埴輪の歌
夜鳩
埴輪の歌
部屋の片隅に置かれた高さ1メートルほどの埴輪には、いつも涼しい空気が流れ込む。目と口に見立てられた空洞の奥に覗く暗闇は、埴輪が取り込んだ空気を冷やし、部屋をささやかながら涼しくした。
埴輪の呼吸は止まらない。雨の日だって、多少湿気を含んだ空気を吸い込み、申し訳程度の水分を体内に蓄え、少しだけ乾燥した空気を部屋に吐き出した。ただ、それはあまりにもささやかだったので、部屋の湿度はそれほど変わらない。しかし、埴輪にとってそんなことはどうでもよくて、自分が部屋にどんな影響を及ぼしているのかなんて気にも留めなかったし、ひょっとしたら自分の存在にすら気づいていない。
空気がカラッとした、秋らしい気候を感じさせるある日のこと。部屋の窓は、やっぱり開けられていた。窓にかけられたレースのカーテンは部屋の内側でひらひら踊っている。オートバイがやってきて、また去った。その間もひたすら風は吹く。部屋と廊下をつなぐドアに風がぶつかり、ヒューっと音を立てている。まだ昼間なのに、少し黄色がかった風景は秋の特徴なのだろうか。または、秋という概念がそうさせているのか。埴輪はただ、部屋の片隅から窓の外に広がる住宅街に体を向けていた。
太陽が電柱のてっぺんに乗っかる頃、風の音に乗り、なにかが空間をつついている。弛んだ大気は一瞬緊張が走り、正しいか誤りかの区別が曖昧な秩序が構築される。その秩序はまたも一瞬にして瓦解し、無秩序が再び大気を支配した瞬間、一羽のハトが窓の縁にやってきた。ハトは尾羽を外に向け、部屋の中を首をかしげながら見渡している。部屋に誰もいないことを確認するや否や、挨拶もなく、部屋に入り込んだ。ただ部屋中を飛び回り、落ち着く場所を探している。埴輪に動く暇を与えず、虹色の羽を生やした刺客は、学習机に置かれた白いランプの上にピタリと止まり、ふたたび首をかしげる。
「本がない部屋なんて見たことないや」
ハトは言う。
「さぞ教養に乏しい住民なんだろうな。俺のことを平和に象徴とでも思っているような、典型的なやつなんだろうな。なんて荒らし甲斐のないアタマなんだよ、まったく。」
非常にふてぶてしい態度をとったハトは、部屋の片隅に置かれた高さ1メートルの埴輪をみつける。
「ほう、たいそう立派な人間じゃないか。おい、お前の一番大事な記憶ってなんだ?」
埴輪は動じない。埴輪の目が、窓の縁からひょっこり覗かせる。凪となった風は、埴輪の存在を忘れていた。
「何事にも動じない。そもそもこれは人間か?もしかしたら人形かもしれない。ところがお前の成り立ちなんて正直どうでもいい。何か知識をよこせ、認識をよこせ、揺さぶりを見せろ。」
ハトの胸は埴輪に向けられ、首も前のめりになり、今にも埴輪にとびかかろうとしていた。
埴輪はただ窓の外に並ぶ住宅街の屋根を眺めている。秋の風に吹かれ、空洞から風を通し、それを彼なりに咀嚼して、部屋に循環させている。埴輪の周りが少し歪んでも、それはきっと変わらない営みだった。
廃品回収車が、年配のおじさんの声を住宅街にばら撒きながら家の前を通り、やがて遠ざかっていく。オートバイが通り過ぎる。風は一定の風量で部屋の中に入り、消えていった。そして、突然ハトは埴輪の上に飛び乗り、埴輪の脳天をくちばしで思いっきりつついた。鋭いが渇いた音が部屋を一瞬静寂にしたが、すぐ風は部屋に吹き込んだ。ハトはじっと黙っている。埴輪に覗かれているハトは、しばらく庭を見つめてみた。
「おい、なんか言えよお前。」
痺れを切らしたハトは言う。そして、埴輪の頭に飛びかかった。ひづめが擦れる鋭い音が、住宅街にこだまする。それは、ハトと埴輪にしか聞こえない、奇怪な波だった。しばらく沈黙の時間が流れた。太陽はまだ、電柱のてっぺんだ。
どのくらいの時間が経過しただろうか。埴輪の頭には少しばかりのひびが入っていた。それはハトがやってきたからなのか、気付かぬ間にできたそのヒビは、確かに空気の流れを変えた。限りなく広がる地に、絵の具を水で限りなく希釈したような、淡い色を加えた。髪の毛ほどの細い割れ目。ハトはそれを確認するとすぐ、黙って部屋の外へ飛び出した。
騒がしかった部屋の中には、ふたたび風と埴輪が奏でるメロディーで満たされている。ひびの分、少しだけ造形をかえた埴輪が奏でる音は、今までよりもほんの少しピッチが高い。埴輪は笑っていた。ただ静かに、部屋の片隅に立ち続ける埴輪は風と一つになることを願って。
埴輪の歌 夜鳩 @algu
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