第2章 五十回忌 七話 藤崎初実

 何年も放置されたガタガタの悪路の上を、二人乗りの自転車が疾走する。

「あははははは! すっごい悪路!」

 上下にガクガタと激しく揺れる自転車の衝撃を、まるで楽しんでいるように藤崎初実は笑って言った。

 リアキャリアに座っている五歳になったばかりの翼果が、初実の背中にしがみついている。

 藤崎母娘が乗る自転車が、派手に揺れながら結構な速度で坂道を下っていた。

「口開けちゃ駄目よ! 舌噛んじゃうから!」

 言われるまでもなく翼果は口を固く閉じており、ついでにギュッと目も瞑っていた。

「フゥウウウウ! 風になれぇー!」


 坂を下りきり、スピードが弱まる。

 悪路も抜け、自転車のタイヤの音が滑らかなものに変わった。

 翼果が目を開くと、白いガードレールと透き通ったエメラルドグリーンの茂みが横を流れていた。その向こうに広がる草原と、赤や青の屋根が疎らに見える。

 再びペダルを漕ぎだした時、ガチャチャッ、と異音が鳴り、足にかかっていた抵抗が唐突に無くなった。

「あっ! わっ!」

 焦ってブレーキを握ったところでハンドルを取られ、二人は宙を舞った。


 初実がアスファルトの上を派手にゴロゴロと転がる。

 すぐに上半身を起こして、同じく投げ出されたはずの翼果を探した。

 倒れた自転車の車輪がカラカラと音を立てて空転している。

 見通しの良い道路の上には、翼果の姿が見当たらない。

 慌てて周囲を見渡す。

 少し離れた場所の草地に、両手を地面についてペタンと座っている翼果の姿が見えた。初実は跳ね飛ぶように翼果の元に走り寄る。

「翼果! 大丈夫!? 痛いところ無い!?」

 キョトンとた顔の翼果が、パチパチと瞬きをして初実を見た。

「うん、だいじょうぶだよ」

 特に怪我をしている様子はない。

 初実は安堵で吐息をつき、笑顔をつくった。

「びっくりしたね!」

 初実の大きな手が、翼果の頭をワシャワシャと撫でた。

 呑気そうに雲が流れている。風も無いので、鳥の鳴き声だけが辺りに響いていた。



「翼果が泣かないのは、きっと神さまが翼果を強く造ったからかもね」

 外れた自転車のチェーンを直しながら、初実が言った。

「うう~ん? わたし、ぜんぜんつよくないよ。かあさんみたいにおもいものも、もてないもん」

 乾いたアスファルトの上に座った翼果が、赤い靴の爪先同士をコンコンと当てながら答える。

「あはは、そうじゃ無くてね、心が強いってことよ」

「こころ? ああ、そっちのはなしか」

 何がそっちの話なのか、おそらくよく分かっていないだろうに、妙に大人ぶった子供特有の物言いをした。

 それにしても翼果は本当に泣かない。

 初実は心が強いなんて言ったが、翼果のそれはそんなレベルではなかった。

 産まれてから泣いたことがないのだ。と、いっても涙は出る。

 目にゴミが入ったり、欠伸の時など、そういう涙は出るのだが、悲しかったり、悔しくてなどの感情が元で泣くということがないのだ。

 赤子の頃も同様に泣くことはなかった。

 なにかあると泣く代わりに、アーアー、と大声を発したので実際そこまで困ることは無かったが。

 それに果物しか口にしなかったり、食べてもすぐに満腹になったり、自分とあまりにも違う翼果に、心配が絶えることがなかった。

 しかし、泣かないことも食の問題も、そういう子なんだ、と割り切れば逆に手間がかからない子ではあった。


「かあさんって、たまに、なんにもかんがえないでこーどーするの、よくないとおもうよ。あぶないもん」

「あれ? 怒ってるの? 翼果ちゃん」

 外れたチェーンを直しながら、初実が娘のご機嫌を窺う。

「おこってないよ、ぜんぜん」

 初実がちらりと振り返ると、翼果は口を尖らせてそっぽを向いていた。

 少し怒っているようだ。

 確かに翼果は泣かないが、感情がないというわけではないのだ。

 よく笑うし、こうして怒ることもある。ただ激情にかられることは無い。

 そういう点では人よりも感情の起伏が少ないのかもしれない。


「よし、直った!」

 初実はチェーンの油で汚れた手をタオルで拭くと、翼果の前にしゃがみこんだ。

 翼果はツンとした顔で、初実と目を合わそうとしないでいる。

「翼果ちゃん、笑った方が可愛いヨッ!」そういって初実は翼果の脇腹をくすぐった。

「や、やめっ! アハハハハ!」

