第2話
その事件が発覚したきっかけは、とある住宅火災だった。
今から一週間ほど前、管内の住宅地にある廃屋で火災が起きた。火は一時、建物を包むほど激しく燃え上がったものの、雨のおかげもあり、二時間ほどですぐに消し止められた。
ところがその後、調査のため現場に立ち入った消防隊により、焼け跡からひとりの遺体が発見される。
当初この遺体は、廃屋に住み着いたホームレスのものと思われた。
ところが。
周辺住民への聞き込みにより、火災当時、廃屋は無人だったことが判明する。加えて、その後おこなわれた検視により、遺体の表面からは灯油の成分が検出された。さらに、辛うじて燃え残った気道を調べてみたところ、煤煙吸引の痕跡――要は、火災の中で呼吸した形跡が見られなかった。犠牲者は、火災発生時にはすでに死亡していたとみられる。
これらの証拠を踏まえ、我々警察は、本件に何らかの凶悪事件が絡んでいるものと判断。捜査本部を立ち上げ、真相究明へと動き出した。だが当初のカードといえば、骨格から辛うじて女性とわかる以外は身元のあやふやな焼死体のみ。これはお宮入りもありえるぞ、と、捜査員の誰もが身構えた。
ところが。
捜査開始からほどなく、近隣住民から重要な目撃情報が得られる。火災前、廃屋近くをひとりの少女が中年男と連れ立って歩いていた、と。さらに、現場付近のコンビニに設置された防犯カメラには、この二人と思しき少女と中年男とが買い物をする様子がはっきりと映り込んでいた。時刻は、火災が起きる二時間ほど前。
二人の身元はすぐに突き止められた。
男の名前は高尾一成。年齢は四十八歳。都内のシステム関連会社に勤める会社員で、火災の起きた廃屋から四百メートルほど離れたアパートに独りで暮らしている。一方、少女の名前は矢崎美羽。年齢は十六歳。高尾と同じアパートに、母親と二人で暮らす高校生だ。
その矢崎美羽だが、火災後は一度も登校していないことが学校への聞き込みにより判明する。同様に、高尾も無断欠勤を続けていた。我々は、高尾が本件に絡んでいると見て緊急配備をかける。すると間もなく、都内の某ネットカフェから当該男性が来店したとの通報が寄せられた。
我々はすぐさま店舗に直行。逃亡中の高尾の身柄を重要参考人として確保した。
「……間違いありません。アパートの前で雨宿りをする矢崎さんに声をかけ、コンビニで食べ物を奢りました。その後、矢崎さんの部屋に上がり込んで殺害したあと、証拠隠滅のため、近くの廃屋に遺体を運んで焼きました」
取調室にて自身の行状を語る高尾は終始淡々として、こう言っては何だが、ひどく他人事めいていた。許しを請う卑屈さもない代わりに、反省の色も一切見えなかった。
「不自然だと思わないか。自宅のあるアパートの前で雨宿りだぞ」
そう助手席でぼやくのは、本庁の捜査一課から派遣され、僕とコンビを組まされる赤城警部補だ。
警部補は、昨日付けで今回の捜査本部に配属された。
ところが、それと前後して高尾の身柄が押さえられてしまい、わざわざ本庁から遠路はるばる足を運んで損した、とご立腹なのだ。噂では、捜一のエースと称されるほどのやり手らしいのだが、今のところ奇矯な言動ばかりが目立つ。
「ええと……アパートの住民によると、被害者の母親は毎日のように娘を怒鳴り散らしていたそうです。事件当日も、それで被害者は部屋を飛び出して、アパートの前で雨宿りをしていたんじゃないでしょうか」
しかし警部補は、やはり納得のいかない顔で車窓を睨んでいる。
やがて僕らは例の廃屋跡に着く。外観が意外と綺麗に燃え残っているのは、火災当日に降った雨が外装への延焼を防いだからだ。しかし一歩足を踏み入れると、室内は完全に炭化し、屋根も含めて綺麗に燃え落ちている。
