1・引っ越し当日

「どうもお世話になりました。ご苦労様」

 撤収する引っ越し業者のトラックに背を向け、思いっ切り伸びをした。

「さぁて。これからが本番だぞ。覚悟は出来てるかぁ?」

 牧浦家主人、牧浦まきうらよしひさはにんまりした。

「まだ続けんのかよ。もう疲れたって、少し休もうぜ」

 高校二年になる長男・ようへいは廊下に置かれたソファに崩れ込み、風化してガサガサした天井を仰いだ。連日バイト漬け、おまけに昨日のデート疲れもあってもう立ち上がれないと、問わず語りの弁解。

「大変だな。って、何言ってるんだお前は。男だろ。しっかりしろよほらぁ」

「いっでっ」

 肩を小突かれて、からくり人形の如く見事に立ち上がった。

「何だデート疲れって。そんな日本語は無い、痛痒に耐えられない奴は社会で通用しない!」

「うるせぇなぁ。分かったよ、手伝えばいいんでしょ」

 再び軍手に指を通したその時。部屋の戸口辺りがバタバタ鳴った。

 二人同時に振り返る。

 ――誰も居ない。

 すると、また背後を横切る。

 ――影も無い。

 黙って顔を見合わせる。

「今の何?」

「さあ。ユメじゃない?」

 縁側から覗いた座敷はうろのように薄暗く、何かが部屋の四つ角から這い出してきそうな雰囲気だ。二人は意を決し、入り口にいっとう近い山積みの段ボール箱に手を掛けた。

「ウワァ!!」「うおッ!!」

 二人同時に飛び退く。陽平はバランスを崩して後ろにひっくり返ってしまった。

「キャハハハハ! おしゃんもおにいも怖がりや~!」

 満面の笑みを湛えた次女・夢佳ゆめかはお気に入りのぬいぐるみを一杯にした段ボールから這い出た。男二人を転がす事が出来て、ご満悦の様子。

「こらユメ~、びっくりさせるんじゃない~! この悪い子!」

 義久は娘を抱き上げようとしたが、彼女はその手をかわし、台所の方へ駆けて行った。バタバタと騒々しい音を立てて二階へ上がっていく音が足元から伝わってくる。

「ありゃ、ホントにお転婆娘になるぞ」

 陽平は、ふと何かに気をとられた。脳味噌が吊り上げられるような違和感の元を辿る。

 夢佳が隠れていたダンボールの傍らに、大きなコケシが一体転がっていた。

 そのつぶらな瞳がこちらをじっと見詰めている。

「……なにこれ……」

 拾い上げてみると、酷く擦り切れて年季が入っている。額の右側から口元にかけて何かが強く擦れたような跡があり、裏を見ると、これまた消えかけた文字で「ユメ」とだけ書かれていた。

首をかしげた息子を横目に、父は首に掛けたタオルでひとしきり汗を拭った。

「子供っていうのはいいもんだ。なあ陽平……おい。お前なにボーッとしてんの」

 息子はこちらに背を向けたまま、背を丸めて突っ立っている。

「おい」

「……」

「おい陽平」

 肩を叩くと、ようやく反応した。何かを背後に隠し、ちらちらと視線を走らせる。

「変なやつだなぁお前。どうしたんだよ」

 泳いでいた視線が、ある一点で引っ掛かったように止まる。

「親父、アレ」「ん?」

 指差された方を見る。

 庭。

「庭が、どうかした」

「ほらぁ、よく見てよ、あそこ!」

 陽平の指の先で、素足にビーチサンダルを履いた夢佳が楽しそうに花を摘んでいる。

「ユメって、さっき二階へ行ったよな?」

 黙って頷く。

「一緒に、見たな」

 二人は顔を見合わせると、すぐさま陽平は庭へ、義久は二階へと向かった。

 おかしい。どう考えてもおかしい。二階から庭へ出る方法なんて無い。短時間であそこまで行く事など出来はしない。

「はぁ、はぁ……ユメぇ?」

 二階の窓から顔を出すと、庭先に二人が佇んでいるのが見えた。広い庭の端には、ひどく傷んだトヨタの古いセダンが放置されている。

「なぁ~にぃ~?」

 元気に手を振る末の娘と、頸を傾げる息子。夢佳はまだ五歳だが、不思議と大人びており、小学三、四年生とよく間違えられる。普段は何とも思わずとも、こうして遠目に見ると確かに見えた。

