第2章 五十回忌 六話 花収集特別班 後編

 シダのような葉の巨木が立ち並ぶ、原始的な森の中を次の採取エリアに向けて歩く。成人の背丈ほどの紫色のワラビに似た植物(※13)が群生している。

 恐竜時代の森にでも迷い込んだかのようなところだが、植物の葉の色が鮮やか過ぎるのが、この場所が黄泉森であることを思い出させた。


「だいぶ集まりましたね」

 先頭を歩く翼果の籠に溜まった白い花を見ながら米倉が言った。

「うん、あと二か所だから、もう少しだな」

 翼果が顔だけを少し振り向かせながら答える。

「そういえば、翼果さん、今日は棒じゃないんですね」

 米倉の後ろを歩く一衛も会話に参加した。

「ああ、あの棒は今、物干し竿で使ってるから」

「ええ? アレって探索専用の装備じゃないんすか!」

 一衛の後ろの笹村が驚いて調子を外した声で言った。

「違うよ、ただの物干し竿だよ」

「森ごときに武器なんか要らねえってことか。流石あねさんだぜ」

 最後尾の犬山が感心した声で翼果を称えた。


「犬山さんの腕っぷしも流石ですよ。とても初回の黄泉森で震えてたなんて思えないですね」

 一衛の言葉に米倉が反応する。

「震えてた? 誰のことだ」

「俺のことっすよ」犬山が答える。

「は? お前が?」米倉が立ち止まる。

「違うんですか?」一衛が聞き返す。

「嘘は言ってねえぜ、膝は笑っちまったし記憶も飛んだ」

「確かにそうだったが」米倉がこちらを振り返る。

「俺は別に間違ったことは言ってねえっすよ、アネゴ」

 犬山は何故米倉がこんな引っかかっているのか、心の底から分からないといった顔をしている。

 そんな犬山を見て、米倉は溜息をついて一衛に話した。

「こいつ、記憶が飛んだ後、襲ってきたカイコグマを素手で半殺しにしたんだ。しかもその後、誰彼構わず殴りかかってきてだな、アタシと翼果さんでふん縛って連れ帰る羽目になったんだ。それでついたあだ名がバーサーカー」

 カイコグマって……。

 一衛は研究所のロビーにあったはく製を思い出した。

 確か蛾と熊を合わせたような凶悪な見た目をしていた。

 アレを素手で半殺し? なるほど確かにバーサーカーだ。

「何度聞いてもヤバすぎる話だわ」笹村がげんなりした声で言った。

「いやぁ、迷惑をかけたのは謝るが、俺はなんにも覚えてねえからなぁ。俺の中ではブルっちまって、気絶しちまったっていう苦い思い出でしかねえんだ」

 そうバツが悪そうに犬山は自身の頭を撫でた。

「あれは楽しかったな、米倉」

 心底楽しそうに翼果は笑っていた。あの状況を楽しんでいたのか、と米倉は少しひいた。

「ま、まあ、翼果さんがそうおっしゃるなら、アタシからいうことは無い」

 そういって米倉が向き直り、一行は再び歩き始めた。


 —————カラカラン


 なんだ?

