自由への扉 スピンオフ 私がスキーに連れて行くわ
HOSHIYUKI
自由への扉 スピンオフ章
自由への扉
題「私がスキーに連れてくわ」
「ちゅーりーらー♪ ちゅるりらー♬」
関越自動車道、下り線。
鉛色の空の下を疾走する車の助手席で、ケンの調子外れな歌声が響いていた。
「本当にやめて! ケン、さっきからそこばっかり繰り返して。こっちまで頭おかしくなりそう」
ハンドルを握る香織が、こめかみをピクピクさせながら抗議する。
「いやー、サビは分かるんだけど、タイトルが思い出せないんだよね。なんて歌だっけこれ。ユーミンだっけ?」
「知らないわよ。とにかくやめて! 集中できないでしょ」
ケンと香織は、久しぶりの休暇でスキー旅行に向かっていた。
デトロイトでの激闘を経て、二人は平穏ながらも幸せな時間を噛み締めていた。「たまにはベタなデートがしたい」という香織のリクエストで、行き先は80年代の聖地、志賀高原だ。
「ねえケン、明日は早起きして横手山まで滑りましょうよ」
「ああ、いいぜ香織。お前のシュプールについていけるかな」
その時、ダッシュボードに置いてあったケンのスマートフォンが震えた。
ディスプレイには『宗治』の文字。
「お、兄貴からだ」
ケンは通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えた。
「ういーす、兄貴。どうしました?」
ノイズ混じりのスピーカーから、宗治の申し訳なさそうな声が響く。
『悪い、ケン。ちっと手間取っちまってな。奥さんと子供の支度に時間がかかって、そっちに着くの、予定より1、2時間遅れそうだ』
「なんだ、また熱いお別れのキスでもしてたんですか?」
ケンが茶化すと、電話の向こうで宗治が苦笑する気配がした。
『うるせえよ。まあ、そういうことだ。先に行っててくれ。ロッジで合流しよう』
「了解っす。じゃあ俺たち、苗場でランチ食ってから向かいますわ」
『ああ。雪道、気をつけてな』
通話が切れる。
他愛のない会話。平和な時間。
だが、二人はまだ気づいていなかった。バックミラーの死角に、粘着質な殺意がへばりついていることに。
***
昼食のため立ち寄った苗場プリンスホテル。バブルの残り香が漂う巨大なレストランは、スキー客で賑わっていた。
二人は名物のビーフシチューを注文したが、混雑しているせいか、料理はなかなか運ばれてこない。
「ねえケン。料理が来るまで、ちょっと向こうのショップ見てきてもいい? 可愛いニット帽があったの」
香織がそわそわしながら言う。
「えー? もうすぐ来るだろ?」
「すぐ戻るわよ。もし先に来たら、食べてていいから」
香織はそう言い残すと、バッグを置いて席を立ってしまった。
数分後。待望の熱々のビーフシチューが運ばれてきた。
「へへっ、悪いな香織。お先!」
空腹に耐えかねたケンは、香織を待たずにスプーンを口に運んだ。
濃厚なデミグラスソースの味が口いっぱいに広がる。
「うめぇ! やっぱスキー場といえばこれだよな」
しかし、その数分後。ケンの視界が急速に歪み始めた。
(なんだ……体が……痺れる……?)