 二人の他に誰もいない世界に、翼果の笑い声がこだまする。




「これがヨガラスソウ(※20)、こっちがミルクムーンフラワー(※21)」

 深くなった森の中で初実が、次々と草花を指差して、翼果にその名前を教えていた。その指が止まる。その指の先に、爆発の途中で時を止めたような赤と黄色の花があった。

「これはぁ……、うーん、そうだなぁ……、オオダマハナビソウ!」

「いま、お名まえつけたの?」

 翼果が小首を傾げ、初実を見る。

「そうよ、他のお花も動物さんたちの名前も、み~んな、母さんが付けたんだから」

「へえ! かあさんはスゴイね!」

 翼果は目をキラキラと輝かせながら尊敬の眼差しを初実に向けた。

「知らなかったの? 母さんは凄いのよ」

 初実は娘に得意げな表情を向けた。


 そんな母娘の微笑ましいやりとりを、茂みの中から息をひそめて見つめるものがあった。その黄色い宝石のような瞳は、小さな翼果の後ろ姿を捕らえている。

 ザッ、と葉が揺れる音がした。

 その存在に初実が気づいた時には、すでに翼果の身体は宙を移動していた。

 翼果は振り回された人形のように、なすすべなく高い枝の上に運ばれて、獣の足で押さえつけられた。

 ジタバタと手足を動かしてみたが、抑えられた獣の足はビクともしない。

 翼果はムフーッ、と鼻から息を出して不満そうに観念した。

 そして、自分を押さえつけている獣がなんなのか確認するために、その姿を見上げる。

 黄色く光る眼に縦長の黒い瞳孔、全身を覆う灰色の長い毛が風で揺れている。

 ツンと尖った耳とゆらゆら動く縞々の長い尻尾には見覚えがあった。

 絵本で見たことあるなぁ、なんだっけ? ネコさん? でもおおきいからトラさんかもしれない。

 うーん、でも尻尾が三つもあるから違うかなぁ。

「にゃーん」

 試しに、話しかける目的で猫の鳴き声を出してみる。が、その大型の猫(※21)は答えない。ただ、口を半開きに涎を垂らして獲物を見下ろしている。

 今にも捕食されそうな状態にありながら翼果は呑気だった。

 自分が食べられるなんて事があると、欠片も思ってもいないようだ。

 大猫が顔を翼果に近づけ、フンフンと匂いを嗅ぐ。

 獣臭に翼果が顔をしかめる。

「キミ、ちょっとくさい」

 そう言って自分を押さえつけている足をボンボンと叩いた。

 突然、大猫が何かをキャッチしたかのように、辺りをキョロキョロと見回し始めた。大猫の頭の中に正体がわからない強烈な信号のようなものが届いたからだ。

 大猫の頭の中に強い信号のような声が、もう一度響いた。

 信号の出どころを探る大猫の顔が、樹の下を向いて止まる。

 樹の下にいる初実が、無言で大猫を見つめていた。

 大猫は初実と視線を合わせたまま、金縛りにあったかのように動きを止めている。

 初実の視線に威圧の色はない。ただ真っすぐに大猫を見つめているだけだ。


 やがて、上を向いていた三角耳がみるみる寝そべっていった。大猫の頭は下がり、まるで叱られた家猫のような表情に変化する。

 大猫は獲物を押さえつけていた足を退けると、子猫を運ぶように翼果の首根っこを口で掴んで、樹から飛び降りた。

 そして初実の前で翼果をそっと降ろす。

 怯えたような目つきで、目を合わさないようにする大猫に、初実が手を伸ばした。

 ビクリ、と身体を震わせた大猫の頭を、初実が優しく撫でた。

「ありがとう。怖がらせてごめんね。この子は私の宝物なのよ。だからキミにはあげられない」

 大猫は初実の言葉に答えるようにゴロゴロと喉を鳴らした。

「そうだよ、キミにもわかるでしょ。だからキミにも私の宝物と仲良くして欲しいんだ」

 大猫は頭を初実のお腹に擦りつけると、そのまま地べたにペタンと座る翼果に向かい、頬をベロベロと舐めた。ざらざらした舌がくすぐったい。

「翼果も撫でてあげて」そう母に促され、翼果も大猫の首元を撫でた。


 初実は動物と話すことができた。

 話すというと語弊がある。正確には意思疎通ができたという方が正しい。

 動物は言葉を話さないからだ。

 その動物にもよるが、基本的には感情のイメージが読み取れる。

 少し高度な脳機能がある動物の場合だと、感情だけでなく、短い単語のようなイメージも読み取れた。例えば、食べ物、お腹が空いた、どうして、どこ、わからない、などのような簡単なイメージだ。

