第6話 幸せそうな、方向で 〔鈴音〕
校正業務は、好きな部類の仕事だった。
うちは小さな出版社だから、大手のように、編集部と校正部が分かれていない。自分が担当する書籍の業務と並行して、他の人の担当する、複数の書籍の校正業務にアサインされるのが常だった。
一人で黙々と進められる校正の仕事は、著者との打ち合わせや印刷所とのスケジュール調整よりも、よっぽど私の性に合っていた。紙に印刷された文字を読んでいると心が落ち着くし、言葉や文章に対しての感覚が研ぎ澄まされる感じがして、心地がいい。
けれど今日は、明らかにいつもと違っていた。好きな仕事のはずなのに、どうしても集中が出来ない。
いつものように、ゲラに、弊社のロゴの入った鈍色の定規を当てて。その一行を、読み始めはするものの。
読み終わらないうちに、思考が別のことに飛んでいる。
久我さん、のことだ。
水曜日に発熱して早退するまで、その存在すら知らなかった人。
たくさん甘えさせてくれ、明るい笑顔で包み込んでくれた人。
昨日の帰り際に、優しい口付けをくれた人。
私は彼女のことを思い出してぼうっとしてしまうたびに、頭を振ってそれを追い出そうとした。でも、どうにもならない。そもそも、文章が頭に入ってこないのに、どうして校正ができるというんだろう。
こんなことは、入社以来、はじめてだった。
「橘さん、まだ本調子じゃなさそうだね」
私のデスクに、ことん、と缶コーヒーが置かれる。
「こ……山崎さん」
顔をあげると、同僚の山崎さん――
「休んでたって聞いたけど……もう復活して大丈夫なの?」
「うん、ありがとう。確かに、まだ本調子ではないかも」
仕事への身の入らなさを体調不良のせいにできるのは、ちょうどよかった。どうしても想い人のことを考えてしまって仕事に身が入りません、なんて、恥ずかしくてとても言えない。
私はありがたく、琴香の置いた缶コーヒーを手で包む。買ったところなのだろう、まだ少し熱いくらいだった。
彼女がこういう手土産を持ってくるときは、何らかの仕事を頼みたいときと相場が決まっている。
「これ、確認、お願いしたくて。急ぎじゃないから、無理しないでね」
案の定、琴香はA4の紙を一枚、私に差し出す。表題のところには、『〈感動〉の哲学』とあった。私が担当した書籍だ。今週頭に、校了したばかりのもの。さすが、仕事が早い。
琴香は、営業部所属の社員だった。私たち編集部が相手にするのは、著者や印刷所など書籍を「作る」側の人々であるのに対して、営業部が相手にするのは、書店など書籍を「売る」側の人々だ。琴香は、『〈感動〉の哲学』を弊社のHPで紹介するための文言を考え、その書籍の編集担当だった私に、内容の確認を依頼しに来てくれたのだろう。
わざわざ手土産を買い、紙に印刷して持ってきてくれるところにも、彼女の仕事の仕方が表れている。
「ありがとう。いつも素敵な紹介文を書いてくれるから、私に言えることは、特にないと思うのだけれど」
実際、そうだった。
もともとその分野に興味がある人だけでなく、そうでない人にも響くような、幅広い訴求の仕方。読んでいるだけでワクワクしてくるような、内容の魅せ方。琴香の仕事は社内でも一目置かれていて、琴香に営業を担当してもらえるだけで、この書籍の売り上げについては大丈夫だろう、という安心感があった。
「またー、うまいねー、そういうの! 橘さんは」
事実を言っただけで、おだてているわけではないのだけれど、琴香は手をパタパタとさせて謙遜する。
「ところで橘さん、今日のランチの予定は?」
「特にないわ。いっしょに行く?」
私は時計を確認する。11時32分。ランチには少し早いから、あと1時間ほどは、校正の続きだろう。
年齢も近い琴香とは、こうやってよくランチに行く。部署が違うので、予定が合わないことも多いけれど。
ふと、琴香がちょいちょい、と手招きをしていることに気づく。言われるままに顔を寄せると、彼女が私に耳打ちする。
「鈴音、なんか、あったでしょ? 仕事は無理しなくていいからさ。話、聞かせてよ」
私はそれを聞いて、目を丸くする。
そんなに、ダダ漏れなのかしら……?
