第3話:静寂は死への安らぎ
王都を出て、最初の夜が訪れた。
私たち一行は、街道沿いの開けた場所で野営をすることになった。
空には月が昇り、荒野を青白く照らしている。
護送の騎士たちは交代で見張りを立て、焚き火を囲んで何やらヒソヒソと話しているようだ。
だが、そんなことは私――ヴィゴ・フォン・オーベニールには関係ない。
私にとって重要なのは、ただ一つ。「いかに質の高い睡眠をとるか」だ。
私は改造した馬車の中で、完璧な寝床を整えていた。
【
愛用の「スライム低反発枕」の高さ調整もミリ単位で完了している。
シルクのパジャマに着替え、ホットミルク(セレス特製)も飲んだ。
「……ふあ」
あくびが出る。
完璧だ。今日は移動中も快適だったが、やはり静止した状態で眠るのは格別だ。
私はアイマスクを装着し、深い微睡みへと意識を委ねた。
……はずだった。
(……うるさい)
深夜。
私は眉間の皺とともに、浅い眠りから引き戻された。
ガサッ……ガサッ……。
耳障りな音がする。
私の聴覚は、前世の神経質な性格を引き継いでいるせいか、異常に鋭い。
草を踏む音。
荒い息遣い。
そして、ドクン、ドクン、という複数の心臓の鼓動。
(害獣か? それとも野盗か?)
どちらでもいい。問題なのは、彼らが私の
騎士たちは気づいていないのか?
いや、騎士たちの怒鳴り声や剣戟の音が聞こえないところを見ると、侵入者は隠密行動に長けているらしい。
「……チッ」
舌打ちが漏れる。
眠い。布団から出たくない。
だが、このままではカサカサという不快な音(ゴキブリが這い回るような音だ!)のせいで、レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルが乱れてしまう。
「……セレス」
私は寝言のように、枕元の気配に呼びかけた。
即座に、冷たくも柔らかな手が私の掛け布団を直す気配がした。
「はい、ヴィゴ様。……外の『ゴミ』共が、お目覚めを妨げましたか?」
セレスの声は、氷点下のように冷え切っていた。
どうやら彼女は起きている――いや、最初から寝ていないな、これ。
「私が処理して参ります。ヴィゴ様のお耳汚しにはさせません」
「……いや、いい」
私は寝返りを打ちながら、夢現の中で言った。
セレスが動けば、それはそれで戦闘音がうるさい。
悲鳴とか、肉が裂ける音とか、そういうASMRは寝る前には聞きたくないのだ。
「私がやる。……手っ取り早く、静かにさせる」
私は布団から手だけを出し、指先を宙に向けた。
イメージするのは、完全なる「無音」。
ノイズキャンセリング・イヤホンなどという生温いものではない。
音の媒体となる空気振動そのものを停止させ、ついでに騒音源の活動レベルを強制的にシャットダウンする。
そう、例えるなら「ミュートボタン」と「電源オフ」だ。
「……【
指をパチン、と鳴らす。
世界から、音が消えた。
◇
(暗殺者部隊リーダー・ザイード視点)
ちょろい仕事だ、と俺は思っていた。
俺たち『黒牙――ブラックファング』は、王国の裏社会で名を馳せる暗殺者集団だ。
今回の依頼主は、なんと王太子殿下。
ターゲットは、廃嫡された元公爵令息ヴィゴ。
「護衛は数名。ターゲットは馬車の中で寝ているようです」
部下のハンドサインを確認し、俺はニヤリと笑った。
昼間、この馬車が空を飛んだとかいう噂を聞いたが、所詮は噂だ。
今は野営中。騎士たちは焚き火に当たり、完全に油断している。
(死に損ないの貴族め。痛みを感じる暇もなく、あの世へ送ってやる)
俺たちは闇に溶け込み、音もなく馬車へと接近した。
包囲は完了している。総勢二十名。
一斉に飛びかかり、窓の隙間から毒矢を放ち、短剣で喉を掻き切る。それで終わりだ。
俺が攻撃の合図を出そうと、手を振り上げた――その時だった。
ピクリ、と。
馬車の中から、何かが弾けるような気配がした。
直後。
世界が「灰色」に染まった。
「――っ!?」
声が出ない。
いや、喉は震えているはずなのに、空気が音を運ばないのだ。
風の音が消えた。虫の音が消えた。
自分の心臓の音さえも、聞こえない。
(なんだ!? 何が起きた!?)
俺は部下たちの方を見た。
彼らもまた、驚愕に目を見開き、口をパクパクと動かしている。
異常事態だ。撤退すべきか?