 そして、逆に初実も動物たちに自分の意思を飛ばすこともできた。

 その意思の信号は強烈な波動として相手に伝わり、時には動物たちの行動を支配することもあった。といっても洗脳で操るわけではない。

 イメージ的には直接頭の中に大声で語りかけているのに近いかもしれない。

 基本的に野生動物は慎重であり、臆病だ。なので、ほとんどの動物は初実の強く聞こえる声に驚き、恐怖して屈服してしまう。

 動物との意思疎通の他にも、フィールドの生物が発する【音】も聴こえていた。

 この音とはいわゆる物質の振動で生じる、普通に耳で聞こえるものではない。その音は耳で聞くというより、頭の中に直接聞こえる感じだ。

 特に植物は種類によってそれぞれ固有の音を発しており、その音が初実には聞こえていた。

 ただ、その音の意味までは初実には分からなかった。

 いや、ひょっとしたら単に細胞が擦れ合う音みたいなもので意味なんてないのかもしれないが。

 この初実の能力は生まれながらに持っていたものではない。

 フィールドXの中で暮らし始めて、ある日を境に突然身についたものだった。

 彼女がその日のことを忘れたことは一度も無い。



 上下にゆったりと揺らされながら、自動的に木漏れ日が前から後ろに流れていくのを、翼果が口を開けて見上げている。

 大猫に跨っている娘の横を、収集した草花の束を手にした初実が歩いていた。

「ねえ、かあさん」

「何?」

「かあさんは、どうしてどうぶつさんたちと、おはなしできるの?」

「さあ? なんでだろうね。もしかしたら翼果も大きくなったらお話できるかもよ」

「ホントに!?」翼果は目を輝かせながら初実を見た。

「あはは、きっとね」

 しかし翼果がその後、動物の声が聴けるようになる事はなかった。




 翼果はベッドの上で仰向けに寝転がっていた。

 窓から見える半分に欠けた月をぼんやり見ていると、鼻歌交じりで初実が階段を上がってくる音が聞こえてきた。

「翼果ちゃん、おまたせ~、夜のご本読みタイムだよー!」

 風呂上りの濡れた髪をタオルで巻いた初実がベッドに腰かけた。

「おそいよ、かあさん。わたし、まちくたびれぼうけだよ」

 翼果が寝っ転がっていた身体を起こして、フグのように頬を膨らませた。

 その脹れた頬を、初実が両手の人差し指で挟んで押す。

 ぷしゅー、と音を立てて翼果の口から空気が漏れた。

「ごめんよ。さあて、今日はどのご本がいいかな?」

 翼果は、もうすでに手元に置いて準備してあった本を、ぐいっ、と差し出した。

 ゴーグルに大きなバックパックを背負った猫が、空を指さしている絵の表紙で、『ニャン太郎のジャングル大冒険』というタイトルの絵本だ。

 何度も読み聞かせて中身もほぼ暗記できている本だったが、ここのところは別の本に夢中だった為に久しぶりに読む本だった。

「そうね、今日は猫さんに会ったもんね」

 我が子の可愛らしさに思わず初実の頬が緩む。

 初実が本を開いて読み始めると、翼果は初実の横にぴったりとくっ付いて、本を覗き込んで見る。

 翼果は本当に本が好きなようで、一度読み始めると本に釘付けになって終わるまで動かない。翼果が自分ひとりで読めるようになった絵本は、もうボロボロになるほど読み込まれていた。