 一衛の耳に何かが聞こえた。皆を見るが誰も気にしている様子はない。

「なんだ、どうした?」

 不意に足を止めた一衛に、ぶつかりそうになった笹村が声をかけた。


 カラン カララン


 また聞こえた。鳥や動物の声というより、無機質で透き通るような音だ。

「あ、いえ、何か聞こえませんか?」

「いやぁ? 特に何も聞こえねえけどな」

 犬山が一衛たちの会話を聞いて周囲を警戒する。

「おい、なんで止まっている」

 米倉が少し先で振り返っている。

「いえ、一衛のやつがなんか聞こえるとか言い出してですね」

 米倉と翼果が戻ってくる。

「聞こえるって何がだ?」

 翼果が周囲を見渡す。

「特に何かの気配も感じないけどね」

 一衛は両手を耳の傍に添えて音に意識を集中する。


 キンッ カラン


「あっちから聞こえます。微かなんですが」

 一衛は茂みの奥を指差した。

「あっちは赤霧沼エリアの方ですね。それでグレーヌ、一体どういう音だ?」

「そう……ですね、なんていうか無機質というか……、ああ、そうだ、氷が入ったグラスを揺らしたような音が近いですね」


『キレイでしょ。耳を澄ますとね、氷が入ったグラスを揺らした時みたいな音がするでしょ』


 母の言葉が翼果の脳裏に浮かぶ。

「氷? 今氷の音って言ったのか? 本当に!?」

 翼果が驚いた声を発した。

「えっ、ええ……」

 今まで見てきた常に余裕ある翼果からは想像できない様子に、一衛が戸惑った感じで答える。しかしそれは、他の皆も同じだった。

 こんな取り乱した様子の翼果を見たことが無かったからだ。

「ど、どうしたんですか?」

 米倉も戸惑いながら翼果にそう尋ねた。

「あ、ああいや、ごめん。もしかしたらずっと探していたものの手がかりかもって思って」

「それは……、探してみましょう。大事なものなんですよね?」

「いいよ米倉、大した事じゃ無いんだ」

「ダメです翼果さん、我々に遠慮なんかやめてください。グレーヌ、案内しろ」

「は、はい」



 一衛の先導で獣道を外れ、シダの茂みの中を突っ切っていく。生い茂るシダ植物の合間から赤茶けた景色が見えた。おそらくこの先が、先程米倉が云っていた赤霧沼エリアなのだろう。

「向こうに見える赤い景色の奥から聞こえてきます」

 一衛が進行方向を見ながらそう言った。

 翼果の足が止まる。

「みんな止まってくれ。この先は危険すぎるし、わたしは行けない」

 翼果の言葉に皆も足を止める。

「翼果さんが行けない程、危険な場所なんですか?」

 そんなエリアが存在するとは思ってもみなかった一衛が驚いて訊いた。

「赤霧沼は空気中に毒が蔓延していて、今日の装備じゃわたしは入れないんだ。それに場所は分かったから、今度、個人的に来るよ。ありがとうみんな」

「翼果さん、一体何を探しているかだけでも聞かせてもらえませんか」

 米倉が食い下がり、翼果が折れた。

「うん、実は母さんが一番好きだった花があるかもしれないんだ」


「………行くぞ、お前ら」そう言って米倉が皆を見た。

 米倉の言葉に皆が頷く。

 いや、待ってくれ。行く? 毒が蔓延する沼地を?

 このミッションで米倉は最初からかなり気負い過ぎていた様子だったが、これは冷静な判断ができなくなっているんじゃないか?

 皆も何故同意しているんだ?

 一衛には、まるで自分以外の全員が正気を失っているように思えた。

「ま、待ってください。毒が蔓延してるなら、我々も危ないんじゃ」

「いや、外界の俺たちに黄泉森の毒は効かねえんだ」

 一衛の当然の疑問に笹村が答えた。

 毒が効かない?

 なんだかおかしな話だ。そもそも外界の生物にとってフィールドXの空気自体が毒だというのに、黄泉森の生物に効く毒が外界の我々には効力がないというのは、何だかアベコベに思える。だが、笹村が気休めで言っている訳ではないらしく、誰一人それに異論を唱えることも無かった。

「それに、これは他の花を諦めても今日採集すべきだ」

 米倉がそう言って皆もそれに同意した。


 皆の様子に翼果はふぅーっと息を吐いて「わかったよ」と言った。

「ただし、沼には絶対に入らないように。それと沼に潜んでいる奴らに襲撃されたらすぐここに戻ってくること。あと採取する花は一本でいいからね」

 頷いて進もうとする米倉に、翼果がロープを手渡した。

「持ってきな、何かの役に立つかもしれないから」

「ありがとうございます。必ず手に入れてきます」

「米倉、無理はしない、いいね」

「はい」

 まるで旅立つ前の子供と母親とのやりとりを見ているようだと一衛は思った。いや、翼果からみれば、ここの皆は子供のようなものなのだろうが。

 皆、花の背負い籠を降ろし置く。

「よし、いくぞ」

 米倉の言葉と共に、シダの森から赤霧沼エリアに足を踏み入れた。



 空気ががらりと変わる。気温が一気に下がり湿度が一気に上がる。

 魚が腐ったような臭いが鼻についた。

 ほんのりピンクに色づいた空気は、腰から下辺りで赤い霧になっている。

 霧で視界は良くないが完全に見えないという事でもない。

 彼方此方からゴボゴボブチュチュ、と沼から気泡が上がり弾ける音がする。

 煤けた黄色い地面を踏みしめるとパキパキと音がする。硬くて脆いパイ生地を踏んでいるようだ。苔のようなものなのだろうか。

 地面を見るとフリルの布のような物質が、何重にも折り重なるように敷き詰められている。その植物なのかなんなのかも分からない堅いフリル(※14)は踏んだだけで簡単に割れ砕ける。そして、その砕けた物質の下の地面は柔らかくぬかるんでいる感触がある。

