第2章 五十回忌 五話 花収集特別班 前編

 地平からせり上がる橙色が藍色の空を押し上げ、合間に淡い青空をつくり出していた。まだ景色にコントラストはないが、じきに差し込む光と長く伸びた影が出現するだろう。要は夜明け直前といったところだ。

 そんな時間帯に一衛たちはフラワーショップふじさきの前にいた。

 五十回忌の花収集特別班のメンバーは一衛、笹村、犬山、米倉だ。

 研究員がいないのは花の収集に不要だからだ。

 収集に必要なことは翼果が教えてくれるのだろう。

 各自、集めた花を入れるための蓋つきの背負い籠を持たされていた。


「なんでこんな早い時間なんだ」

 笹村が小型の盾を腕に装着しながら、ボソリと愚痴った。

 今回は全員腕に装着するタイプの小型の盾になっている。

「この小型盾いいですね、荷物減るし。両腕に付けてもいいかも」

「まあ、楽だけどな。エリアによっては大盾の方が向いてることもあるから一長一短だわな」

 笹村がそう答えたタイミングで、犬山がガチンと音を立てて自身の両拳を突き合せた。犬山はスタンバトンの代わりに金属製のナックルガードをつけている。

「そんな装備もあるんですか?」

「あん? ああこれか。俺用に新調してもらった。黄泉森フィールドワーク組に入って一年以上生き延びられれば、お前も自分用の装備を作ってもらえると思うぜ。米倉の姐御もトンファーだしな」

 少し離れた場所でストレッチしている米倉の腰には、確かにトンファーが差さっていた。

「ほんとだ。あれ? 笹村さんは通常スタンバトンなんですね」

「俺はなんだかんだで、こいつが一番使い易くてな」


 光の矢が廃墟の隙間から放射され始め、夜に冷えた空気をじんわりと温めていく。不意に訪れた眩さに一衛は目を細めた。太陽が周囲全てを照らし、同時に濃い影をつくり出す。

「全員整列!」

 米倉の号令が響き渡り、樹の中に潜んでいた小鳥の一団がその声に驚いて一斉に飛び去る。軍隊やヤクザ社会の厳しい戒律で生きてきた三名は、米倉の号令につい反射的に従って整列する。


「よし、本日の五十回忌式典用白い花収集ミッションだが、効率的に行い一日で済ませることを目標とする。数日前に各自に送った、翼果さんと柿崎が作ったルートは全員頭に入ってるな。各種花の採取方法については翼果さんがその都度説明されるとのことだ。その際は、耳の穴をかっぽじって一語一句聞き逃すな。くれぐれも今日のミッションで翼果さんのご負担を増やすようなことの無いように。では各自、休めの姿勢で翼果さんを待つ。休め!」