 まあ、フィールドXには他に娯楽らしい娯楽も無いので、当然といえばそうなのかもしれないが。

 あと他にできそうな娯楽といえば音楽くらいだったが、楽器がまるで弾けない初実には、音楽の魅力をうまく伝えられず、今のところ興味を示す様子はない。


「ねえ、かあさん」

「うん?」

「ご本に出てくるどうぶつさんたちって、森にいるどうぶつさんと、ちょっとちがうよね。なんでなんだろう?」

「あー、うん、そうだなぁ……」いつか聞かれることだろうと思ってはいたが、どう答えるのがいいのだろうか、と少し初実は考えた。

「そうねえ……、ご本の動物さんたちはね、こことは別の世界、かあさんの生まれた世界の動物さん達なのよ」

「かあさんの生まれたセカイ? かあさんはここじゃないところでうまれたの?」翼果は目を皿のように丸くした。

「そうよ、かあさんは夢の中の世界で生まれたの」

「ユメのセカイ? って、どこ?」

「遠い、とおーい、ものすごーく遠い世界なのよ。そうだなぁ、翼果がもっと大きくなったらお話してあげるね」

「ええぇ!」翼果が不満そうな声を上げる。

「ごめんね、ちゃんといつか話すから」

 翼果は、お預けをくらった不満を訴えようとも思ったが、いつもの適当に話を誤魔化しているのとは違う雰囲気を感じ取って、口をつぐんだ。

「しょうがないなぁ、いつか、ちゃんとはなしてよ」

 翼果が、背伸びをして大人ぶった物言いで言った。その様子が愛おしくて初実は翼果をぎゅっ、と抱きしめて額にキスをした。

「わあっ! やめてよぉー」

 抱っこされて嫌がる猫のように翼果がジタバタする。

「本当に、いつかちゃんと話すからね」

 おでこで喋る初実の声が、翼果の頭に響いた。




 店先の花の水やりをしながら、クアァアー、と大欠伸をした翼果は十歳になっていた。

 もう一人で森に行き、店の花の採集もできるようになっていた。

 と、いっても母から一人で行って良い場所が制限されていたが。

 店の脇にあるはずの自転車が無い。初実はどこかに出かけているようだ。

 翼果がある程度一人で行動できるようになってから、初実がふらりと何処かへ出かけることがたまにあった。何か美味しいものでも食べにでも行っているのかもしれないし、何か新しい本でも見つけているのかもしれない。

 確かに、その通りのこともあった。口の周りを何かの食べ物で汚して誤魔化すような仕草で帰ってくることもあったし、興奮気味で両脇にどっさりと本を抱えて、新しい本だよ! なんて言ってくることもある。

 だが、ごく稀に、手ぶらで帰ってくることがあった。

 そういう時は、翼果に抱きついてきて「ごめんね、翼果、寂しかったよね」と言いながら翼果の頭をワシャワシャと撫でた。


 寂しい。


 実は、翼果には全く理解できない感情だった。

 初実の様子から、何かネガティブな感情であることは理解できるのだが。

 悲しいはわかる。思い通りにいかなくて嫌なのに、諦めなくてはならない時に出てくる感情だ。悲しいと寂しいは似ているのだろうか。

 本には独りぼっちで心細いこと、と書かれていた。独りが心細い、というのが分からない。

 独りはただの状況だ。その状況にネガティブもポジティブも無い。

 ただ、翼果がその事を、初実に打ち明けたことは無かった。

 理由はない。

 なんとなく今更それを伝えることに、意味も無いと思っていたからだ。


 放水のホースをテーブルの上に置いて、道の真ん中で伸びをする。

 雲一つない、抜けるような青空だ。

 何気なく森とは反対側の方面を見る。

 絶対に行ってはいけない場所。

 翼果が初実から一人で行ってはいけない、と云われている場所はいくつかある。

 それは主に森の中で、初実も足を踏み入れたことがない未踏破エリアや、危険度が高いエリアなんかがそうだ。それは理解できる。

 だが、森の危険な場所以外で、幼い頃から絶対に行ってはいけない場所としてキツく云われている場所がある。

 それが、店から見て森方面とは反対側の方角だ。

 そして、行ってはいけない筈なのに、そこに続く道が伸びている。

 この道の向こう。遥か遠くには、四角い板のようなシルエットが連なっているのが薄く見える。何度か、あの四角い山脈がなんなのか、初実に訊ねたことはあったが、彼女はいつも少し困ったような表情を浮かべて、なんだろうね、としか言わなかった。

 いつもは気にも留めていない向こう側。

 その日は何故か気になった。

 行くことを禁じている初実がいないからなのか、ただの好奇心か、冒険心なのか……。


 行ってみようか……。


 軽い気持ちだった。何かマズいことがあれば、引き返せば良い。ただの散歩と何も変わらない。そう思いながら翼果は歩き始めた。

「なんだ。なんてこと無いじゃないか」

 実際、何も無かったのだ。

 家の近辺を散歩しているのと何も変わらなかった。

 翼果は鼻歌交じりで、誰もいない道路の真ん中を歩いて行った。


「……?」


 なにも変わらない筈の景色だが、違和感がある。

 歩きながら辺りを見回した。モリノユメが目に入る。

 どこにでもある、白い棒のようなキノコ。だが、何かが違う。

 ああ、そうか、でもなんでなんだろう?