「翼果さんはいない。全員気を引き締めろ」

 米倉の言葉に、全員が最大級で周囲を警戒する。

 確かに黄泉森で翼果がいないという状況はひとつ間違えれば死に直結する。

 氷の音がする方角を確かめながら、同時に周囲への警戒もするという状況が、一衛の神経をすり減らしていく。湿度と緊張で額にじっとりと汗が浮かぶ。


 一歩一歩進む度に、氷の音が少しずつ大きくなっている。

 いつの間にか両サイドに沼が見えていた。

 乳白色に濁った沼から気泡がゴボリと上がっている。

 弾ける泡の様子から沼の水が粘性を帯びているのが分かる。

 沼の所々からどどめ色の宝石サンゴに似た、葉のない赤茶色の樹(※15)が突き出ており、その枝が空を覆っていた。その樹に寄生するように絡みついた管状生物(※16)が赤い霧を吐き出している。

 まるですべてが毒で腐っているかのようなエリアだ。

 ねっとりと纏わりつくような空気の中で、清涼感を体現した氷のカラカラした音がしているのが奇妙だった。

 一衛にはハッキリと聞こえているのに、他の誰にも聞こえていないのも現実感が無い。


 進むにつれ陸地の幅が狭まっていき、両サイドの沼が近づいてくる。

「グレーヌ、どうだ?」

「だいぶ近いですが、もう少し奥だと思います」

 翼果は沼に危険があると言っていたが、今のところ何か脅威がある気配もない。

 しかし、それが逆に不気味だった。

「静かすぎて嫌な感じだ」犬山が一衛の心象を代弁した。

「そっすね、なんかに見張られてるみてえだ」

 犬山と笹村は水面の変化を見逃すまいと目を凝らしていた。たまに水面が波立ち、それが水中に何かがいる事を告げていた。水面に微かな動きがある度、武器を持つ手に力が入る。

 我々の後方で野球ボール大の球体が二つ、音も無く水面に並んで浮かんでくる。

 それは何かの目玉だった。

 その目玉は一行を視認すると、誰かに気づかれる前に静かに水中に消えていった。


 急に一衛の足が止まる。

「どうした」

「行き止まりです」

 米倉が見ると一衛の前にもう陸が無く、沼が広がっていた。

 沼に入るなという翼果の忠告が頭をよぎる。ここまでなのか。

「くっ……」米倉は悔しさで下唇を噛んだ。

「副長、多分あそこです」

 一衛の示す先に小さな島のような陸地が沼の中に見えていた。

「距離にして三十メートル無いくらいです。そんなに遠くない。ロープを命綱に泳いで行きましょうか」

「ダメだ。翼果さんが入るなと言ったんだ、沼に入るとおそらく生きて出られない」

 米倉と一衛は何か手はないかと、周囲を見回す。

 沼の中に生えた気味の悪い樹が一衛の目に留まる。

「あの樹を伝って上から行けないでしょうか」

「あの枝を伝うのか? しかしあの枝、かなり高い上に島の真上までは伸びてないぞ」

「うーん……。ロープを枝に引っ掻ければターザンみたいに行けないですかね?」

「なるほど、しかしまずあの頼りない細い枝が丈夫かどうかだな」

 米倉がロープをグルグルと振り回し投げて、枝に引っ掛ける。思い切りロープを引っ張る。意外にも枝はビクともしなかった。見た目よりかなり丈夫な枝だ。

「いけそうだ。犬山、このロープを掴んでてくれ」

 犬山は笹村に周囲の警戒を頼むとロープを掴む。

 一衛が沼に足がつかない高さまでロープをよじ登った。

「よし、犬山、ロープを島まで届くように思い切り揺らせ。グレーヌは島についてもロープを手放すなよ、こっちに戻れなくなる」

「了解です」


「行くぞ一衛、しっかり掴まってな」

 犬山は両手で握ったロープを持って後ろに下がる。

 一衛はロープを離してしまわないように腕に絡ませた。


 ヌオオオオリャアアアアァ—————!