そう判断した瞬間、強烈な睡魔――いや、「停止命令」が脳髄を直撃した。
ガクン。
膝から力が抜ける。
抗うことなどできない。それは生物としての本能を凌駕する、絶対的な「止まれ」という強制力だった。
(ま、ずい……意識が……)
視界が暗くなる。
だが、ただの眠りではないことは、俺の本能が警鐘を鳴らしていた。
心臓が。
重く、ゆっくりとなり、そして――止まる。
ドクン…………。
最後の鼓動を最後に、俺の体内の臓器が、活動を「休止」していく。
呼吸が止まる。血液循環が止まる。脳の電気信号が消える。
馬車の窓の向こう。
アイマスクをしたままの男が、煩わしそうに寝返りを打つのが見えた気がした。
(あ……あぁ……。我々は、起こしてはいけないモノを……)
俺の意識は、永遠の闇へと落ちていった。
苦痛はなかった。恐怖さえ感じる暇もなかった。
ただ、スイッチを切られるように、俺たち二十名の命は、静かに刈り取られた。
◇
(護衛騎士隊長・ガレイン視点)
「……おい、なんだ今の気配は」
焚き火番をしていた私は、異様なプレッシャーを感じて飛び起きた。
一瞬、空気が凍りついたような感覚。
そして、訪れた不気味な静寂。
「隊長! あそこ! 馬車の周囲に!」
部下の指差す先を見て、私は息を呑んだ。
馬車を取り囲むように、黒装束の男たちが倒れていたのだ。
一人や二人ではない。二十人近い数が、まるで雑巾のように地面に転がっている。
「敵襲か!? 総員、構えろ!」
我々は剣を抜き、倒れている男たちに慎重に近づいた。
黒装束。手には黒塗りの短剣。間違いない、プロの暗殺者だ。
だが、様子がおかしい。
ピクリとも動かないのだ。
「……死んでいるのか?」
私は一番近くにいた男の首筋に指を当てた。
脈がない。
体温はまだあるが、心臓が完全に停止している。
「こいつもです!」
「こっちも……全員、死んでいます!」
部下たちの悲鳴のような報告が上がる。
外傷は一つもない。
血の一滴も流れていない。
苦悶の表情すらなく、まるで赤子のように安らかな顔で、彼らは事切れていた。
「ば、馬鹿な……。これほどの数の手練れを、一瞬で?」
私は震える視線を馬車に向けた。
窓は閉ざされている。
中からは、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
(やったのか……ヴィゴ殿が)
魔法の発動を感じることさえできなかった。
ただ、彼が「うるさい」と念じただけで、周囲の生命活動が停止したとでも言うのか。
これは魔法ではない。
『死の宣告』そのものではないか。
その時、馬車の扉が静かに開き、専属メイドのセレスが降りてきた。
彼女は死体の山を見ても眉一つ動かさず、むしろ恍惚とした表情で頬を染めていた。
「……騒がしくして申し訳ありません、騎士様方」
「セ、セレス殿! これは一体……!」
「ヴィゴ様が、少し寝返りを打たれたのです」
彼女は倒れている暗殺者の一人を冷ややかな目で見下ろし、そしてうっとりと呟いた。
「ヴィゴ様の安眠を妨げた愚か者たち……。本来なら、四肢をもぎ取り、臓物を引きずり出して後悔させてやるべき大罪人です。ですが、ヴィゴ様はそれをなさいませんでした」
セレスは両手を組み、馬車に向かって祈るようなポーズをとる。
「ご覧なさいませ、この安らかな死に顔を。ヴィゴ様は、彼らに苦痛を与えることなく、ただ静かなる『無』をお与えになったのです。……なんという慈悲。なんという高潔な精神」
「じ、慈悲……だと?」
私は言葉を失った。
確かに、苦しまずに死ねたのなら、それは救いかもしれない。
だが、襲撃者に対して、指一本動かさず、感情すら向けずに「生命活動の停止」を与えるなど、人間にできることではない。
それはまるで、神が害虫を間引くような……。
「……片付けましょう。ヴィゴ様がお目覚めになった時、汚いものが視界に入っては不快に思われますから」
セレスは淡々と指示を出した。
私たちは、ただ頷くことしかできなかった。
恐怖よりも、圧倒的な「格の違い」を見せつけられ、我々の忠誠心は、畏怖という名の信仰に変わりつつあった。
◇
(翌朝・ヴィゴ視点)
「ん……よく寝た」
私は小鳥のさえずりで目を覚ました。
昨夜は少し騒がしかった気がするが、魔法で遮断してからは一度も起きることなく熟睡できた。
やはり、睡眠環境への投資は惜しむべきではないな。
馬車の外に出ると、朝の冷涼な空気が心地よい。
ふと見ると、護衛の騎士たちが全員、真っ青な顔をして整列していた。
隊長のガレインに至っては、私の顔を見るなり、バッと最敬礼をして直立不動になった。
「おはよう、諸君。……なんだ、顔色が悪いぞ? ちゃんと寝ていないのか?」
私は眉をひそめた。
睡眠不足は判断力を鈍らせる。護衛としては失格だ。
健康管理も仕事のうちだぞ、と言いたかったが、朝から小言を言うのも面倒だ。
「はっ……! い、いえ! 我々はこれ以上ないほど、目が冴えております! ヴィゴ閣下!」
ガレインが裏返った声で叫んだ。
閣下? 昨日までは「罪人」扱いだった気がするが。
まあいい。態度が良くなる分には快適だ。
「そうか。ならいい。……出発しよう。早くエリュシオンに着いて、本格的なベッドで寝たいんだ」
私が伸びをすると、騎士たちはビクッと肩を震わせ、それから慌ただしく準備を始めた。
セレスが淹れてくれたモーニングコーヒーを受け取る。
「ヴィゴ様。昨夜の『掃除』は完了しております。跡形もなく」
「ん? ああ、ありがとう」
寝ている間に馬車内の掃除をしてくれたのか。
やはりセレスは優秀だ。
私は彼女の働きに感謝しつつ、香り高いコーヒーを一口啜った。
今日も、平和で健康的な一日になりそうだ。
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