《生活魔法・改》を極めたその男、健康オタクにつき辺境を「完全無菌室(サナトリウム)」に魔改造す 〜「ただの掃除です」と禁呪を連発していたら、いつの間にか人類最後の砦になっていました〜

いぬがみとうま

第1章:追放という名の「転地療養」編

第1話:断罪の日は「有給休暇」の始まり

 王城の謁見の間。

 王太子ルシアンの唾液飛沫が、スローモーションのように飛んできた。


(……汚いな)


 私はとっさに無詠唱で【空間遮断シールド】を展開し、飛来する飛沫を分子レベルで弾き返した。


 ……ふむ。あの黄ばんだ唾液に含まれる連鎖球菌の数は、通常の三倍か? 歯周病の兆候があるな。


 それに、興奮して赤くなったアゴのニキビ。あれは黄色ブドウ球菌のコロニーだ。ホルモンバランスが乱れている上に、洗顔が不十分だ。

 不潔だ。あまりに不潔すぎる。早く帰って消毒したい。


「おい聞いてんのかヴィゴ! 貴様を辺境の死の土地『エリュシオン』へ追放すると言っているんだ!」


 その言葉を聞いた瞬間。

 私の脳内で、盛大なファンファーレが鳴り響いた。


 追放? クビ?

 ……つまり、「明日から働かなくていい」ってこと!?


「ついに……き、きたあぁぁぁぁーーッッッ!!」


 私は感極まって、その場に膝をつき、神(と目の前の不潔な王太子)に感謝の祈りを捧げた。

 震えが止まらない。恐怖ではない。歓喜の武者震いだ。


「あ、ありがとうございます殿下! その辞令、謹んでお受けします! 退職金はいりません! 溜まっている有給消化も放棄します! 今すぐ、この瞬間に出ていきます!!」


「は……?」


 ルシアン殿下と、その隣にへばりついている婚約者のリリアーナ(香水がキツすぎて鼻が曲がりそうだ)が、ポカンと口を開けている。

 周囲の貴族たちも、「あいつ、ついに発狂したか?」という目で私を見ている。


 知ったことか。

 私は前世で過労死してから十七年、この瞬間を一日千秋の思いで待ちわびていたのだ。

 

 公爵家の嫡男としての責務? 知るか。

 派閥争いの根回し? クソ食らえだ。

 毎晩毎晩、書類の山と社交ダンスの練習に忙殺され、私の平均睡眠時間は四時間を切っている。

 このままでは、また過労死する。不健康の極みだ。


 だが、追放されれば話は別だ。


 辺境。なんて甘美な響きだろう。

 そこには、うるさい上司も、終わらない書類仕事もない。あるのは手付かずの大自然と、静寂だけ。

 私はそこで、死ぬまで泥のように眠り、体にいい有機野菜を育て、健康的な生活を送るのだ。


 これは「罰」ではない。「無期限の有給休暇」だ。


「おい、ヴィゴ……。貴様、意味が分かっているのか? エリュシオンは魔物が跋扈する死の土地だぞ? 二度と戻ってくることはできんのだぞ!」


 ルシアン殿下が、気味悪そうに念を押してくる。


「もちろんです! 二度と戻りません! 契約書にサインしましょうか? 念のため血判も押しましょうか!?」


 私は食い気味に叫んだ。

 戻るわけがない。

 こんな空気の悪い、労働基準法違反のブラック国家になど、頼まれても願い下げだ。


「……狂ったか。まあいい、さっさと消え失せろ! 貴様のような薄気味悪い男は、私の視界に入れるのも汚らわしい!」


「はい! 仰せの通りに! では、お元気で(せいぜいあくせく働いて過労死しろ、バーカ)!」


 私は満面の笑みで一礼すると、踵を返した。

 足取りが軽い。重力の呪縛から解き放たれたようだ。

 出口へと向かう私の背中に、衛兵たちが槍を構えるが、今の私にはチアリーダーの応援にしか見えない。


「お待ちください、ヴィゴ様!」


 その時、人混みをかき分けて一人の少女が飛び出してきた。

 専属メイドのセレスだ。

 彼女は衛兵の制止をものともせず、私の足元にスライディング土下座をしてきた。


「セレス……」

「私も! 私もお連れください! ヴィゴ様がお一人で、あのような魔境へ……耐えられるはずがありません!」


 彼女の目には涙が溢れている。

 ……困ったな。

 正直、一人の方が気楽なのだが、セレスには世話になった。乳母の娘として、私の偏食や睡眠へのこだわりを完璧に理解している唯一の人間だ。

 それに、彼女の淹れるハーブティーがないと、私の安眠クオリティが三割は低下する。


「……セレス。辺境は過酷だぞ。お前の肌が荒れるかもしれない」

「構いません! 地獄の果てまで、私は貴方様のお世話をいたします!」


 その瞳には、尋常ではない覚悟――というか、どこか狂気じみた光が宿っていた。

 まあいいか。洗濯や掃除の手間が省ける。


「分かった。……来るがいい」

「あぁ……ヴィゴ様……!」


 私が許可すると、セレスは感極まったようにその場に崩れ落ちた。

 僕は彼女を立たせると、最後に一度だけ振り返った。


 玉座には、勝ち誇った顔のルシアン殿下。

 そして、私を嘲笑う貴族たち。


(……やれやれ。不潔な空間だったな)