消防の話によると、美羽の遺体は一階の居間に寝かされていたという。火元も同じ場所で、特に激しく燃えていたらしい。
「凄まじいな。これじゃ遺体もさぞかし燃えただろう」
「ええ。実際、あまりにも損壊が酷く、女性であること以外は目ぼしい情報はほとんど手に入らなかったそうです。例えば、年齢ですとか」
「歯の治療痕は? さすがに歯は燃え残るだろう」
歯は、人間を構成する組織の中で最も堅牢だ。熱にも強い。今回のケースでも、歯は比較的綺麗に燃え残っていた――が。
「ええ。ただ、虫歯の類は見つかったものの、肝心の治療の痕跡が見つからなかったそうで。一応、別班が医療機関のデータベースとの照合を試みたようですが、やはり空振りに終わったみたいですね」
すると警部補は、怪訝そうに片眉を吊り上げる。
「年頃の女の子だぞ? 顔も腫れるだろうに、虫歯を放置?」
「ええ。ネグレクト……ってやつじゃないですかね、母親との関係を踏まえるに」
実際、美羽と母親との関係は決して良好ではなかった。というより、おもに母親の方に問題があったというのが近隣住民の弁だ。
毎晩のように続いた娘への怒号。その内容は、なぜアルバイトの給料を渡さないのかといった理不尽なものがほとんどだったそう。しかも当の母親はというと、定職にも就かず、昼夜問わず見知らぬ男を頻繁に部屋に呼び込んでいたという。思春期の娘を持つ母親の暮らしぶりとは到底言えない。
その母親こと矢崎亜美子は、事件直前、近所の金券ショップで大阪行きの新幹線の切符を購入している。被害者宅にレシートが残されており、当該店舗の監視カメラを確認したところ、亜美子と思しきマスク姿の女性が確かに映り込んでいた。
続いて僕らは、その被害者宅へと移動する。
アパートの敷地前に車を停め、白手袋を装着。現場保全のため戸口を見張る巡査と軽く敬礼を交わし合い、規制線のテープをくぐって部屋に入る。
玄関に立つと、さっそく状況証拠のひとつが目に入った。被疑者が部屋に押し入った際、床に付着したと見られる足跡だ。
「随分とまた綺麗に残っているなぁ」
フローリングに残る足跡を目で追いながら、警部補は、なぜか面白そうに呟く。
足跡は、玄関から廊下の奥まで一直線に続いている。すでに鑑識により、この足跡が高尾宅にあった運動靴のそれと一致していることがわかっている。高尾の身長から割り出した歩幅を踏まえても、本人の足跡で間違いないとの結論だった。
「あの日は雨でしたからね。だからじゃないですか」
廊下を進むとドアに突き当たる。ドアの先はリビングで、そのリビングには、犯行時に飛び散ったとされる血痕が今なおくっきりと残っていた。当初、現場には凶器に使われたと見られる包丁が放置されていたが、こちらの把手にも血にまみれた高尾の指紋がしっかり残っていたという。
「ほかには?」
「と、いいますと」
「ほかの指紋に決まってるだろ? まさか高尾ひとりの指紋しか出てこなかったとでも?」
「えっ? それは……」
僕は手帳をめくると、昨日の捜査会議でメモを取ったページを開く。
「ええと、包丁からは高尾の指紋しか検出されなかったようですね」
「ありえない。持ち込みならともかく、凶器はおそらく現場で調達されている。見ろ」
警部補はシンク下の収納扉を開ける。そうした扉の裏側には、一般的に包丁用の収納スペースが設けられている。ここのキッチンも例外ではなく、しかし今、そのスペースにはパン切り包丁が一本きりしか刺さっていない。
「どんなに無精な家庭でも、三徳包丁ぐらいは置いているものだ。少なくとも、パン切り包丁を置く程度の家庭ならな。何より、この空いた刺し口には使用感のある傷が見られる。本来はもう一本、ここに別の包丁が刺さっていたんだろう。……が、今は残っていない。となると、ここにあった包丁が凶器として用いられたと考えるのが自然だ。つまり、もともとは矢崎家の包丁だった。なのに指紋は、高尾のものしか見つかっていない」