指先から感覚が消えていく。スプーンが手から滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。
テーブルに突っ伏したケンの薄れゆく意識の中で、柱の影からこちらを覗く、見覚えのある男の顔が見えた気がした。
かつて横浜中華街で、宗治の「雷撃」によって屈辱を味わわされた、あの暴走族の総長――。
(まさか……あいつ……)
ケンの意識は、そこでホワイトアウトした。
***
「お待たせー。ねえ見て、この帽子!」
香織がショッピングバッグを手に上機嫌でテーブルに戻ってきた時、そこにいるはずのケンの姿は消えていた。
テーブルの上には、手つかずの香織のシチューと、半分食べかけのケンの皿。
そして、ケンのスマートフォンだけが、ポツンと残されていた。
「ケン? トイレ?」
香織は周囲を見渡すが、あの目立つ大柄な姿はどこにもない。
不自然だ。ケンがスマホを置いたまま、食事の途中でいなくなるはずがない。
その時、テーブルの上のスマホが震えた。着信画面には『宗治』と表示されている。
香織は通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『ん? 香織ちゃんか? ケンはどうした、GPSの信号が妙な動きをしているぞ。ホテルの裏口から、猛スピードで移動してる』
宗治の冷静な声に、香織の心臓が跳ね上がった。
「宗治さん……ケンが、いなくなったの! 食事の途中で、忽然と……」
その時、割り込み通話の着信音が鳴った。香織はケンかと思い、通話承認ボタンを押した。だがケンの声ではなかった。ノイズ混じりの下卑た笑い声が響いた。
『よう、久しぶりだな、“軍師”の宗治くんよ』
声の主は、現在青嶋組の末端組織に身を置く、あの中華街の元総長だった。
『ケンは預かった。あの時の“雷”の借りを返してもらおうか。万座の裏にある狩猟小屋だ。テメェ一人で来い』
男の声が、氷のように冷たく響く。
『警察に知らせたら、この野獣もただの冷凍肉になるぜ。リミットは夜明けまでだ』
プツン。通話が切れた。
香織はスマートフォンを握りしめ、ギリッと唇を噛んだ。
恐怖よりも先に、デトロイトで培った熱い怒りがこみ上げてくる。
「……上等じゃない」
香織はショッピングバッグを放り出し、ホテルの出口へと駆け出した。
***
深夜のホテル前。
猛烈な吹雪が視界を奪う中、遅れて到着した宗治は、手配したスノーモービルのエンジンを吹かしていた。
「香織ちゃん、ここで待っていてくれ」
宗治はゴーグル越しに鋭い視線を向けた。
「相手は青嶋組の残党だ。遊びじゃない。俺一人で片付ける」
だが、香織は一歩も引かなかった。
彼女の瞳には、デトロイトで父を守るために戦った時と同じ、フュリオサの炎が宿っていた。
「私の夫よ。それに……雪道の運転なら、誰にも負けない」
香織はそう言い残すと、ホテルのガレージから愛車を引き出した。
重厚なガレージの扉が開く。
暗闇の中で、猛獣の目が光った。
ブオォォォォン!!
香織は運転席に座ったままドアを開け、路面に指を伸ばし、雪のコンディションを確かめる
(新雪の下はガリガリのアイスバーン)
「うん、行ける」
雪原に向けて香織は爆音を響かせエンジンを温めた。
WRCの技術が注ぎ込まれた、GRカローラ。四輪駆動のモンスターマシンだ。張り出したフェンダーと3本出しのマフラーが、ただの車ではない証だ。
「行くわよ、宗治さん! ついてきて!」
猛スピンをさせ死を覚悟したドライブが始まった!
「バカな、この吹雪で車だと? 無理しやがって……」
宗治は呆れつつも、口元だけで笑った。
***
志賀草津高原ルート。
標高2000メートル、国道292号線。冬期閉鎖目前の峠道は、猛烈な吹雪によって白一色の闇に閉ざされていた。
その静寂を、野獣の咆哮が切り裂いた。
ブオオオオオオン!!
トヨタ・GRカローラ。
1.6リッター3気筒ターボエンジンが、304馬力の出力を叩き出しながら雪壁の間を疾走する。
三本出しのマフラーから吐き出される熱気が、舞い散る雪を一瞬で蒸発させ、赤いテールランプが残像となって闇に焼き付く。
「ヒャッハー! いい子ね、その調子!」
ハンドルを握る香織の瞳孔は開ききっていた。
路面はブラックアイスバーンの上に新雪が降り積もる、最悪のコンディション。だが、彼女はアクセルを緩めない。
コーナーの入り口でブレーキを蹴り飛ばし、荷重をフロントへ移動させる。車体が斜め前へ滑り出すと同時に、繊細かつ大胆なカウンターステアを当てる。
ズザザザザッ!
スポーツ4WDシステムが、四輪すべてのトルクを路面に叩きつけ、氷を砕き、雪を噛む。車体は物理法則を無視したかのような挙動で、ガードレールすれすれをクリアしていく。
後方をスノーモービルで追走する宗治は、その光景に戦慄していた。
(正気か……? ここはサーキットじゃねえぞ!)
次の瞬間、きついヘアピンカーブの手前で、香織の表情が変わった。
彼女はステアリングを握る指先の力を、ふっと抜いた。
「……来たわね」
タイヤから伝わる微細な振動の変化。シート越しに感じる車体の挙動。
視界不良の吹雪の中、彼女のセンサーは、雪の下に隠された「殺意」のような氷の層を正確に捉えていた。
(表面はサラサラ。でもその下……ガリガリのアイスバーンが隠れてる。グリップが抜けるわ)
普通のドライバーなら、ブレーキを踏んでスピンする場面だ。
だが、デトロイトの氷結路で生き抜いてきた彼女は違った。
「食らいつきなさい!」
香織はアクセルを緩めるどころか、さらに踏み込んだ。
バリバリバリバリッ!!