 進むにつれ、モリノユメが小さく細くなっていたのだ。それが何を意味しているのかはわからないが、それが違和感の正体だったのだろう。

 似たような景色が続く中、歩みを進めていく。

 周囲の樹々や草が疎らになっていく。

 植物が減っていっている?

 明らかに草木の数が減っている。土も荒れて砂混じりになっていた。

 植物だけではない。虫や鳥などの小動物も見かけなくなっている。大地の生気そのものが失われていっているかのようだ。

 おかしい……。何も無い筈なのに、冷や汗が止まらない。

 何?

 ざわざわする。

 遠くに廃墟の街が見えてきた。砂塵が吹き荒れているのが見える。昔、絵本でみた砂漠の街のようだ。その遥か向こうに緑色の樹々の塊がぼんやり見える。

 見たことがない草木の色だ。


 視界が霞む。


 わたしは今、何か見てはいけないものを見ているの?


 周囲が暗くなる。


 あれ? 意識が遠のいていく。


 ………怖い……。


 背後で、ガシャリ、と何かが倒れる音が聞こえた気がした。


 何? 何か……、倒れた?


 途切れ、途切れに、何かが、聞こえる。


 なんだろう……? 声? 誰の?


 わたし、移動して、る……?


 な、にかが、顔、に、ふりかかって……


 雨……?


 あ……たた……か…………


 ………い………


 …………


 ……






 ……


 ……………


 ゆ……れ……


 ……揺れて……る……?


 ……………


 ………


 ……なにか…………見える……


 ………ぼやけ……てる………なぁ……


 ……かあ……さん……の……背中……


 ……あたた…………


 …………か……い………


 ……



 なにか……聞こえる……


 ……歌?……


 かあさんの……声……


 あれ? わたし、いつの間に眠っていたんだろう?

 瞼を開く。

 空がみえる。

 ピンク色と黄金色が混ざった色の空。夕暮れ?

 瞬きをする。

 身体になにかが巻き付いていた。

 何? 手?

 かあさんの手だ。

 ここはどこ?

 見覚えのある景色だ。家の近くだと思う。

 歌が止んだ。

「あら、起きた?」

 頭の後ろから初実の、母の声がした。

 顔を後ろに向ける。

「おはよう」そう言った母の目は赤く腫れていた。

 地面に座る母に寄りかかるように、翼果は寝ころんでいた。

 母の手が後ろから、自分を抱きしめるように胸元で組まれている。

「苦しいよ、かあさん。手、離して」

「嫌よ、離さない」

「なんで?」

「行っちゃ駄目って言ってたのに、どうして行ったの?」

「え? あ、ううん……」

 その言葉に、自分が何をしていたのかを思い出した。

「なんとなく……かな? 散歩してみようって、思ったの」

「そっか……」

 雨が降ってきた。暖かい雨が頭の上に当たっている。

 雨? 晴れているのに?

 「この……、バカむすめ……」

 初実が泣いていた。

 「ごめん」

 「二度と、やめて」

 「うん」

 翼果は母が泣いているのを……、いや……、人が泣いているのを、初めて見た。こんなにも人の涙は胸を締め付けるものなのか。

 さっきまで黄金色だった空が、焼けるような深紅に染まっていた。

 


 暗がりの中を、カツンッカツッ、と二人分の足音が響く。密閉された円柱空間で、長い螺旋階段を上る。提灯のように、棒の先からぶら下げられた光る果実が、足元を照らしている。