言われてみれば確かに妙だ。矢崎家の包丁なら、当然、高尾の指紋のほかに矢崎母子の指紋が残っていて然るべきだからだ。
「まさか拭き取って? でも、何のために……?」
返事はなかった。警部補の関心は、すでに包丁入れから壁の血痕に移っている。
「血痕の血液型は?」
「えっ? あ……O型です。美羽のものと一致しています。ちなみに、高尾の血液型はA型」
「ああそう。ちなみに母親のは?」
「えっ? あ……すみません、調べておきます」
「頼むよ」
続いてトイレ、風呂場なども見て回ったが、警部補は終始、例の足跡が気になっていたようだった。
被疑者確保に合わせて、事件は全国ニュースでも報じられた。
ところが、最初の報道から二日が過ぎても美羽の母親、亜美子が現れる様子はなかった。我々は、この母親も事件に絡んでいると見て行方を追った。特に、首都圏内の新幹線ホームに設置された監視カメラの映像は念入りにチェックされた。
だが。亜美子と思しき女はどこにも映っていなかった――
「やはり、大阪行きっていうのは偽装で、本当は事件に絡んでいたんじゃないですかね?」
亜美子を追っていた別班が報告を終えたところで、僕は隣に座る警部補にそっと耳打ちする。警部補は閉じていた瞼をのろりと開くと、つまらん話で俺を起こすなと言いたげに僕をひと睨みした。捜査会議でのメモ取りは僕に丸投げするのが、このエース様のスタイルだ。
「あり得ない話じゃない。例えば娘に売春を強要していて、それを当の娘に暴露するぞと迫られた挙句、高尾とグルで殺した、とかな。あるいは〝仕事〟の最中に娘が殺され、隠蔽工作に加担したとか」
改めて言葉にされると、その救いのなさに愕然としてしまう。
親に売春を強要され、尊厳もなく遺体を燃やされた少女。
「ははっ、想像したくもないって顔だな。だが、その想像したくもない人間の暗部を探り、真実を暴き出すのが俺たちの仕事だろう」
そう言われると、僕としてはぐうの音も出ない。二年前、署の刑事課に登用された時は随分と舞い上がったものだが、今だけは、かつての交番勤務が懐かしかった。
続いて、別班から新たな報告がある。
「矢崎美羽は、事件の三日前に停学処分を喰らっていたそうです。校則で禁止されるアルバイトを無断でやっていたから、と」
お次は、被疑者の高尾について調べていた班。ペアの片割れは同じ刑事部に勤める同僚だ。
「高尾は、会社では誠実な仕事ぶりで知られていたそうです。ただ、ここ数年は鬱病の悪化で仕事を休みがちだった、と」
「鬱病?」
服薬による心身喪失を持ち出されたら厄介だと思ったか、ひな壇の本部長が苦い顔をする。
「それは、仕事のストレス的なやつか」
「いえ。高尾は五年前、妻と、当時六歳の娘をほぼ同時に亡くしています。この事件が鬱病の引き金になった、というのが主治医の見解です」
そして同僚は、僕でも聞き覚えのある心中事件の名を上げる。当時、育児疲れから重度の鬱病を患っていた母親が、娘を殺し、自身も直後に命を断ったという、こちらも救いのない事件だ。
事件は大手メディアで報じられ、SNS上でも広く共有されたが、世間の批判はとりわけ父親、つまり高尾に集中した。夫が子育てに寄り添わなかったせいで妻が心中する羽目になった――今でも当時の事件について検索すると、見るに堪えない中傷コメントがいくつもヒットする。
ところが、実際に高尾を知る人間ではこの評価が逆転する。
物分かりの良い上司。責任感の強い後輩。信頼できる取引相手。驚いたのは女性社員からの評価だ。女性が嫌がることは決してしない。あの年代の男性には珍しくデリカシーがあり話しやすい。
「そんな人間が、女子高生を……?」