 犬山が前に走りながら渾身の力でロープを前に投げ放した。

 一衛は実に暴力的な速度で飛ばされていく。

 犬山の力が想像以上に人間離れしていることを実感した。

 振り子運動で飛んでいくロープが丁度、中央付近を通り過ぎた瞬間だった。

 巨大な何かが沼の中から飛び出した。

 牙が不揃いに並んだ四つに割れた巨大な口が、一衛が通り過ぎたすぐ後ろの宙を噛む。

 島の上までいったところで、一衛はロープを堅く握っていた力を緩めて島に着地した。

 一衛はすぐに沼の方へ振り返ったが、怪物は既に水中に姿を消していた。

 水面には泡立った波が立っている。

 全く予想していなかった脅威に一衛の頭の処理が追いつかない。

「なんだぁ、今のは!」笹村が声を上げる。

「なにか潜んでるとは思ってたが、とんでもないものがいるな」怪物を目の当たりにした犬山が冷や汗を流しながら、恐怖を紛らわせる為の笑顔を作った。


 皆が今の怪物に気を取られていたその背後で、ナメクジの目のように伸びる目玉が水面から突き出していた。

 シュパッと水と風を切るような音がする。

 足を何かに掴まれる感触に笹村は自分の足を見た。

 てらてらと濡れた白い太い紐が足首に絡みついている。

 紐は沼から伸びていて、巨大ガエルの口の中に繋がっていた。

 つまりこの紐はカエルの―――。

「舌!?」

 足を強く引っ張られて、笹村が横倒しになる。

 慌てて両手で地面を掴むが、脆いパイ生地苔がバキバキと割れて踏ん張りがきかない。沼にずるずると引きずられていく。

「ぐっ……! やべえ……」

 後ろの異変を察知した米倉は笹村に向かって走り、ダイブするように飛んだ。

 両手で持ったナイフをカエルの舌に突き立てる。

 舌が切り離された。その反動でカエルが後ろにボシャンと沈んだ。

「助かった、副長」そう言いながら笹村は足首に巻き付いた舌を外す。

 沼から複数の目玉が潜望鏡のように次々と現れた。

「犬山ァ!」

 米倉の叫びと同時に、犬山の腕に舌が絡みついた。

「わかってるぜ!」

 そう言って犬山は舌を掴み、カエルを沼から引っ張り上げる。

 沼から引きずり出された蛙の姿が露わになる。

 目はナメクジのように突き出ており、カエルの顔にナマズの髭、胴体についた前足まではカエルのようだったが後ろ足が無く、代わりに二股に分かれた長い尻尾がついていた。

 犬山によって陸地に叩きつけられたナメクジガエル(※17)がビチビチャと跳ねている。

「全員背合わせで固まれ!」

 米倉の号令に犬山と笹村が米倉の背後についた。

 沼から無数のナメクジの目が三人を取り囲んでいる。



 対岸が騒がしくなっている。急いだほうが良さそうだ。

 一衛は意識を音に集中する。

 近い。おそらくこの小島の中心辺りだ。

 一衛はロープ端についた杭を地面に突き刺して、島の中央に小走りで向かった。

 小島の中心が赤い泡の塊のような物体に囲まれている。

 周囲に生えている樹の苗木なのか、形状がよく似た枝が鹿の角のように枝分かれ、赤い泡の塊の中から生えていた。

 確実にこの泡の向こう側から例の音が聞こえてくる。

 気持ちが悪いが、泡に触れない訳にもいかない。

 思い切って泡に触れてみると、意外にも赤い泡はカチカチに固まっていた。

 一衛は枝に手をかけて泡の上を一気に乗り越えた。

 泡の向こう側には、小さな池サイズの泥溜まりがあった。

 そこに半透明の美しい花(※18)が数本、汚泥の中から生えている。

 花の中心から薄桃色の粒子が立ち昇るようにチラチラと光って浮遊していた。