 「そうえば、自転車は?」

 軽やかに階段を上る翼果が、振り返って初実に訊いた。

 「チェーンが切れちゃって、向こうに置いてきちゃった」

 「そっか」

 上を見ても下を見ても、グルグル回る階段で目が回りそうになる。

 「随分高いね」途中の小窓から外を見た翼果が言った。

 地の果てに落ち消えた太陽の残り香が、薄っすらと空を照らしていた。

 「うん、街一番の展望台だからね」

 「こんな所があったんだ」


 階段を上り切った最上階は、360度ガラス張りの展望スペースになっていた。

 そのガラスは何ヵ所か割れていて、強風が吹きこんできそうだが、今日は風が無い。森の奥に聳える光の大樹が、ここからは良く見える。

 カシャチャリ、と割れ落ちたガラスを踏みしめながら、窓の前に二人で立った。

 「あっ、うちが見える」

 「こんなに暗いのに見えるの?」

 「うん」

 「ふふ、また翼果の凄いところを見つけちゃった」

 「わたし、すごいの?」

 「すごいよ、わたしの次に凄い」

 「かあさんの次かぁ、じゃあ、まだまだだ」

 「まだまだだね」

 母と娘は目を合わせて笑い合った。

 「それで、ここに何があるの?」

 「うーん、そろそろかな」

 遥か遠くの地平の先に明かりがちらつき始める。地面の光が点々と散りばめられ、広がっていく。

 「かあさん! 地面に星があるよ!」翼果の声は驚きと困惑が入り混じって上擦っていた。

 「不思議でしょ」

 「うん、うん! なんで? 落ちちゃったの? 星」

 「アハハ、違うの。あそこではね、夜になるとそこら中で光が輝くのよ」

 「地面に星が沢山あるなんて、すごいところだ」

 「そうね、凄いところだったわ、確かに」

 「知ってるの?」

 「良く知ってる。だって、あそこで母さんは生まれたからね」

 その衝撃に告白に、翼果はうまく呑み込めずに口を鯉のようにパクパクさせた。

 「じゃ、じゃあ、あそこが夢の中の世界……なの?」

 「そうだね、夢の中じゃないけどね」

 翼果は、ほうっ、と感心したような気が抜けたような吐息を漏らして、キラキラと輝く地平の方を向く。

 「そっかぁ、すごく遠くもないね」

「ハハッ、確かにね」

 「かあさんは、いつかあそこに帰るの?」

 そう言った娘がどんな表情になっているかを確かめたくて、横顔を見る。

 寂しそうなのか、辛そうなのか、悲しそうなのか。

 だが、翼果の表情から、そうした感情は読み取れなかった。

 彼女の表情は、不思議な地平の煌めきを興味深く見ている時から変わってはいない。そして、そのことを初実は解ってもいた。

 「帰りたくても帰れないの。翼果と一緒で、わたしもここから出られないからね」

 「そうなの? 生まれたところなのに?」

 翼果は窓の外を見たまま、納得いかなそうに小首を傾げた。

「そう、だから時々寂しくなって、ここから眺めてたのよ」

「ふうん」

「でもまあ、寂しいって感情がない翼果に言ってもわかんないよね」

 驚いた顔で翼果は母を見る。

「知ってたの? わたしが『寂しい』の意味がわからないこと」

「フフフ、舐めてもらっちゃ困るわ。わたしは世界で一番翼果のことを知っているのよ」

「はぁー、かあさんはスゴイなぁ」

 心から感心した顔で、自分を見る娘の肩を抱き寄せた。

「知らなかったの? 母さんは凄いのよ!」

 明かりの無いフィールドXの夜空は星で埋め尽くされている。外界の明かりが地平の先の空をほんのりと照らしているのがわかる。

 しばしの間、二人は無言でその景色を眺めていた。

「ねえ、かあさん」

「なあに?」

「わたしたちは、どうして向こう側には行けないんだろう」

「ううーん、そうね……」

 そのことの答えを初実も持っているわけでは無い。だが、自分が亡くなった後もこの世界で生きていく娘の事を考えると、ここで分からない、と言ってしまうのは違うと思った。

 でも何て言えばいいのだろう。

 そして、少しだけ考えてから口を開いた。

「やっぱり、ここが、この世界がわたしたちの家だからかな」

 そうだ。望もうが望むまいが、この世界がわたしたちの住む場所なんだ。

 例え、わたしが帰れたとしても、翼果を置いていくなんてことができる筈もない。

 そして、わたしたちはこの世界で生きていけているのだ。


「ここからね、あなたが向こうに歩いて行くのが見えたのよ。心臓が止まるかと思ったわ」

「ごめんね、心配させて」

「ううん、翼果は悪くない。わたしがね、いつまでも寂しがって、過去ばかり見てたのが良くなかったの。それに、本当は寂しい事なんて無かったのよ。だってあなたが、翼果がいるんだもの。もう少しで、世界で一番大切なものを失くしてしまうところだった」

 そう言った初実の顔が清々しいものに、翼果には見えた。

 そして、その日以来、初実がこの場所にくることは二度と無かった。

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