おかしい。集められた情報から得られる高尾の印象と、陰惨な事件の実情がどうしても重ならない。もちろん、人は誰しも隠れた一面を持つものだ。今回のケースも、そのひとつと言ってしまえば済むんだろうが……
考え込むうちに、会議の話題は高尾の母親へと移っている。高尾の母親、道子は、隣県にある高尾の実家にひとりで暮らしている。夫は十四年前に他界。ひとり息子の高尾につねづね同居を勧められているが、身体の自由が利くあいだは住み慣れた家で暮らしたい、と、今のところは自活を頑張っている、等々……
やがて会議が終わると、待ちかねたように警部補が声をかけてきた。
「これから高尾の実家に向かうぞ」
「実家にですか? でも、何のために」
すると警部補は、またしてもうんざり顔で僕を睨む。
「やれやれ。じゃあ口外法度で頼むよ」
そして警部補は、目的を明かす。
直後、僕は「嘘でしょ!?」と叫んでいた。
そこは、絵に描いたような郊外の一軒家だった。かつては高尾も含めた家族三人で賑わったであろう古いマイホームでは、今や夫と死に別れた老女ひとりが侘しく暮らしている。
チャイムを鳴らすと、チェーンをかけた戸口から皺に埋もれた顔がそっと覗いた。老女の顔には恐怖と、それから深い疲労がへばりついている。
「あの、取材の方は、もう……」
「取材? いえ、我々はこういう者でして」
どうやらマスコミだと勘違いしたらしい老女に、僕は警察手帳を掲げて見せる。老女はしばし手帳を見つめたあと、ようやくドアを開いてくれた。ただ、警戒の色だけは依然解けない。
善良そうではあるが、同時に人生の悲哀を伝える顔つきは、何となく息子のそれと重なる。
「すみません、刑事さんでしたか。あの、まだ何か……」
「ええ。息子さんの人となりについて、もう少し詳しく伺いたく……あの、上がっても構いませんか」
すると、老女こと高尾道子は、一瞬、警戒の色を強くする。が、すぐに「ええ、どうぞ」と何食わぬ顔で頷くと、僕たちを中に招き入れた。
僕らはまず、仏間でお孫さんの位牌に手を合わせると、続いてリビングに移った。サイドボードには息子や孫の写真がずらりと飾られていて、道子の家族に対する愛情の深さを思わせた。
僕は当初の打ち合わせ通り、当たり障りのない質問を道子に投げた。隣では、警部補が何食わぬそぶりで室内を見回している。
やがて警部補が、やはり素知らぬ顔で道子に声をかけた。
「お母さん、少しトイレをお借りしても?」
その言葉に僕は、ああ、やっぱり行くのかと内心うんざりする。業務上避けられないこととはいえ、他所様のサニタリーボックスを漁る成人男性、という絵面は、正直きついものがある。
すると道子は、一瞬、明らかに表情を強張らせると「すみません、少々お待ちを」と断わり、奥へと消えていった。
えっ、まさか。
「当たり……ですかね」
だとしても、事前に片付けられてはどうしようもない。そんな僕の不安を察したように、警部補は不敵に笑う。
「心配するな。何とかなる」
やがて道子は、すまなさそうにリビングに戻ってきた。
「独り身で無精しているもので、つい、お掃除をさぼっておりました。今はもう大丈夫です、どうぞ」
「ありがとうございます」
そして警部補は、ゆったりとした足取りで家の奥に消えてゆく。その背中を見送りながら、いや結局行くんかいと内心で突っ込みを入れる。案外、本当に催しただけだったのかもしれない。
その後、道子の家を辞した僕らは、警部補の指示により近くの路地で張り込みを始めた。
「えっ、じゃあ、やっぱりいたんですか」
「おそらくな」
「ええと……念のため伺いますが、その、漁ったんですか」
すると警部補は、本物のバカを見る目で僕を睨む。
「いや、あの流れじゃどう考えても片付けられてただろ」