「大丈夫、わたしがそういうの、敏感なだけだから」
私の心の声に応えるように、彼女が付け加える。
であれば、と、私は耳打ちを返す。
「じゃあ、もしよければ、もう、出ない? 集中できなくて、困っていたところだったの」
聞いて、今度は琴香が目を丸くする。だがすぐに、OK、OK、と小さな声で言いながらうなずき、私に向かって片手をあげる。
「財布、とってくるよ。待ってて」
その慌てた様子を目にしながら、そうよね、と心の中で呟く。
琴香は、私が校正が好きなことを知っている。それが、「集中できなくて、困っていた」なんて。
私自身、おかしいとは、思っているの。でも、どうしようもないんだもの。
会社があるのはオフィス街で、周辺には、仕事帰りの会社員を想定顧客層とした居酒屋が点在している。そういう居酒屋が、同じく会社員向けに安くで提供している昼の定食が、私たちがよく一緒に食べる「ランチ」だった。
色気のかけらもないけれど、安いし早いし美味しいし、言うことはない。ちょっと塩分が高そうなのは気になるけれど。
「で、どうしたの?」
席に着き、おしぼりと水が置かれるなり、琴香が食い気味で私に問う。
私はラミネートされた「昼定食」のシートを琴香の方に向けつつ、「とりあえず、選ぶ?」と聞いてみる。別にもったいつけるつもりはなかったけれど、このまま話し始めてしまうと注文時を失うと思った。
それほど悩むこともなく、琴香は焼き魚定食、私は刺身定食を注文する。
「で、どうしたの? 何があったの?」
琴香がぐいっと水を飲んでから、再び、前のめりな調子で私に問う。
何が、あったか。いろいろありすぎて、説明が難しいけれど……
「笑わない?」
「うん、たぶん」
たぶん、か。でも、まあしかたがない。
せっかく気の置けない同僚に心の内を聞いてもらおうというのだから、できるだけ、嘘がないように言葉にすべきだろう。
「一言でいえば、恋煩いだと思う。とある人のことばっかり、考えちゃうの」
「え」
声、というよりも音、を発して、琴香は、そのまま固まってしまった。
「つい先日……2日前に、出会った人なんだけど」
「え、ちょっと待って……」
琴香は、私に向かって右の手のひらを突き出す。なんらかの衝撃を受けていて、うまくそれを消化できていないらしい。琴香とこういう話をしたのは初めてだったので、そもそも戸惑いがあるのかもしれない。
私は彼女に言われた通り、言葉を継ぐのを少し待ってみる。
すると、少しの間の後、琴香が口を開き、小さな声で何かを言った。
「難攻不落の橘さんが……」
「……はい?」
かろうじてその言葉を、耳が拾う。
難攻不落……?