 花は風も無いのにゆらゆらと揺れながら、氷がグラスに当たるような音を奏でていた。

 一衛はその風景に心を奪われ、一瞬見とれてしまっていた。

 が、すぐに我に返る。見とれている場合じゃない。

 ナイフを手に一番近い花を採集し、袋に入れる。



 伸びてくる舌を笹村がスタンバトンで叩き落とす。

「ナイフを使え! 複数に掴まれたら厄介だ!」

 米倉の言葉に二人ともナイフを抜く。

 笹村が腕に絡みついた舌をナイフで切り離す。

 すぐさま別の舌がナイフを持つ手首に絡みついた。

「うぜえ!」

 笹村はナイフを手放して、落ちるナイフを逆の手で受け取って舌を切りつける。

 米倉の足に二本の舌が絡まり、強烈な力で引っ張られ、仰向けに倒された。

 数メートル引きずられる。

 米倉が腹筋の力で上半身を起こし、そのままの勢いで、両手で握ったナイフを舌に突き刺した。

 犬山は手首に絡んだ舌を引っ張り、それをナイフでぶった斬る。

「どうする姉御! 陸地が広いところまで後退するか!?」

 ここで退けば、戻ってきた一衛にカエル共の攻撃が集中するかもしれない。

 だが、我々三人は確実に助かる。判断を迷っている時間は無い。

「お前ら二人は退いてもいいぞ」

 そう言って米倉は立ち上がって笑顔を作った。

「そんなこと言われて退けるかよ」

 犬山はそう言い返した。

 笹村もこれくらいの攻撃で済んでいるなら凌げるだろう、と声に出さずに犬山に同意した。


 ふと、妙な気配に笹村が振り返る。

 いつの間に近づいたのか、ナメクジ蛙の一匹が、笹村のすぐ傍にいた。

 そいつはえびぞりの姿勢で二本の尾を空に立てていた。

 おそらくさっき犬山によって地面に叩きつけられた奴だ。

 ナメクジガエルが二本の尾の先を笹村に向ける。

 嫌な予感がした。黄泉森の生き物が得体の知れない動きをした時は、必ず何かある。こいつらは無意味な行動はしない。

 笹村は咄嗟に向けられた尾の先から身体を反らしながら盾を構えた。

 尾の先から射出された棘が、笹村の盾に突き刺さって貫通した。


 これはヤバい。


 笹村はナメクジガエルを沼まで蹴り飛ばした。

「副長! 旦那! こいつらを近づかせるとまずい!」

 数匹が陸に這い上がってきている。



 一衛は沼の前で立ち止まっていた。

 さっきの化け物をどうするか、来るときは犬山の力のお陰で、ロープに速度があったから助かったが、帰りは自力でロープを揺らさないといけない。

 しかも前もってロープの上に登れない以上、水面ギリギリを移動することになる。

 どうするどうするどうする、どうする……!。

 いや、考えていてもしょうがない。

 こういう時は勢いで一気に行く。

 できるできないじゃない、やるだけだ。

 未来を想像するな。結果を決めるのは、自分じゃない!

 ロープを持って行けるところまで下がる。

 大きく深呼吸してから、沼に向かって全力で走り始めた。

 沼際ギリギリを踏切に高く前に跳ぶ。

 なるべくロープの高い位置を掴み、ロープの揺れに合わせて足を前に出して勢いをつけた。

 水面が盛り上がる。

 白濁した水の中に薄っすらと赤い怪物の口が見え始める。

 凶悪な牙がある四枚の肉厚な花弁が、水飛沫をあげて飛び出した。

 一か八か、一衛はロープから手を離し、飛ぶ。

 真っ赤な巨大な花が、一衛を掠めるように水上で閉じた。

 そして、ジャンプの後の鯨のように水面に横倒しになって、派手な水飛沫を上げた。


 かわせた!