なるほど。やはりサニタリーボックスは片付けられていたらしい。……が、だとすればどうやって警部補は、閉経前の若い女性の同居人を――要するに彼女の存在を確認したのか。
「シャンプーだよ」
僕の疑問を察したかのように、警部補は答える。
「あの家の風呂場には、高齢女性がまず使いそうにない若者向けのシャンプーが置かれていた。それも、矢崎家の風呂場に置かれていたものと同じブランドのな。しかもボトルは開けて間もないのか、中身がたっぷりと入っていた。つまりごく最近、あのシャンプーを使う同居人が増えたということだ」
「矢崎家の……あっ」
そういえば。警部補は被害者宅で、水回りも含めて室内をくまなく見回っていた。その際、被害者が使っていたシャンプーの銘柄までチェックしていたということか。キモ……いや、素晴らしい観察力である。
「しかし……そもそもなぜ実家にいると?」
「高尾は、職場では女性の同僚にもそれなりに信頼を置かれていた。異性に対する配慮のできる人間だったってことだ。そんな奴が未成年の女子を男の家に預けるわけがない。かといって、恋人がいたなんて話もなかった。信頼できる女性となると、消去法であのお母さんしか残らなくなる」
それから約二時間後。僕らは道子宅から現れた少女に職務質問をかける。マスクやパーカーのフードで念入りに正体を隠すその少女に、こちらの身分を明かした上で顔を見せるよう告げると、少女は観念したように素顔を晒した。
それは、今まで資料等で何度も目にした写真の少女に間違いなく、念のため名前を問うと、少女は消え入るような声で答えた。
「矢崎美羽です。……すみません、お母さんは私が殺しました」
美羽が言うには、母親の亜美子がおかしくなったきっかけは、夫の浮気と駆け落ちだった。
ただでさえ不安的なところのあった亜美子は、夫の裏切りを機にますます精神を病んでいく。しかも亜美子は大の医者嫌いで、いくら病院に促しても頑として足を運ぼうとはしなかった。
その間も亜美子の病状は悪化。毎日のように娘に暴言を浴びせかけ、挙句は暴力すら振るい始める。
やがて亜美子に男ができる。亜美子は、支給された生活保護費をまるごと男に貢いだ。それまで保護費でどうにか食い繋いでいた美羽は窮地に陥った。彼女が入学した学校はアルバイトを禁じられていたからだ。
それでも、生きるために隠れてアルバイトを始めたものの、友人の密告で学校側にバレてしまう。結果、停学処分を喰らった美羽は、元凶である亜美子に、これ以上あの男に貢がないでくれと頼み込んだ。
ところが亜美子は、娘の言い分を聞き入れるどころかキッチンから包丁を取り出し、逆に美羽に襲いかかってきた。……気付くと美羽は、アパートの駐輪場にうずくまっていた。服を返り血で真っ赤に染めたまま。
高尾に声をかけられたのは、そんな時だったという。
「叱られると思いました。最初は」
取調室で事件のことを訥々と語る美羽は、ひどく疲れて見えた。
「でも高尾さんは、私がお母さんを殺したことを知っても、怒らずにシャワーを貸してくれたり、着替えを用意してくれました。その後はてっきり警察に連れて行かれるのかと思ったんですけど、あとは全部任せなさいと言われたきり、自首を勧められることはなかったです。……あ、でも次の日、お母さんの服を着て、近くの金券ショップで新幹線の切符を買うようにとは言われました。高尾さんからの指示といえば、それぐらいで……えっ、夜ですか? 夜は、またコンビニに誘われて……ただの買い出しだと思ったんですけど、買い物のあと、なぜかたくさんお金を渡されて……それで、ひとりであの家に向かうように言われたんです。言われたとおり、私はひとりであの家に向かいました。そうしたら、そこに住んでいたおばあちゃんが今度は私をかくまってくれて……お母さんだったんですね、高尾さんの……でも、それきり高尾さんからは、もう何の連絡もなくて、代わりに、テレビで高尾さんが逮捕された、ってニュースが……」