「なんだぁ、驚いて損した」

 何もないじゃないか。途端に馬鹿らしくなり、のらりくらりと部屋を出掛かる。


   ――お父しゃん――


( !? )

 振り返っても開け放たれた窓があるだけで、もちろん夢佳などそこに居る筈もない。

 しきりに頭を振りながら、足早に階段を降りた。


 昭和30年代に屋根を葺かれたまま幾千の風雪に耐え忍んだ古民家というのは、一つの業に生涯を賭した職人のような威厳と、確たる風格を兼ね備えている。

 そこが世界から見た日本人のイメージと重なるらしく、海外からも人気があり、古民家専門の雑誌なども英語圏では出回っているという。

 また、日本のアニメは国民の日常生活を密接に描き出しており、多数のアニメ作品から影響を受けた外国人が自国の土地に日本家屋や日本庭園を築くという行為が流行って久しい。中にはなんと日本の宮型霊柩車に趣を感じ、シボレーやフォードのフルサイズピックの荷台にお宮を乗せて走る『Zen-Rider』という酔狂な人間もいる。クールジャパンは、必ずしも日本人側から見てもクールとは限らない。


 朝露を載せて燦然と苔むす屋根の上で、一匹の三毛猫が瓦と同じ色の体毛を丁寧に舐めている。物件訪問をした時から、この家にはどういう訳か猫が寄り付きやすいという旨は再三聞かされている。しかし立地条件から考えてそれは仕方ない、という牧浦家の柔弱且つ良い意味で杜撰な態度もあり、不動産屋も特に干渉しなかった。

 当の不動産会社はといえば、なかなか買い手が付かない上に管理費ばかり掛かる大食らいの当物件を持て余していたので、牧浦家の登場は渡りに船、まさに一家は救世主も同然だったという訳で。

「なんせここ、元は旅館だった建物に改修工事を繰り返した老物件ですから」

 前住人は七年前からここに住み、つい先日、夜逃げ同然に姿を消したらしい。 

 いわゆる〝曰く付き物件〟の類に入るのだが、人死には直接は聞いていない。

「四五五坪あって、建坪当たりの値段を一万六千円に落としても売れなくて。スペイン人を相手にセールスしたり、地元の特産品を一年分プレゼントするって特典を付けても売れなくて。もう、何をどうしても売れなくて、同業者に破格の値段で託そうかと諦めかけていたら、牧浦さんの登場です」