 対岸の水際に着地する。そのまま転げながら急ぎ、陸地に上がり立ち上がる。

 前を向いた先でナメクジガエルに取り囲まれている三人が見えた。

 数十匹のナメクジガエルが尾を高く立ててゆらゆらと揺らしている。

 戻ってきた一衛の姿が米倉の視界に入った。

「グレーヌ走れ! そいつらに構うな!」

 米倉の腰と腕に舌が絡みつく。奴らの尾の先が米倉に狙いを定めた。

 棘の射出寸前のカエルを犬山が蹴り飛ばした。

 同時に笹村が米倉の腰の舌を切り落とす。

 状況が悪いことを察した一衛がすぐに走り出した。

 その瞬間、背後で水飛沫が派手に上がる音がする。

 足を止めずに振り返ると、あの怪物(※19)が陸に半身を乗り上げていた。

 先端が尖り膨らんだ赤黒い筆のような形状の頭には、目も鼻も無い。

 口だけの頭部にピンク色の太ったセイウチのような身体がついていた。

 この場に研究員の誰かがいれば、アシカやセイウチなどの海生哺乳類、鰭脚類ききゃくるいだ、と言うだろう。

 ドシャバシャと水音を立てながら、怪物が身体を縦にくねらせながら上陸してくる。

 一衛は怪物を見もせず、走る速度をあげて、途中にいるナメクジガエルをついでに蹴り飛ばした。


 怪物が身体を大きく跳ね上げ、十数メートルはある巨体が宙を舞った。


 一衛を飛び越して目の前に落下する。

 その巨体が落下した衝撃に驚き、周囲にいたナメクジガエルが一斉に沼の中へ逃げ出していった。

 怪物がアシカに似たヒレ状の前足で身体を起こし、口を開いて見せて一衛を見下ろした。開いた口は、真っ赤な肉の花のようだ。

 ヒレになっている後ろ脚には無数の針が飛び出しており、前脚ヒレにも鋭い爪がついている。

 行く手を阻まれた一衛がナイフを抜いて構える。

 最悪だ。


「お前らはエリア外まで走れ!」

 そう言って米倉はナイフを構えた。

「何言ってんです! 副長も逃げてください! 森で自分の命最優先なのは基本でしょう!」

 笹村が叫ぶように米倉に意見した。

 犬山が米倉に並ぶ。

「付き合うぜアネゴ、俺はあんたのそういうところが嫌いじゃねえ」

「ああー、もう!」

 二人の隣に笹村も並んだ。

 米倉は後ろからナイフを突き立てようと狙う。

 だが、怪物の尾ビレが常に大きく動いていて隙が無い。

 口の向きは、常に一衛の細かな動きを捕らえており、ターゲットが外れる様子はない。


 怪物の口から粘液がダラダラと流れ落ちる。

 呼吸が乱れている、整えろ。

 一衛、優先事項を考えろ、何のためにここにいる。

 花だ、それを取りに来た。

 何のためだ、渡す為だ。

 ……あとは、身体を動かせ、一衛!

 一衛は自分にそう言い聞かせて、じりじりと後退る。

 少し距離を取ると怪物から目を離さずに、ナイフに花が入った袋の紐を括り付けた。

 呼吸をもう一度整え、息を止める。


 パンッ、と弾けた様に一衛は前に走り始めた。

 怪物が一衛めがけて噛みつきに来る。その動きを読んで一衛が真横に、直角に跳んだ。

 空中で袋がついたナイフを米倉たち目掛けて投げる。

 ナイフは怪物の横をすり抜け、米倉の後ろの地面に突き刺さった。

 そのまま一衛は沼にバシャリと落ちる。水際だからか、水深は浅い。

 ナイフの袋の中身に気付いた米倉が笹村に向かって言った。

「笹村! その袋を持って外まで走れ!」

 それを聞いた笹村が袋を拾い上げて、翼果が待つエリアに向かって走った。

 怪物は、一衛が落ちた沼地に頭を向けて方向転換する。

 一衛がすぐに立ち上がろうとついた手が、ずぶずぶと肩まで沈む。


 底なし沼だ。


 怪物の巨大な口が一衛の前で開く。

 無駄だと知りながら一衛はスタンバトンを腰から抜いて怪物に向けた。


 ドリャァアアアアアア!


 叫び声と共に米倉と犬山が、怪物の横腹にナイフを突き刺さる。

 刺された箇所を中心に怪物の身体がくの字に曲がり、キューッ、とまるで似合わない小動物が発するような声を上げた。

「犬山! グレーヌを引っ張り上げろ!」

 犬山がナイフを抜いて、一衛の方へ滑り込んで手を伸ばした。

 一衛がその手を掴む。

 米倉は刺さったナイフを捻って横にスライドさせる。

 傷から血を吹き出しながら怪物が横に転がり回った。

 米倉はナイフを振って刃についた血を飛ばした。

 犬山が全力で一衛の腕を引っ張る。少しずつ沼から抜けていく。


 怪物が開けていた口を閉じて、尖った口の先端を米倉に向ける。

 怪物の首元の筋肉が異様に盛り上がっていた。

 直感的に米倉は距離を取ろうと大きくバックステップする。


 その瞬間、怪物の頭が深く地面に突き刺さっていた。


 遅れて衝撃波が周囲に巻き起こる。

 速過ぎる――。

 米倉には怪物がいつ突っ込んできたのかも分からなかった。

 躱せたのは偶然だ。

 怪物は地面に深く刺さった頭を抜くのに身体をバタつかせ、手間取っている。

 米倉はナイフを後ろ腰のケースに仕舞うと、一衛たちの元に走り込んできて犬山と共に一衛を引っ張った。

 じりじりと一衛の身体が沼から抜けていく。

 もう少し、もう少しで抜ける――!

 グキュー、と鳴き声を出して怪物が抜き取れた頭の泥を、頭を振りながら払っていた。

 はやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく!

 怪物が地面から抜けた頭をゆっくりと一衛たちに向けて、四股に裂けた口を開く。

 身体が一気に軽くなる。

 そのまま犬山と米倉の力で一衛の身体は宙に放り出されていた。

 急に流れた景色の中、一衛の視界の端を巨大な影が横切った。

 陸地に落下してすぐに顔を上げると、さっきまで自分がいた場所に怪物が頭を突っ込んでいるのが見えた。


「撤退!」


 米倉の声に全員はじけ飛んだように走り出した。

 全力で走る中、一衛は違和感を覚えた。

 追ってきていない……? 背後から気配もしなければ音もしないのだ。

 諦めてくれたか?

