込んでしまった事にどこか罪悪感を感じていた美鈴は気が気ではなかった。

「どうしたの。ちょっと大丈夫?」

 美鈴が心配して肩を抱いてやると、楓の身体はクラッと力が抜けたようになった。

その様子を見て、全く霊感の無い優でさえ、いよいよ気味悪さを隠し切れなくなっていた。

「ほら見ろ、ロクなことにならねえだろ。佐藤。もう帰った方がいいぞお前は」

 彼はコンビニ駐車場などのちょっとした空間を見つける度に楓を引き留めようと努めるが、これが不思議なことに彼女は頑として聞き入れないのだった。

「……いやだ」

「あぁ!?」

「ここまで来たのに、ノコノコ帰る訳にはいかないってば。女の好奇心ナメないでよね」

「下らねぇ事言ってんじゃねえよ。ノコノコ行って何か持ち帰る方がリスクだろうがよ」

「リスクなんて気にしてたら、何も出来ないって」

「おま、お前なぁ! 自分が人に迷惑かけてるってこと分かってんのか!」

「ちょっと優、落ち着いて。そこまで言わなくてもいいから」

 延々それの繰り返し。銀行の正面で十五分も押し問答したが、それでも帰ろうとはしない。それで結局、二人は彼女の執念に根負けしてしまう形となった。


「――コレなんだけど」

 美鈴はぎこちなく、草と苔に覆われて自然に還りつつある車を紹介した。

 優もこの家に来るのは初めてで、マークⅡをしげしげと観察する。熟練の材木職人が目利きをするように、いろいろと姿勢を変えて矯めつ眇めつした。

「この車種か。めちゃくちゃ古いやつだな」

 彼は車に対しては怖いという素振りを全く見せず、すぐ無関心になった。

 楓はといえば、ただじっと見つめるのみ。美鈴はすぐさま車から離れ言葉を繋ぐ。

「それはそうとして、大事なこと言うよ。この車は前の家主さんが夜逃げみたいに急に失踪して、置き去りにされた物らしいの。ただここに捨てられてる訳じゃなくて、どうも訳アリらしくて……不動産屋の人も詳しい事は分からないみたい。トランクの中に何が入っているのかとかも」

 ここで優の表情がぐしゃりと歪む。

「夜逃げ? 初耳だぞそんな事。俺はただ、庭に放置されてるとしか聞いてないんだけど」

 彼女に対しては珍しく、声を荒らげた。こういう声を出すこと自体は珍しくはないが。

「ごめん。なかなか外では言い辛くて、それに言うタイミングも掴めなかったし……持ち主の人がある日突然居なくなったって事も、不動産屋の人から聞いた。だから捨てられたというより持ち主に逃げられたっていう方が正しいかもしれない。それで、もしかしたら持ち主を捜したいのかなって思ったり、逆に持ち主がこの車を忘れられなくて、私を介してそれを伝えているのかなって思ったりするんだけど……」

「無理無理。お手上げ。こんなの、俺みてえな凡人にどうこう出来る問題じゃない」

 優は明後日の方を見て、片手をふわっと翻した。体格や威厳、毅然とした態度で頼りがいのある彼だが、霊感はてんで持ち合わせておらず、身の振り方が分からないのも無理はない。

「言った通りでしょ。とことんロクでもないのよ、コレ」

 優は不意にこちらを振り返り、真顔で詰め寄る。

「だからな美鈴。本当にやめろ、そういうのは。借金か近所トラブルか、とにかくそういう関係は一切やめた方がいい。中古品は前の持ち主の負の感情が染み付いてるとか言うだろ。情を盛ったりしたらダメなんだって」

 聞き覚えのある説教。

「それはそりゃ私も、そう思うけどもさ……」

 優の言い分は最もだ。しかし両親は頼れるものではないし、弟は馬鹿にしきっている。それでもここに住まなければいけない私の身にもなってよ。


 ――大きなかぶ……とてもとても大きなかぶ。

 絵本では、婆さんから孫から動物たちまで力を合わせてくれて、かぶは抜けた。

 ところが、現実はどうだ?

 私は自分一人でこのかぶを抜かなければならないらしい。

 こんなひどい話、古今東西あるのだろうか? あっていいのだろうか?

 何をどこからどう崩していくべきか、それすら分からないというのに。

 一番いいのは車をどこかで処分してもらう事だが、如何せんアテもツテも無い。

 処分の仕方も分からない。きっと書類とか登録の抹消とかややこしいに決まってる。


「もう下手に干渉せずに不用品回収の業者呼べよ。これが一番だろ」

「親も同じこと言うけども、市役所に届けたりとかしなきゃいけないし、処分に掛かるお金はすごく高いらしい。そもそも、車の書類がどこにあるのかもわからない」

そんなこんなで御託を並べるうち、あぁ、どうして下見の際にもっとハッキリ嫌だと言わなかったのか、また己の不甲斐なさを嘆いた。自分にも非は多分にあるのだ。

「なんだもう、八方塞がりかよ。それなら俺らとしても掛ける言葉が無えわ」

 夢の引っ越し物語が悪夢の序章に塗り替えられたのは、目次のはるか手前だった、しかもその原因の芽を摘み取らなかったのは他でもない筆者たる自分自身という悲劇。

「ちょ、コレ何かな」

 車を矯めつ眇めつしていた楓が、徐にルームミラー辺りを指差す。

「ん、何だろう」

 見た瞬間、美鈴は自分の顔が石灰よりも白くなったと思った。全く気付かずにいたが、ルームミラーの支柱に猫と林檎のストラップがぶら下がっている。

 こめかみがズキリと、疼く。

「いいな~コレ。なにげに茶目っ気のある人だったのかな、元オーナーって」

「可愛いとか、そういう問題じゃないだろ」

「えへへへへ……うっ?」

 前触れなく、楓がその場に蹲った。膝をつき、車体に凭れ掛かる。

「か、楓!?」「おい急にどうした?」

 胸を押さえたまま、身動ぎもしなくなってしまった。

 度肝を抜かれた二人は大慌てで背中を擦ったり肩を叩いたりする。

「佐藤! おいどうした、貧血?」

「気持ち悪いの? 眩暈? 大丈夫?」

 反応が無い。

「何してるの。あらま、ちょっと大丈夫?」

 騒ぎに気付いた幸代が家から飛び出してきた。楓は三人に支えられ、牧浦家の客室【天の間】に丁重に横たえられた。

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