 もとより、ある意味で双方がそれぞれカモであり一切騙しっこ無しのwin―winが実に滑らかに出来上がった商談だった。


 猫が胸郭を膨らませてニャーと鳴き、それが家を囲む密林に木霊した。

 まるで可愛い気のない、どっしりと重い貫録を湛えている。

 陽平が屋根を仰いだ時には、そこに影も形も無かった。


 団地やアパート住まいの人間なら考えられないであろう十六帖もある台所では、義久の妻・幸代さちよが食器類の段ボール箱を解き、包装の新聞紙を剥がしていた。

「ふう~、疲れちゃったよ。少し休んだ方がよさそう」

 会社の作業着姿で入って来た夫。飯場に転がり込む土建工のような達者さがある。

一方で証券会社の厳格なOLであった幸代は質の良い黒髪を一纏めにしており、気丈な印象を与える女性だ。

「ちょっと。子供たち、さっきから随分騒がしいわね。鼠か何か居たの? まぁ前の家と違ってお隣さんがいないから、いくら騒いでも気にしなくていいけど」

 どことなく浮かれ気味に手回しをしながら、上目遣いに夫を窺う。

義久は心ここに在らず、という風に腰に手を当てがった。

「いや、別に何でもないと思うよ。そういえば美鈴はどこへ行ったの」

 幸代は夫婦の思い出のRIEDELペアグラスからこちらを透かし見た。

「二階に居なかった? ほら、突き当たりの、庭に面した窓の部屋」

「……いや」

 義久はガクガクと首を振る。

 冗談はやめてもらいたい。その部屋なら、今し方飛び出してきたところだ。

「行ったけど、居なかった」

 幸代はふっと息をついて段ボール箱の奥底から土鍋を引き揚げた。

「んー、じゃ知らないわよォ。トイレじゃないの――あっ、もう嫌ね」

 縁側の方から酷いドラ声が響く。それも結構近い所だ。

「猫か」

「山合いっていうのもあるし、この辺はホント猫が多いわねぇ。前に住んでた人が餌でもあげてたのかしら。イイ迷惑」

 首に手を当ててポキポキと鳴らす。

「あなた、暇なら少し手伝ったらどうなの」

 調理器具の詰まった段ボールをこちらへ寄越した。

「あぁうん、でもちょっと待ってよ」

「別に今すぐとは言ってないけど」

「そう……そうか」

「なによ、その感じ」

「え、いや別に。何ってわけでもないけどさ」

「意味分からないわね、あなたって」

「……おまえな……はあ。もういいよ」

 彼は、ここ暫くは妻とまともな〝会話〟をした記憶が無い事を改めて思い直す。

 すれ違い。もともとは赤の他人だったのだから、人生のどこかでこうしてすれ違うのも必然と思えばそれで済む話じゃないか。

 それなのに、なんたるか、この空虚で憂鬱で焦らされる……もどかしさ。

 熟年。中年。いよいよ自分が、そして妻が、オジサン、オバサンとなっていくのが残酷に目に見えてくる。その事実が心の中を薄ら笑いを浮かべて跳ね回っていた。

 先程から妙な胸騒ぎがする義久は、再度二階へ上がろうと階段室の引き戸を開けかけて、聞き慣れぬ呼び声に動きを止めた。反射的によく通る声で返事をする。

 速足で玄関へ行くと、深緑色のブルゾンを着てキャップを被った、小柄で猿のような老人が佇んでいた。

「どちら様ですか?」

「あぁ、急にどうもすんませんね。私そこの杉野いうモンです」

「あー、わざわざどうも……はじめまして牧浦です」

「牧浦さんね。あのこれ、もしよかったらまた食べてください。肉とか巻いて煮出すと美味しいですから。甘みが強いんですわ」

 そう言って、段ボール箱一杯のキャベツを差し出してきた。

「ああ、すごい。初対面なのに、ありがとうございます。わざわざご足労お掛けしまして申し訳ありません。立派な春キャベツですねえ~」

 唯一のご近所さんらしい杉野とありがちな挨拶を交わし、後ろ手を振って帰る姿を見届け、さて二階へ、と思った時にまた来客があった。今度は若い女性である。見たところ長女と同い年くらいだが、服装はあまり普段着らしくなく妙に畏まっている。

「こんにちは、お引越しおめでとうございます」

「ああ、どうもありがとうございます。えっと、どちら様?」

 女性は控えめに微笑み、「名乗る程の者ではありません。ただ、お伝えするべき事があります。娘さんに……またやり直さなきゃね、とお伝えください」

 義久は眉を跳ね上げた。

「はい? やり直す? なんですか?」

「では、失礼します」

「あの、ちょっとどういう事ですか? 待って下さい」

 慌てて靴を履いて玄関を出ると、既に女性の姿は無かった。

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