4本のタイヤが悲鳴を上げ、雪煙の壁(スノー・ウォール)を巻き上げる。GRカローラは横滑り(ドリフト)のアングルを維持したまま、ロケットのように加速した。
だが、狩猟小屋へと続く道は、大きく迂回するつづら折りになっていた。
このままでは時間がかかる。
「ちんたら走ってられないわ!」
香織の視線が、ガードレールの切れ目にある、除雪で積み上げられた巨大な雪山(スノーバンク)を捉えた。その向こう側には、一段低い位置にある林道(小道)が走っている。
「飛ぶわよ!」
香織はステアリングを切り込み、車体を雪山へと向けた。
「おい、バカ! そこは道じゃない!」
後続の宗治が叫ぶが、もう遅い。
GRカローラは雪山をジャンプ台(ランプ)代わりにし、夜空へと踊り出た。
グオォォォォン!!
宙を舞う1.5トンの鉄塊。
月明かりを背に、黄色いボディが美しい弧を描く。
下を通る林道を飛び越え、さらにその先の雪原へと着地する、映画さながらの大ジャンプ。
ドスンッ!!
サスペンションが底突きするほどの衝撃と共に着地。
四輪が瞬時に雪を噛み、車体は勢いを殺すことなく再加速した。
「……イカれてやがる」
宗治は呆れながらも、スノーモービルのアクセルを開け、香織が切り開いたショートカットを追走した。
二つのヘッドライトが、闇の奥に潜む狩猟小屋を捉えた。
***
万座温泉の奥地、雪の吹き溜まりにある古びた狩猟小屋。
椅子に縛り付けられたケンは、意識を取り戻しつつあった。目の前には、ナイフを弄ぶ元総長がいる。
「へっ、あの中華街じゃ随分と派手にやってくれたな。だがここは俺の庭だ」
「……相変わらず、数に頼らねえと何もできねえんだな、お前は」
ケンが皮肉っぽく笑った、その時だった。
「ほら、テラスに誰かお客さんがきたみたいだぜ!」
テラスに面した大きなガラス戸の向こうから、強烈なLEDのヘッドライトが室内を照らし出した。
「あ!?」
総長が眩しさに目を細めた瞬間。
ガシャアアアアアン!!
轟音と共に、強化ガラスが粉々に砕け散った。
舞い散るガラス片と雪煙を纏い、テラスからリビングへと飛び込んできたのは、漆黒のスノーモービルだった。
「うわあッ!?」
総長たちが腰を抜かす隙に、宗治はスノーモービルから飛び降り、滑るように間合いを詰めた。流れるような動作で総長の腕を極め、ナイフを弾き飛ばす。
「遅えよ、兄貴!」
「待たせたな。……だが、主役は俺じゃない」
キキキキッ!
ガラスが割れて吹きっさらしになったテラスの前に、別のヘッドライトの閃光が突き刺さる。
GRカローラが雪煙を上げてドリフト駐車を決め、運転席から巨大なレンチを握りしめた香織が飛び出してきた。
「人の旦那に何してんのよ!」
吹き込む吹雪の中で仁王立ちする香織の気迫。
冷静に敵を制圧する宗治の眼差し。
そして、自力で拘束を引きちぎって立ち上がったケンの怒り。
「ひ、ひぃ……!」
総長と手下たちは、戦う前から勝負がついていることを悟り、雪の中へと逃げ惑っていった。
***
朝日が昇り、万座の雪原がダイヤモンドのように輝き始めた。
一件落着した三人は、GRカローラのまだ熱いボンネットに腰掛け、宗治が持ってきたポットの温かいコーヒーを啜っていた。
「まったく、香織の運転には寿命が縮まったぜ」
宗治が苦笑する。
「あら、デトロイト仕込みの『ゲッタウェイ』よ。文句ある?」
香織が悪戯っぽくウインクする。
ケンは、隣にいる最強の妻と、背中を預けられる宗治を見て、大きく伸びをした。
「ま、とりあえず帰ろうぜ。……次は静かな温泉旅行がいいな」
「賛成。でもその前に」
香織が口ずさむ。
「ちゅーりーらー♪ ちゅるりらー♬」
「だからその歌、何なんだよ!」
雪山に三人の笑い声が響き、GRカローラのエキゾーストノートが、自由への扉を開くファンファーレのように高らかに鳴り響いた。
自由への扉 スピンオフ 私がスキーに連れて行くわ HOSHIYUKI @HOSHIYUKI
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