 私は指をパチンと鳴らした。

 攻撃魔法ではない。

 ただの、生活魔法【洗浄クリーン】だ。

 私が立っていた場所の床と、周囲の空気を徹底的に浄化・滅菌する。

 最後に「置き土産」を残す必要はない。私の痕跡など、塵一つ残さず消し去ってやるのが、せめてものマナー(潔癖)だ。


 シュンッ。


 一瞬、私の周囲だけが神々しく輝き、無菌室のような清浄な空気が生まれた。

 それを見た貴族たちが「な、なんだ今の光は?」「消えた……? 汚れが?」とざわめくのを尻目に、私は大広間を後にした。


 さらば、王都。

 さらば、社畜生活。

 明日からは、誰にも邪魔されない、最高のスローライフが待っている!


 私はスキップしながら、用意されていた護送馬車へと乗り込んだ。


          ◇


(セレス視点)


 ヴィゴ様が、追放される。

 その事実を知った時、私は目の前が真っ暗になった。


 ヴィゴ様は、誰よりも優しく、そして儚い御方だ。

 ご覧になって、あの痛々しいお姿を。

 透き通るような白い肌は、不健康なまでに青白い。目の下には濃い隈ができている。


 少し歩いただけで「空気が悪い」と咳き込み、強い日差しを浴びれば「目眩がする」と顔を覆う。

 それなのに、公爵家の激務を一人で背負い込み、文句一つ言わずに耐えてこられた。

 あの冷徹な態度は、硝子細工のように脆いご自身を守るための、精一杯の鎧なのだ。


 断罪の瞬間、ヴィゴ様は震えておられた。

 恐怖に震えながらも、王太子の決定を「謹んで受ける」とおっしゃった。

 そして去り際、会場全体を浄化するほどの光魔法で応えられた。

 

 復讐ではなく、浄化。

 ……なんて、高潔なのだろう。

 ご自身を追放する国に対してさえ、最後に祝福を残して行かれるなんて。


 私の問いかけに、ヴィゴ様はこうおっしゃった。

 『お前の肌が荒れるかもしれない』と。

 ご自身が死地に赴くというのに、一介のメイドである私の肌のことなど……!

 どこまで慈悲深いのか。どこまで自己犠牲の塊なのか。


(許さない……)


 王太子も、貴族たちも、この国そのものも。

 ヴィゴ様の尊さを理解せず、あまつさえ魔境へ追いやった愚か者たち。


(私が守らなくては。あのような不衛生で野蛮な辺境で、ヴィゴ様のような清らかな方が一日たりとも生きていけるはずがない)


 私が、ヴィゴ様の剣となり盾となろう。

 もしヴィゴ様の安らかな眠りを妨げる者がいれば、それが魔物だろうが人間だろうが、私が残らず処理してみせる。

 スカートの裏に隠した暗器の冷たい感触を確かめながら、私は誓った。


 愛しい主の背中は、あまりにも無防備で、抱きしめたくなるほど小さく見えた。

 この背中を狙う者は、神であろうと私が殺す。


          ◇


(王太子ルシアン視点)


「ふん、清々したわ!」


 ヴィゴが出て行ってから、俺は上機嫌な毎日を過ごしていた。

 あの陰気で、常にマスクや手袋をして潔癖ぶっていた男。

 優秀な魔導師だとは聞いていたが、あんな変人は王国の恥だ。これからは俺の時代だ。


「さあ、今日はヴィゴの追放パーティーだ! 酒を持て!」


 俺は高らかに宣言し、玉座に深く座った。

 ……その時だ。


「……ん?」


 鼻先に、妙な違和感を覚えた。

 臭う。

 今まで感じたことのない、ドブのような、カビのような臭気が、どこからともなく漂ってきたのだ。


「おい、なんだこの臭いは? 誰か屁でもこいたか?」


 俺が不機嫌に問うと、側近たちも鼻をつまみ始めた。


「いえ、殿下……。なんだか急に、空気が淀んだような……」

「そういえば、肌がチクチクします……。埃でしょうか?」


 リリアーナが、自身の自慢の肌をボリボリと掻き始めた。

 見れば、部屋の隅を黒い虫――ゴキブリがカサカサと走っていくのが見えた。

 王城に、ゴキブリだと!? ありえない!


「な、なんだ!? ハエまで飛んでいるぞ! 掃除係は何をしている!」


 俺は叫んだ。

 だが、俺たちはまだ知らなかったのだ。

 この王城の、いや王都全体の衛生環境が、ヴィゴというたった一人の男の「無意識の結界(潔癖オーラ)」によって保たれていたという事実を。


 彼がいなくなった瞬間。

 抑え込まれていた菌、害虫、悪臭、そして汚れが、堰を切ったように溢れ出し始めていた。


「く、臭い! なんだこの悪臭は!」

「トイレが! トイレが逆流しましたぁぁぁッ!」


 悲鳴が上がる。

 俺のアゴのニキビが、ズキリと痛んだ気がした。


 これは、終わりの始まり。

 衛生という名の守護神を追放した愚かな国が、汚物にまみれて滅びゆく序章に過ぎなかった。





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