第2話:揺れない馬車の開発

 王都の城門を抜けて数時間。

 私――ヴィゴ・フォン・オーベニールの「有給休暇」の出だしは、最悪の一言に尽きた。


「……ガッ、……グッ、……痛っ」


 尻が痛い。

 いや、尻だけではない。腰椎のL4とL5あたりが、悲鳴を上げているのがわかる。

 護送用の馬車というのは、ここまで劣悪な環境なのか。


 まず、サスペンションがない。

 車輪は鉄の輪を嵌めただけの木製で、路面の凹凸をダイレクトに座席へと伝えてくる。小石を踏むたびに、私の脊髄には震度4相当の衝撃が走るのだ。

 さらに、隙間風が酷い。

 窓にはガラスなど入っておらず、鉄格子があるだけ。そこから砂埃を含んだ乾燥した風が吹き込み、私の気管支と肌の潤いを容赦なく奪っていく。


(……許せん)


 私はギリッと奥歯を噛み締めた。

 冤罪も、追放も、罵倒も許そう。

 だが、私の「健康」を害することだけは、神が許しても私は許さない。

 このまま数週間も辺境への旅を続ければ、到着する頃には私は腰痛持ちの廃人となり、呼吸器系はボロボロになっているだろう。


 隣に座る専属メイドのセレスを見る。

 彼女は直立不動(座ってはいるが)の姿勢で、揺れる車内でも表情一つ変えていない。さすがは元暗殺者一族の末裔だ。体幹が鍛えられすぎている。


「ヴィゴ様? お顔色が優れませんが……やはり、王都を離れるのがお辛いのですか?」


 セレスが心配そうに覗き込んでくる。

 違う。尻が痛いだけだ。


「……セレス。少し、環境を整えるぞ」

「環境、ですか?」

「ああ。このままでは私の安眠が妨げられる。……『改装』を行う」


 私はアイマスクを額にずらし、指先を軽く上げた。

 狙うは馬車全体。

 イメージするのは、前世で憧れた最高級セダンのエアサスペンション。そして、完全密閉された無菌室。

 魔力回路を脳内で構築し、現代物理学の法則を上書きする。


「――起動。重力操作グラビティ・コントロール、並びに風の障壁ウインド・バリア


 ヒュンッ、と空気が鳴いた。

 その瞬間、世界が変わった。


          ◇


(護衛騎士隊長・ガレイン視点)


 私は恐怖で手綱を取り落としそうになっていた。

 私はガレイン。王室近衛騎士団の小隊長であり、今回、大罪人ヴィゴを辺境まで護送する任を受けた男だ。


 ヴィゴ・フォン・オーベニール。

 王太子殿下に弓引く悪逆の徒。

 しかし、今の光景を見て、そんな認識は吹き飛んだ。


「お、おい……! 見ろ、馬車が……ッ!?」


 隣を走る部下の騎士が、引きつった声で叫ぶ。

 見るまでもない。私も今、同じものを見て戦慄しているのだから。


 馬車が、浮いていた。


 いや、正確には車輪が地面から数センチほど浮上し、滑るように――否、飛ぶように荒野を疾走していたのだ。

 馬たちは走っている。だが、馬具から伝わるはずの「重み」が消滅しているのか、馬たちは、羽が生えたかのような速度で駆け抜けていく。


「バカな……! 馬車一台を浮かせるなど、宮廷魔導師団が十人がかりで行う儀式魔法の領域だぞ!?」

「しかも無詠唱だ! 指先一つ動かした様子もなかったぞ!」


 ガタガタと揺れるはずの悪路を、護送馬車は氷の上を滑るように音もなく進んでいく。

 車輪は回転すらしていない。

 ただ、恐ろしいほどの魔力圧プレッシャーだけが、周囲の空気を震わせていた。


「隊長! 馬車の周囲に、目視できるほどの魔力の奔流が!」


 部下の指摘通り、馬車の周りには翠色の風が渦巻いていた。

 それはただの風ではない。巻き上げられた小石が、風の結界に触れた瞬間、ちりとなって消滅しているのだ。


風の障壁ウインド・バリア……? いや、あれは防御魔法などという生易しいものではない。触れるもの全てを粉砕する、断絶の壁だ……!」


 私は背筋が凍るのを感じた。

 ヴィゴは、この護送車を何に変えるつもりだ?

 空飛ぶ要塞か? それとも、我々をいつでも殺せるという示威行為なのか?


「罪人として扱われることへの怒りか……。我々など、いつでも消せると……」


 御者台に座る御者は、恐怖のあまり失神寸前で、ただ手綱にしがみついているだけだ。

 我々は、とんでもない怪物を運んでいるのかもしれない。

 王太子殿下は、「無能な悪逆」と仰っていたが、これのどこが無能だというのか。


 その時、前方の茂みから、巨大な影が飛び出した。

 灰色熊グリズリーの変異種、マッドベアだ。

 街道を荒らす危険度Bランクの魔獣。普通の護衛任務なら、総員で迎え撃つ強敵だ。


「総員、戦闘よ――」


 私が剣に手をかけた、その刹那。


 ヒュオッ。


 馬車は何の躊躇もなく、速度を緩めることすらせず、マッドベアに突っ込んだ。

 衝突する!