琴香は私の疑問には応えず、続ける。
「というか、鈴音、もともと彼氏いるのかと思ってたんだけど……新しく、好きな人ができたってこと……?」
「え、どうしてそんな風に思ってたの?」
「なんか、社内の人が鈴音にアプローチして『付き合っている人がいるから』って断られた、って、聞いたことがあったから」
「ああ……」
なるほど。
確かに、社内の人から何度かアプローチを受けて、そのように伝えてお断りしたことはある。でも、どうしてそれを琴香が知っているんだろう。
営業部の情報網はすごい。
「付き合っている……というか、好きな人は、いたんだけどね。確かに」
「そうなんだ」
「実際には、付き合ってないの。だいたい年に3回くらい、あちらから連絡があれば、会っているんだけれど……付き合っては、いないわ」
言いながら、私はまた、その人のことを思い出すとき特有の、胸の痛みを感じる。
「何それ、遊ばれてるってこと?」
琴香が眉をひそめて、あからさまに不快感を示す。
「……どうかな。私は遊ばれてるつもりはないし、たぶんあの人も、『遊んでる』って意識では、ないと思う」
「そっか」と、琴香が、どこか深刻そうにうなずく。
「2日前に会った人は、そういう感じではないの?」
「そうね。そういう感じでは、ないと思う」
久我さんのことを思い出すと、心があたたかくなる。
人懐っこそうな二重瞼。大きくて、綺麗な手。
彼女特有の、甘い匂い。
優しい声。抱きしめてくれる時の強さ。
「2日前に会った人は、私のことを、とても大切に思ってくれている、気がするの」
琴香が私の顔を見て、少し、安心したような表情を見せる。
「そう。よかった。鈴音がいま夢中になっている人の方が、そういう人で」
夢中になっている。そう、確かにそういう言い方もできるかもしれない。
でも、そうなのだ。琴香はおそらく意図せず、本質をついている。
久我さんは、平穏で変化のない日常に、突然やってきた嵐のようなもので。私の心を大きく揺り動かしていったし、今もその影響で、私は彼女の事ばかり考えている。どうしようもなく強く、心が惹かれているのも、自覚している。
けれど同時に、長年の雨垂れで穿たれたもう一つの穴が、そう簡単にふさがるようにも思えなかった。
そうこうしているうちに、それぞれの定食が運ばれてきた。私は刺身定食を口に運びながら、琴香に、その「恋煩い」の詳細を話した。久我さんの性別は、伏せたままで。
発熱していた私を助けてくれたこと。
うなされていた時に、手を握っててくれたこと。
優しく抱きしめてくれたこと。
とても美味しそうに私のご飯を食べてくれたこと。
けっこう歳下の大学生であること。
素直で、可愛くて、例えるなら実家の芝犬みたいに見えることがあること。
それから……昨日、帰り際に、そっと口付けてくれたこと。
私がその先を期待していることが暗に伝わってしまったこと……までは、琴香には言わなかったけれど。
それらの幸せな瞬間が何度もフラッシュバックして、今日は全然、校正に集中ができなかった、ということ。
「でも、このままじゃダメだから、昼からは切り替えて、お仕事をがんばるわ……」
「煩ってるね〜、鈴音。新鮮だわ」
琴香がカラカラと楽しそうに笑う。私も心の内に抱え込んで、膨らんで、破裂しそうになっていたものをいくらか言葉にして吐き出すことができ、どこかスッキリした気持ちになっていた。
ランチを食べ終わり、それぞれお会計が終わって外に出た時、琴香が私に、ぽそっと言った。
「鈴音、自覚ないかもしれないから、伝えとくね」
「……自覚?」
「鈴音、これまで好きだったって人のことを話してる時は、すごく苦しそうで、新しい人のことを話してる時は、すごく幸せそうだった」
「………そう」
さすがだな、と思った。琴香は、私が私自身のことに疎いのを、よく知っているのだ。
「新しい人、大事にしなよ。前の人は、鈴音を幸せにはできないよ」
私はその言葉に、少しの怒りが含まれていることを感じとり。
「ありがとう、琴香」と、心を込めてお礼を言った。
午後からの校正は、午前中が嘘のように捗った。やはり琴香に吐き出させてもらったのが、良かったのかもしれない。
14時ごろ、化粧室に立った際にスマホを確認すると、久我さんからLINEが来ていた。
〈鈴音さん、今週の土日どっちか、あいてる?〉
メッセージひとつで、こんなに、ワクワクしてしまうなんて。
だいぶ、やられてしまっていることを自覚する。
〈どちらもあいてるわ。今週末は、来週の作り置きをする以外は特に用事がないから〉
送ると、すぐに返信が返ってくる。
〈じゃあ、とりあえず、土曜日午後から会いに行っていい? 練習は午前中で終わるから〉
今回の訪問には、何か特別な理由があるわけではない。私に会うことそのものが、彼女の目的らしかった。
この間のこともあったし、なんだかドキドキする。
〈もちろん。もし良かったら、いっしょに作り置き、作る?〉
〈うん、包丁の持ち方から教えてね!〉
そこから? と心の中で思い、思わず笑顔になる。
なんて可愛い人なんだろう。
私は、メッセージの表示された画面に向かって、心の中で語りかけた。
ねえ、久我さん。
私、あなたの話をしているとき、すごく幸せそうな顔を、しているんだって。
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