「振り返るな! 走り続けろ!」

 米倉の声に一衛は止まらず走り続けた。

 左横に見える沼の水面がゆらりと揺れて、巨大な影が走る一衛たちを追い越していく。

 それを横目で目視した犬山が走りながら叫ぶ。

「右だ! 右に寄れ!」

 斜め右に向かって軌道修正しながら走り続ける。

 ドンッ、と音を立てて左前方の沼から水飛沫が上がった。

 飛沫の中から怪物が飛び出した。パイ生地状地面をパキメキと潰しながら滑り、頭をこちらに向ける。

 再び、怪物が一衛たちの前に立ち塞がる。

 だが、陸地の幅がさっきよりも断然広い。

「このまま右を抜けるぞ!」米倉が叫ぶ。

 怪物が口を閉じ、こちらに先端を向ける。

 あの体勢はマズい!

 なるべく距離を! 

 米倉が声を張り上げる。

「もっと右に行け! もっとだ!」

 もう怪物の真横に近い。

 怪物の首元の筋肉が盛り上がる。

 米倉は走りながら絶望感で、自分の血の気が引くのが分かった。


 突然、怪物の口が開き、悶えるような動きを見せた。

 何が!?



「もうちょい左です」

 茂みの中で笹村が単眼鏡を覗きながら言った。

 その横で翼果が弓を引いている。

 腕についた弓の金具が腕から外され、手持ちの弓になっていた。

 それだけではなく、弓の金具は左右に変形展開しており、弦も張り替えられてロングボウ仕様になっている。矢も二本を縦に組み合わせた長いものになっていた。

 キリキリと引き絞られた矢が放たれ、怪物の首元に突き刺さった。



 何が起きているか米倉たちには分からなかったが、ともかくこの機を逃すまいと全力で走り抜ける。

 追加の矢が頭部付近に連続で刺さり、怪物は嫌がりながら頭を激しく振っていた。

 三人は沼地帯を抜けて、翼果たちが待つエリアの茂みの中に飛び込んだ。

 シダの茂みを折り潰しながら転がる。

 三人とも寝っ転がったまま、ヒーヒューとした浅い呼吸で空気を貪っていた。

 心臓の鼓動が破裂しそうなほどの早さで動いている。

「た、た……すかった…ハッ、ハァッ」

 一衛は拝んだこともない神に心から感謝した。

 犬山は言葉もなく大の字で呼吸を整えている。

 米倉は呼吸を整えながら正座をして手を合わせた。


 ガサリと茂みが動き、米倉が咄嗟にトンファーを構える。

 一衛と犬山は動く気力なくそちらを見た。

「おかえり、みんな」

 茂みの中から翼果と笹村が現れ、安堵した顔で米倉はトンファーを下ろした。

 翼果の手には大弓が握られている。

「やっぱり翼果さんが助けてくれたんですね、ありがとうございます」

 米倉は深々と翼果に頭を下げた。

「米倉、礼を言うのはわたしの方だよ。ともかく、みんなが無事で良かった」

 翼果がお辞儀する米倉の頭にポンと手を置いて笑った。


「それで、どうなんだよ、肝心の例の花は」

 犬山が上半身を起こして呼吸を整えながら言った。

「そうだ、かなり乱暴に扱っちゃったので自分も心配です」

 一衛が申し訳なさそうに確認を促した。

 笹村が手にしていた袋を地面に置いて、その口を広げた。

 薄桃色に光る粒子が袋からホワッ、と立ち昇った。

 笹村が袋から慎重な手つきで花を取り出す。花の形は崩れておらず、茎も折れていない。思ったより丈夫な花だ。

「これは……」米倉が目を見開いてその花を見た。

「きれいな花じゃねーか」犬山が額の汗をスーツ内で拭いながら言った。

 反応が気になって皆は翼果の顔を見る。

 翼果は目を細めて花を見つめていた。

「ああ……これだ。目にするのは何十年振りだろう」

 笹村から花を手渡され、翼果は大事そうに両手で受け取った。

「翼果さん、何故お母さまがこの花が好きだったか、聞いたことはありますか?」

 米倉が翼果に尋ねた。

「そういえば、なんでだろうな。ん? 米倉には心当たりでもあるのか?」

「心当たりがあるわけではありませんが、実は、この花にそっくりな花が外界にもあるんです」

「そうなのか? それはどんな花なんだ?」

 翼果は指で挟んだ茎を軸に、指を擦り合わせるような動きで花をくるくると回した。

「その花の名は蓮といって、泥の中から出て美しく咲く花なんです」

「泥の中の花か……」

「この花も毒池の中に咲いてたんですよ」一衛が自分の見たもの報告も兼ねて言った。