テーブルを挟んだ彼女の向かいで、なるほど、と相槌を打ちながら、僕は今の話に確かな違和感を覚えていた。手元のメモ書きとともに、その源泉を丁寧に辿る。
やがて、ある単語が意識に引っかかる。
「待って。さっき、次の日と言ったかい? 高尾からコンビニに誘われたのは」
僕の問いに美羽は、一瞬、何のことかわからないと言いたげに目を瞬かせると、やがて、戸惑いがちに頷いた。
「え、ええ……高尾さんとコンビニに行ったのは、お母さんを殺した次の日です。あの、それが何か……?」
美羽の自供を受け、当初はそれでも固く口を閉ざしていた高尾だったが、下手に誤魔化せば美羽の罪状が重くなる可能性を告げると、ようやく真実を語り始めた。
美羽を自分の部屋に匿ったあと、高尾は、矢崎家に残された凶器の包丁から美羽の指紋を拭き取り、亜美子の遺体を近所の廃屋へと運んだ。その後、複数のガソリンスタンドで少しずつ灯油を買い集め、これも廃屋に運び込む。
高尾が遺体を燃やすのを一日待ったのは、殺されたのが亜美子ではなく、娘の美羽だと周囲に印象付けるためだった。
だからこそ翌日、あたかも亜美子が生きているかのように見せるため、母親を装わせた美羽に、金券ショップで大阪行きのチケットを買わせたのだという。ああいった店には必ず監視カメラが設置されている。カメラに映る偽の亜美子の姿は、捜査を撹乱するには確かに悪くない手だった。
もうひとつ、高尾にはやるべき仕事があった。
自身の母親を説得し、美羽を匿うよう説得するのだ。道子の証言によると、高尾は「今度こそ救いたいんだ」と、道子に泣いて縋ったらしい。息子の涙が何を意味するか、この一言で悟ったのだと涙ながらに老女は語った。
その夜、高尾は美羽と二人でわざと廃屋周辺を歩き回り、美羽と行動を共にする不審な中年男性、つまりは高尾自身の姿を周囲に印象づけた。美羽とコンビニで買い物をしたのも、やはり同じ理由だった。
「しかし、なぜ高尾の偽装がわかったんです」
すると警部補は、そんなことかと言いたげに肩を竦めた。
「被害者の部屋にわざとらしく残された足跡を見れば、そんなもん一目瞭然だろう。大体、性別以外は年齢すらわからなくなるほど念入りに遺体を燃やした人間が、なぜ自分の足跡だけ消し忘れる? 確かに、遺体の身元が判明しなければ被害者の部屋を探られることもないだろう。が、そうなると今度は、美羽と二人で現場周辺を歩き回るという不用心極まる行動の説明がつかなくなる。コンビニの買い物についてもそうだ。今時、監視カメラを設置しないコンビニの方が珍しいだろう」
「つまり、矛盾している……?」
「うん、事件の隠蔽を目論んでいたと考えると、確かに矛盾している。だが、ここに全く別の答えを代入すると、全ての意図がすんなり繋がるんだよ。誰かを庇うために、自分を犯人に偽装した、というね」
なるほど……僕は素直に感心していた。さすがは、若くして本庁で活躍するエース様だ。
「ただ、あの足跡の偽装は確かに面白かったよ。おかげで俺たちは、事件発生日そのものを勘違いする羽目になった。火災発生当日、あの地域は雨に降られただろう? そこへ泥の足跡とくれば、犯人は火災の直前に被害者宅へ押し入った、と思い込まされる。加えて、高尾の証言だ。犯行のきっかけについて、奴は何と語った?」
「ええと……アパートの前で雨宿りする美羽を見かけて……?」
「そう。だがね、気象庁に問い合わせたところ、犯行当日――つまり火災の前日、この管区には一滴の雨も降らなかったんだよ」
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