2・怪異の発現

 鼻から唸りを吐きながら、驚くほど急勾配の階段を慎重に上がる。

 この違和感には心当たりがある。仕事でいつも通りの時刻にいつも通りの箱(パネルバンの四tロングトラック)に乗って会社を出る時分、同じ感覚に襲われる事がままある。この前は大事な業務用携帯電話を事務所に置きっ放しで、それが違和感として知らせてくれていた。

 あの時と全く同じ。居ても立っても居られない、鬱陶しい不快感。

「……………………」

 半開きの扉からそっと中を覗くと、そこに幻想のように少女の後ろ姿が揺れていた。一瞬、ゾッと背筋が凍る。しかし気付けば、その甘美なバックシルエットにすっかり魅入っていた――アッシュ・ブラウンに染めたセミロングの良質な髪が、細くてもしっかりと曲線美を描く首筋をなぞる。しきりに吹き込むおろしが毛先を掬って神秘的に靡かせている。湯上りのように官能的で柔らかい香りが義久の鼻腔に届いた。

 我が娘ながら何とも湛えられぬ艶美な色気に息を呑む。これでもまだ二十歳だ。

「美鈴」

 くるりと振り向いた、整った顔が印象的である。

「なに、どうしたの?」

 微かに首を傾げた仕草がドキリとさせる。

「お前こそどうしたんだ、一人でそんなとこ突っ立って」

 義久は緊張が解け、部屋に踏み入る。

「待って」

 徐に一歩、歩み寄る。

「ん?」

 美鈴は小難しい顔で、こめかみにそっと指を置いた。

「なに、どうした美鈴」

「――ううん、なんでもない。お父さん気を付けて。ここ、すごく危険だから――」

 危険。

 嫌な予感でもなく。違和感でもなく。はっきりとした危険。

「危険?いったい、な」「何でもない」

 すぐに元の場所へ視線を戻した。

「そ、そうか。ここ、お前の部屋にするんだっけか?」

「そう。どういうレイアウトにしようかなと思ってた」

「あぁそう……あの、もし手が空いたら母さんの手伝いしてやってくれるか」

 妙に居心地が悪くなった義久は、なよなよと語尾を濁し、やっとこさ言い終えた。

「イイよ。何なら今からでも」

 立ちんぼする父親をしなやかに躱すと、弾むように階段を駆け下りていった。


 枷木かせぎ市南端に位置する郊外の町、くら和戸わど町。

 数十年前に時が止まったような閑静なベッドタウン。世相を知らぬ反面、時間が緩やかに流れ、多少の不便はあってもストレスはあまり溜まらない。そうした所以で子育てと老後にはもってこいだと担がれている。自然がごく身近にあり、養育環境、地域自給率とも良好。ふるさと納税の返礼品は、この町で作られるお茶とそうめんだ。

 ……そんな評判は、なかなか聞こえが良いものだ。

 喘息持ちの末っ子、夢佳の身を案じたのと、それまで住んだ家の外壁が経年劣化でヤレてきたのと二本立ての大義名分で以て、この地へやってきた。

「不動産側としてはさ、時代遅れでニーズも低いあばら家なんて早々に処分したいと思ってる筈だよ。いつまでも居残って管理費を毟り取る古参物件とよーやく手を切れて、さぞかし好都合だろうなあ。さて、俺達で大事にしてやらなきゃなあ」

 義久は引っ越し決定の日、缶ビール片手に今回の〝美談〟に舌鼓を打った。

「また浮かれてる。お父さん、その子供っぽいとこ治らないの?」

 美鈴は眉を寄せた。幸代も腕を組み直す。

「そうよアナタ、この間だってそうじゃない。アタシになんの断りもなく急に自転車買ってきて。それも15万もする自転車なんて、誰も買わないわよ。自転車に十五万だなんて……考えられない」

 塩水で洗った苺を一粒摘まんだ。義久は憤慨する。

「なんでだよ~、そこら辺の自転車とは格が違うんだぞ。堅牢が売りのドイツ製! 漕ぎ出しがこう、スーッしてとんでもなく軽くてさ、最高で80キロ出せるんだから。空気圧も8K㎩で雨の日なんかは」「もう分かったってば。お父さん、男のクセにほんと惚れっぽいね」

「ほんとよ、ねぇ」

 家の魅力(美鈴からしたら魔力)に憑かれたのも併せての苦言だった。


 皆がニコニコ笑って迎えるのが引っ越しか?