 そう思った瞬間、馬車を覆う風の結界が僅かに膨張した。


 ――パンッ。


 乾いた音が響いた。

 次の瞬間、巨大なマッドベアの体は、最初からいなかったかのように、弾け飛び、霧散していた。

 血飛沫一つ、馬車には付着していない。


「…………は?」


 轢き殺したのではない。

 触れた瞬間に、風の刃が細胞レベルで対象を解体したのだ。

 馬車は速度を落とすどころか、むしろ加速しながら、赤い霧の中を悠然と突き抜けていった。


「……化け物だ」


 誰かが震える声で呟いた。

 我々は、護送しているのではない。

 魔王の行軍に、金魚のフンのようについて行っているだけなのだ。


          ◇


(ヴィゴ視点)


「ふぅ……。やっと静かになったな」


 私は満足げに息を吐いた。

 重力操作グラビティ・コントロールによる反重力浮遊は見事に成功した。

 お尻へのダメージはゼロ。車内は完全な無重力……にするとカモミールティーが飲みにくいので、0.9G程度に調整してある。


 さらに風の障壁ウインド・バリアで車内を密閉し、空気清浄機能とエアコン機能を追加した。

 外から入ってくる不潔な砂埃は、風のフィルターが全てシャットアウトしてくれる。

 温度は常に快適な二十四度に保たれ、湿度も五十%。完璧だ。ここはもはやボロ馬車ではない。走る五つ星ホテルのスイートルームだ。


 先ほど、何か大きなゴミ(?)のようなものが前方にあった気がするが、オート・クリーニング機能(風圧)で弾き飛ばしたので問題ないだろう。

 揺れもなく、騒音もない。

 これなら、辺境までの長い旅路も快適に過ごせそうだ。


「……ヴィゴ様」


 向かいに座るセレスが、どこか陶酔したような瞳で私を見つめていた。

 彼女の手は胸の前で組まれ、まるで神に祈りを捧げる聖女のようだ。


「どうした? セレス。……ああ、すまない。お前にも重力軽減ウェイト・リダクションをかけておくべきだったか? 急に環境が変わって、気分が悪くなったか?」


 私が気遣うと、セレスはぶんぶんと首を横に振った。


「いいえ、いいえ! 私は感動しているのです……!」

「感動?」

「はい。これほどの高度な魔法を……しかも、複合属性マルチ・エレメントを常時展開し続けるなど、常人の魔術師ならば数分で魔力枯渇マナ・エンプティを起こして死に至る所業。それをヴィゴ様は、まるで呼吸をするかのように……」


 セレスの頬が紅潮している。


「これほどの御力を持ちながら、ヴィゴ様は王都では決してそれを誇示なさらなかった。……全ては、無用な争いを避け、国を混乱させないためのご配慮だったのですね」


 いや、単に本気で魔法を使うと、建物を壊して弁償するのが面倒だっただけだ。

 それに、この程度の魔法消費量、私の全魔力の0.01%にも満たない。呼吸をするように、というのはあながち間違いではないが。


「セレス。私はただ、快適に眠りたいだけだ」

「はい……! 存じております。来るべき『開拓』の時に備え、体力を温存し、魔力を練り上げておられるのですね。この揺れ一つない結界は、いわばヴィゴ様の『精神統一の場』……。お邪魔にならぬよう、私も気配を消します」


 セレスはそう言うと、スッと目を閉じ、本当に気配を完全に消した。

 呼吸音すら聞こえない。さすがプロだ。

 誤解がある気がするが、静かになるなら何でもいい。


「……さて、寝るか」


 私はマジックバッグから、愛用の「低反発・安眠枕(自作)」を取り出した。

 中身はスライムの核を加工した特殊素材で、頭の形に完璧にフィットする逸品だ。

 リクライニング機能(風魔法による背もたれ調整)を使って座席を倒し、アイマスクを装着する。


(ああ、幸せだ……)


 今、私は自由だ。

 書類の山も、嫌味な貴族もいない。

 聞こえるのは、風を切る心地よい音だけ。

 私は泥のように深い眠りへと落ちていった。


          ◇


(再び、ガレイン視点)


 日が暮れかけていた。

 我々は、通常の行程であれば三日かかるはずの距離を、わずか半日で走破していた。

 馬たちは疲れるどころか、ヴィゴの風魔法の恩恵で体が軽くなり、ランナーズハイのような状態で爆走を続けている。


「……化け物め」


 私は、前を行く浮遊馬車を見つめながら、恐怖と、奇妙な敬畏の念を抱いていた。

 休憩の合図すらない。

 中のヴィゴは、一度も顔を出さない。

 水も食料も要求せず、排泄のために止まることすらない。


「まさか、瞑想しているのか……?」


 高位の魔術師は、瞑想によって魔力を回復させ、数日間飲まず食わずで活動できると聞いたことがある。

 ヴィゴは今、この揺れ一つない要塞の中で、来るべき辺境での生活――いや、戦いに備えて、牙を研いでいるに違いない。

 王太子殿下は「追放」と言った。

 だが、これは違う。

 解き放ってはいけない怪物を、野に放ってしまったのだ。


「隊長……あの馬車、光っていませんか?」


 部下の言葉に、ハッとする。

 夕闇の中、馬車が淡い青白い光を帯びていた。

 それは、神々しくもあり、触れれば魂ごと消滅させられそうな、死の輝きだった。


(※ヴィゴが車内の読書灯として光球ライトを点けただけです)


「……見るな。見れば魅入られるぞ」


 私は部下たちに警告した。

 我々にできることは、この「ご機嫌な魔王様」を、怒らせないように辺境まで送り届けることだけだ。


 その夜。

 野営地で私が目撃することになる「大虐殺」の惨劇を、この時の私はまだ知らなかった。



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