 全員足を開き、手を後ろに回し組む。命令した米倉も皆の前で、休みの姿勢のまま微動だにしていない。


「え? 何これ」笹村が小声で言う。

「なんか随分気合入ってますけど、副長っていつもあんな感じなんですか?」

「いや、そんなこたぁねえ。いつも淡々としたタイプだ」

 一衛の潜めた声の質問に犬山が顔を正面に向けたまま、やはり小声で答えた。

「何かあったんですかね?」

「多分な。大体夜明け前集合ってのが尋常じゃねえ」

 ひそひそと話す我々に、米倉が無言の圧力を向ける。

 小鳥がさえずるのどかな夜明けの中、謎の緊張感が一衛たちの周辺だけを支配していた。




 ガチャリと音を立てて店の二階の両開き窓が開く。

 窓枠の下に白い腕が横たえるように置かれ、寝癖がついた翼果が寝ぼけた顔を覗かせた。

 猫のようにクァアア、と欠伸をして、ぼーっと朝日を眺めている。

 やがて何の気なく視線を店の前で整列している我々に向けた。

「わっ! なんだ!?」

 驚いた顔で翼果は目をぱちくりさせた。

 部屋の中に翼果が顔をひっこめると、パタパタと下に降りてくる足音が聞こえる。シャッターが勢いよく上に開いて、つっかけに寝巻き姿の翼果が外に出てきた。

 ヒマワリ柄のオレンジ色の寝巻きが可愛らしい。

「どうしたんだ? こんなに早い時間に」

「おはようございます。我々いつでも出発できますので、いつでもお声掛けください」

 軍人然とした態度で挨拶をする米倉に、翼果は唖然として口をぽかんと開けていた。そしてすぐに我に返って、両手の平をこちらに見せるように何度も前に出した。

「ちょちょっ、ちょっと待って! 花の水やりとかもあるから、と、ともかく楽にして待ってて」

 そう言って翼果は踵を返すと店の中に戻っていった。


 「副長、これ、逆に迷惑だったのでは……」そう言った笹村に米倉が、殺気のこもった眼光を飛ばす。

 「な、なんでもないです」と笹村は目を逸らした。



 翼果は店の花の水やりを急いで終わらせて、森探索用の恰好で外に出てきた。

 先ほどと全く同じ姿勢を保っている我々を訝しんだ顔で見る。

「それで、これはいったい何事なんだ」

「やはり、日頃から我々は、翼果さんに甘え過ぎていると常に感じておりまして、此度の五十回忌は、翼果さんに日頃の恩をお返しする数少ない貴重な機会だと思いましたので、式典を一任されているアタシとしては、今回の花収集ミッションでは翼果さんには楽をして頂き、翼果さんの手足となって動こうと考えております」

 翼果は目を見開いて驚いた表情をした後、大笑いし始めた。

「アハハハ、ありがとう。米倉はホントにいい奴だな。でもわたしは本当に何も気にしてないし、いつも自分の思うままに楽しくやってるだけだから、みんなもいつも通り気楽にね」

「し、しかし———」

「ホラホラ肩の力抜いて、みんなも戸惑ってるだろ。リラックスしてないと本領も発揮できないよ」そう言って米倉の肩を両手でポンポンと叩いた。

「……そうですね、ありがとうございます翼果さん」

 本当にありがとう、と直立不動のガード三名は心から翼果に感謝した。

「よし! わたしと健介でだいぶ安全なルートを作ったからね、みんな気楽に行こう!」

 輝く朝日に照らされて、翼果は元気いっぱいに拳を高々と空に突きあげた。




「ぎゃあああああああああああああああ!」

 笹村が悲鳴を上げながら森の中を駆け抜けていく。

 全長八メートルはある鼻先が長く尖ったオオトカゲ(※6)が巨体を揺らしながら笹村を追いかけている。

 笹村が逃げる先に犬山が仁王立ちで待ち構えていた。

 犬山を通り過ぎて笹村が走ってゆく。

 犬山は大きく振りかぶり、迫りくるトカゲの鼻先を思い切りぶん殴った。

 その突き出たオオトカゲの鼻先は感覚器になっており、衝撃を受けて首を激しく振る。

 暴れまわるオオトカゲの背中にひょいと翼果が飛び乗ると、トカゲの両耳の後ろを軽く手刀で叩いた。

 トカゲはグルンと白目を剥いてその場に崩れ落ちる。

「ごめんな」と言って翼果は気絶したトカゲの頭をポンポンと優しく叩き、その背から降りると手信号を送る。

 手信号を受けて一衛と米倉が茂みから出てきた。

「これでこの道が通れますね」

 さっきまでオオトカゲが陣取っていた、岩場の短いトンネルを見ながら一衛が言った。

「ったく、人使い荒いんだよ」とぶつくさ言いながら笹村が戻ってくる。

「いやぁ、いい囮っぷりだったぜ」犬山が戻ってきた笹村の背中を叩いて称える。

「ナイス囮!」翼果のサムズアップに続いて一衛と米倉もサムズアップした。

「ナイス囮!」「ナイス囮!」

「なんか納得いかねえ」笹村はすくれた表情で言った。



 短いトンネルを抜けると、百合に似た白い花を大量につけた大樹(※7)が一本だけ、中央に生えているエリアに出た。

 一面が黄色いキノコ(※8)で埋め尽くされている中、白い花が満開になった大樹が良く映えていて美しい。だが、所々に動物の死骸があり、中には白骨化したものもある。そして、蠅のような羽虫が多い。