 夢の新生活が始まるのだから、それが絵面としては好ましい。

 ところが一人だけ笑っていない者がいる。美鈴だ。国立大学心理学部で学ぶ三回生で性格は柔和ながら一本筋が通り、気丈な面もある。見た目の清楚さから男女問わず人気もある。

 さらに交際して九ヶ月を迎えようとするボーイフレンドがおり、何の変哲もなく〝女子大生〟をやっている。

 ――問題は彼女の体質。

 霊感……並の人間から一歩はみ出たスピリチュアルな能力。

 それは彼女が11歳の頃、突如として宿った。それ故に今まで助けられた事も、逆に迷惑を被った事も五分五分の御相子状態だ。

 彼女自身、自分は人と少し違っているけれど、自分には何も悪いところは無いと胸を張っているだけ偉かった。そもそもそういった超常現象だの、怪奇現象だのを信用しない両親は、唐突に覚醒した娘を前に気を病んでしまったのではと懊悩した。しかし知人に相談したりして聞き出すと、皆が愛娘に望まずとも宿ってしまった『力』であると口を揃える。

 因みに霊能力者なんていう、鼻に虫でも入ったような人間に相談する気は毛頭無い。

 結局、解決策は見出せず。

 未だ完全に信用してはいないが、どう向き合っていくか悩む自分らとは違い潔い姿を見せた娘を誇りに思っている。女性の覚悟は岩をも通すという。これは正に、その言葉通りだった。

 

「ねぇ、コレ何かな?」

 美鈴は押入れの奥からラーメンどんぶり程度の木箱を引っ張り出した。

「さあ何だろう? かなり汚いね。前の人が置いて行ったやつじゃないかな」

 父は愛車のドイツ製ロードバイクを磨く手を止め、美鈴の横に膝を畳んだ。

「よっこらしょ。どれ、こっちに貸してごらん」

 彼が蓋を開けようとすると、とてつもなく硬い。思い切り引き上げても、まるで溶接でもされているようにさっぱり手応えがない。木製の薄い蓋がこんなに固い筈がない。

「あだっ!!」

 火傷でもしたように放り出した。

「お父さん大丈夫!?」

「いててててて……うわ、見てよほら。棘が刺さっちゃった。いてーなー」

 右手の人差し指に木のささくれが食い込んでいた。すぐさま水道で手を洗いながら「それはもうゴミに出そう。気持ち悪いし、汚いし」と呟くや、そそくさと自分の世界に篭ってしまった。