「じゃあ、その蓮って花に、これは本当に似てるんだな」

「ええ、それにその花は五十回忌にとても相応しい花だと思います」

「そうなのか?。よくは分からないけど、米倉が言うならそうなんだな」

「はい」

 翼果は少し物思いにふけったような顔をした。


 一通り話した米倉が、急にガード連中の方を向き、畏まったように姿勢を正した。

「それから、みんな、すまなかった。この花を取りに行った判断は完全にアタシの独断で、副隊長にあるまじき判断だった。この件は上に報告して――」

「何言ってんすか、何も問題なかったっすよ」米倉の話を笹村が遮って喋り始めた。

「い、いや、皆の命を危険にさらしたし、全滅してもおかしくなかった」

「アネゴ、皆生きてっし、誰も文句もねえんだからいいでしょ。なぁ」

「え? まあ、そうですね。自分も何も問題ないです」

 急に話を振られて、一衛は、なんとなく空気を読んだ回答をした。

「つーわけで、なんも無かったって事で。その花も途中で見つけたことにしましょう」

 米倉が困った顔を翼果を向けたが、彼女はニコニコした顔で手にした花を見ていて、米倉の視線には気づいていないようだった。

 そんな翼果の様子に、これで良かったのか、という気持ちになった。

「そうか、皆がそういうなら、今回の事は忘れることにする」

「そんなことより副長、お願いだから少し休ませてくださいよ」

「俺もすぐは歩けそうもねえ」

「わかった、少しここで休憩だ」

 米倉は心の中で、良い仲間に恵まれた事に感謝した。


 あの……、と一衛が口を開く。

「その花、揺らすと音がするんですけど、カランカランッて、みんなホントに聞こえないんですか?」

 一衛がそう言うのを聞いて翼果が軽く花を揺らす。薄桃色の粒子が舞った。

「なんも聞こえねえぞ」

「俺にもまったく聞こえねえわ」

 米倉も首を横に振った。

 一衛が翼果を見た。

「わたしにも聞こえないよ。ただ……、母にはその音が聞こえていたんだ。新人くんも母と同じ音が聞こえるんだな」

 どういうことなのだろう。

 自分にしか聞こえないのなら幻聴かもしれないとも思ったが、翼果の母、あの遺体の女性にもこの音が聞こえていた?

 何故自分にも聞こえるんだ?

 しかし、今考えても答えは出なそうだ。

「新人くん、君がいなければこの花を見つけられなかった。ありがとう」

「い、いえ、たまたま聞こえただけですし、自分だけではどうしようもありませんでしたから」正面きって礼を言われるとなんだか照れくさくて、一衛は翼果から目を逸らしながら答えた。

「なるほど! 確かにそうだ! じゃあキミの力じゃないな」

「え? そ、そうですね……あ、あれ?」

 一衛はそう返ってくると思わず、翼果を見ると、いたずらっ子みたいな顔で笑っていた。

「うそうそ、冗談だよ」

 ひとしきり楽しそうに笑った後、翼果は微笑んだ顔で皆の顔を見回した。

「でも本当にみんなのお陰だ、本当にありがとう」

 翼果の感謝の言葉に、皆それぞれが嬉しくも照れくさい顔を浮かべた。


「さて、充分休んだな。もう二か所の予定だったが、時間的にはあと一か所が限界だ。籠を回収して次行くぞ」

 そう言って立ち上がった米倉に、皆が現実に引き戻されてげんなりした顔をした。

「マジかよ、副長」

「完全に今日はこれで帰る流れだったっすよね」

「ほんとに変にクソ真面目だからな、アネゴは」

 よれよれしながら、皆、米倉について歩く。


「あっ、そうだ」

 一衛の後ろ、最後尾を歩く翼果が思い出した、というような声を出す。

 一衛が振り返ると翼果は自分の方を向いている。

「新人くん、キミの名前をちゃんと聞いてなかったな」

「あっ、そういえばそうですね。一衛です、一衛グレーヌっていいます」

「一衛か、わかった。わたしは藤崎翼果だ。よろしくな、一衛」

 今更過ぎる自己紹介に一衛は噴き出した。

「なんだ? なんか変だったか?」

 笑っている一衛を見て、翼果はキョトンとした顔になった。

「とっくに知ってますよ、藤崎翼果さん」

「確かに今更だったな」

 翼果は屈託のない笑顔でそう言った。

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