「なんか、きれいですけど、不気味さもありますね」一衛が樹を見上げる。

「動物があちこちで死んでいるのはなんなんだ」笹村が気味悪そうに辺りを見回した。

「この黄色いキノコに毒があってね、動物がこれ食べてよく死んでるんだよ」

 翼果が良くあることだよ、とでもいうように軽いトーンで説明した。

 犬山が鬱陶しそうに蠅を手で払っているその奥で、米倉が動物の遺体に手を合わせていた。

 なんとなくだが、米倉という人物の人となりがわかってきた気がする。この人、見た目と違ってかなり真面目だ。


「さて、まずはこの樹の花だね」そう言って翼果が高く飛び上がり、大樹の枝に乗る。

「とりあえず米倉も上に登ろうか」

 翼果は腰につけていたワイヤーロープを、樹に括り付けて下に垂らした。

 ロープの両端には金属の杭がついており、地面についた杭の金具がカチャリと音を立てた。

 米倉がそのロープを伝って翼果と同じ高さまで登る。

 二階よりは高く感じる。

 この高さをジャンプひとつで上がれる翼果に、米倉は改めて感心する。


「米倉、この花がついた枝の根元をね、反時計に捩じると簡単に取れるから、この辺の花を取ってくれ。わたしはもう少し上で取るから。それと蕾と小さい花は取らないでね」

「わかりました」

「下のみんなは、わたしたちが落とした花を籠でキャッチして欲しいんだ。この花は下のキノコに触れるとすぐに枯れちゃうから落とさないようにね」

「りょーかいでーす!」笹村が上に手を振って答えた。



 二人によって摘まれた白い花が、逆さになってクルクルと回りながら落下してくる。それを両手で抱えた籠で受ける。

 次々と回りながら花が落下してくる様が幻想的だ。と、同時に花を受ける為に、身体がでかい男共が籠を抱えて右往左往しているのが、なんだか滑稽でもあった。

 特に犬山は、その巨体で小さな花に翻弄されてドタドタしている様が不器用な巨人のようだ。

 花のひとつが、一衛の籠の縁に当たって地面に落ちる。地面のキノコに接触した白い花は聞いていた通り、みるみる内に枯れ萎んだ。

「あんま落とすなよ」そう言った笹村の頭の上に、小さな帽子のように花が載っている。

「頭に載ってますよ」

「え? マジ?」

 笹村が花を取ろうと頭の上に手を伸ばすが、落ちてくる花も同時に受けなければならず、結局頭の上の花は地べたに落ちた。


「そういえば、ミーティングの時に訓練生の話ありましたよね」

「ああー? それがどうしたぁ?」笹村は一衛に答えながら、絶え間なく落ちてくる花をアクロバティックな体勢で受ける。

「なんで自分は訓練も無しで、いきなり黄泉森入りだったのかと」

「あー、それな、お前の経歴聞いたけどよ、お前みたいな元軍にいたようなヤツには、そんなに意味のない訓練だからだな」

「そうなんですか」

「元囚人向けの基礎的なことが殆どだし、森に入りたいけど自信が無いっていう研究者も訓練に混じってるくらいだからな。それにしても、初日からいきなり森ってのは、聞いたこと無いけどよ」

 落下する花を見逃さないように、上を見ながら会話する笹村の背後から、巨体が突っ込んでくる。キャンッ、と子犬のような声をあげて笹村が跳ね飛ばされた。

「おっ、すまん笹村、見えてなかった」

 犬山が花を追いかけて笹村にぶつかったようだ。

「そろそろ此処は切り上げて次に行こうか」

 手の甲についた時計をみて米倉が「そうですね」と答えて樹から飛び降りた。




 サトウキビのような、背の高い植物が群生しているエリアに来ていた。

 茎は青白く、茎の節目から笹に似た細い葉が生えている。

 一番上で茎が無数に枝分かれしており、その先端のひとつひとつに白い花がついている。小さな花が固まって咲く桜に似てなくもない。

 その見た目通り、キビザクラ(※9)という名前らしい。


「花の下の最初の節のところ、ここをナイフで切ってくれ」そう言って翼果がナイフで実演してくれる。切り口から水がボタボタ流れる。

「こんな風に切ると水が大量に出るので、切った後は切り口を下にして少し置いておいてくれ。そうすればすぐに水は止まるから、水が出なくなってから籠に入れる事。それと採取するのは三本間隔くらいでね」