 投げ捨てられて逆立ちした木箱を拾い上げ、思い付きで蓋を引っ張ってみた。

「え?」

 何の雑作も無く開いた。体格の良い父があれだけ赤くなってもビクともしなかったというのに、美鈴のネイルを施した華奢な指でいとも容易く開いた。

 風化した箱の中には、古い新聞紙に包まれた何かが入っている。

 一瞬躊躇ったが、もう見てしまったのだから……意を決し、手を伸ばす。

 包みの中から現れたのは炭のような、しかし辛うじてそれが何か分かる物体だった。

「リンゴ?」

 脳裏に昨夜視た夢の映像が閃く。毛のびっしり生えた林檎が飛んで来る悪夢。目が覚めた直後こそ恐ろしいと戦慄したが、今になって思い返せばどうしようもなく馬鹿らしい。 

 なに、ただの不安が見せた悪夢に過ぎない。重く考える事も気を煩わす必要もな い。

 林檎を元通りに包んで箱に仕舞い、しっかり蓋をして押入れの奥に押し込んだ。

 その晩は引っ越し記念として寿司を食べに行き、慌ただしい一日目が幕を閉じた。


          ***


「んん……あれ、何これ……」

 夜中に目が覚めたが、体がやけに固くなっている事に驚いて飛び起きた。

「うがっぐへッ」

 胸に何かぶつかる。これは――車のハンドル。メーターパネルも見える。

すぐに庭先に放置されているマークⅡの車内に居る事が分かった。

「え?……私どうしてこんなところに居るの……?」

 長らく放置されていたであろう車内はひどく黴臭く、苔のようなものが繁殖してシートの背凭れはヌルヌルと湿っていた。

「何これ、気持ち悪ッ! やだっ、ちょっと開かないんだけど!」

 ドアを開けようとレバーを引いたが、中でロッドが死んでいるのか手応えがない。

「開かない、なにこれ、お父さーん!」

 窓を叩いても、音が異様に篭る。空気の濃度が周りより薄いように感じる。

「お父さん、陽平! 出してー!」

 心臓が飛び出しそうになった。

 まるで彼女の悲鳴に応えるかのように、かかる筈のないエンジンが咳き込むようにしてクランキングを始めた。美鈴はその瞬間、身を硬直させた。

 セルモーターは途中で何度も引っ掛かり、苦しそうにまた回り始める。

 やがて激しい振動を伴い、機関内部に火が入った。真っ黒い煙が濛々と立ち昇り、むっとする焦げた臭い、古くなったガソリンのなんとも言えない刺激臭が車内に充満した。

「何なのこれ!?」

 苔むした窓を叩き、声の限り叫ぶ。車ごと深い水底に沈んでいるようだ。

「聞こえないの……ちょっとみんなぁ!」

 回り始めたエンジンは息切れしながらもよろよろと吹け上がり、回転数を上げてギアが入り、地面に埋まり込んだタイヤを脱出させてゆっくりと走り始めた。

 車は彼女を乗せて門から細い一本道に出ると速度を上げ、道に降りると、そのまま峠を昇り始めた。アクセルペダルがしきりに浮き沈みを繰り返し、ハンドルは生き物のように自在にくるくると回って舵を執っている。

「止めてよ!! 止まれっ!! このっ」

 美鈴は去年の夏にAT限定免許を取得しており、運転の心得はある。

「止ぉまれぇえええええ」

 両手でハンドルを掴み、フットブレーキに全体重を掛ける。しかし車はその抵抗をものともせず、頑なに走行を続ける。サイドブレーキを引いても同じだった。車自体に強い意志が取り憑き、まるで聞き入れない。彼女はこめかみに刺すような痛みを感じ、尋常でない悪意をひしひしと感じ始めていた。それは生きている人間の情念ではなく、この世のものでない――三途の川の川底に積もった汚泥――そこから発する負の想念が、一途に車輪を回しているかのように。

 濁った橙色したヘッドライトが切り拓くきついカーブへひたすら切り込む。牧浦家より上の方、立ち入り禁止になってから道は荒れ放題だ。車輪が道のコブに乗り上げる度、振動が尾骶骨から脊髄を直撃した。

 腐食した車体は今にも分解してしまいそうな、危なっかしい音を立てている。

 不意にハイビームに切り替わり、真っ黒な洞穴を照らし出す。

「イヤだ、ダメ……あそこはイヤ!!」

 渾身の力でハンドルに縋る。

 曲がらない。

「お願いだから!!」


 ヘッドライトの黄色い光が、髪を振り乱した和装の少女を一瞬、鮮烈に照らし出した。


「きゃああああああああああああああああああああああああああああ」


 残響と共に目を覚ますと、まだ夜も明けていない窓辺から差し込む月明かりに、汗だくの肌が青白く照らされていた。


          ***

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