「よし、説明聞いたな、各自、適度に離れて採取開始しろ」米倉の号令で皆散っていく。


 周囲がまるで見えない。

 サトウキビ畑に入ったことは無いが、実際に入るとこんな感じだろうか。

 彼方此方からガサガサとした音がするのは、皆の採集の音だろう。

「うおっ! 出る出るめっちゃ出るなぁ」笹村の声がする。

 笹村の言う通り、水道のように水が出る。五、六秒で止まるが、茎の下側の切り口側からはしばらくの間水が溢れ出ていた。

「へー、おもしれ―、じょぼじょぼ出るなぁ。副長、この水飲めるんすかねえ?」

「知らん。笹村、何がいるか分からんから黙ってやれ」

 素っ気ない米倉の返事が、笹村とは反対方向から聞こえる。

 へーい、という笹村の気の抜けた声がした。


 犬山が黙々と採集作業をしていると、近くからバキバキと茎を折る音が聞こえる。

 見ると一メートル無いくらいの背丈の熊に似た獣が、茎にかじりついて水を飲んでいた。牛に似たツノがあり、指が熊より長い上に、猫のような長い尾が生えている。ツノグマ(※10)とでも呼ぼうか。

 差して脅威も感じないので、犬山はツノグマを無視して採集を続けることにした。

 コツン、と何かが犬山の後頭部に当たった。

 下を見ると小枝が落ちている。これが後頭部に当たったらしい。

 ポスンと軽い音を立てて、フェイスガードにまた小枝が当たる。

 小枝が飛んできた方を見ると、さっき茎に齧りついていたツノグマが立ち上がった姿勢で犬山を見ていた。

 「あーん?」

 犬山が凄んだ声を出す。犬山自身、野生動物相手にこんな威嚇行動は意味がないのは分かりきっていたが、舐められると反射的にこういう行動をとってしまう生き方をしてきたので、ついやってしまう。

 ケダモノ相手にバカバカしい。

 そう思った犬山はツノグマを無視して作業に戻った。

 しかし、ツノグマは作業する犬山に、何度も小枝や木の実やらを投げつけてくる。

 流石にだんだんムカついてきた。

「なんだ、しつけえな!」

 犬山がツノグマの方に振り返った。

 ツノグマは両前足を地面にドンッ、と何度も突き始める。

 それがなんのアピールかわからないが付き合うつもりのない犬山は、脅かすつもりで両手を高く上げてゴルァアア! とでかい声を出した。

 ビクリと身体を震わせたツノグマは、驚いた様子でキビザクラの森の奥に消えていった。

 いなくなって清々した顔をした犬山は、水切りしていた花を拾い上げて籠に入れた。


 再び収集の為に茎にナイフを当てた時だった。何かがキビをバキバキッ、と派手に折り倒しながら近づいてくる音が聞こえてきた。

「なんだ?」

 なんだか分からないが、この感じはヤバい。犬山の直感がそう告げている。

 採集をやめ、視界が開けた場所に向かって急ぎ走り出した。

 グォオオオ!

 明らかに攻撃的な声を発しながら巨大な何かが近づいてきている。

 キビザクラの茂みを抜けたすぐ後に、黒い巨大な塊が犬山を追って飛び出してきた。

 ツノグマだ。

 たださっきまでいたものより遥かにデカい。

 三メートルくらいはある。口を大きく開けて牙を丸だしに、太い腕を犬山目掛けて振り回してくる。

 犬山は一度食らったら最後になるようなツノグマの連続攻撃を逃げながらかわす。

 一息に繰り出した連撃にツノグマもスタミナが切れたようで、一旦攻撃を止めて四つん這いの姿勢で呼吸を整える。

 犬山も足を止めてツノグマの次の動きに備えた。

 こいつはさっきのツノグマの母熊なのか? いや、今はそんなことはどうでもいい、この状況をどう切り抜けるか。

 ゆっくりと距離を詰めようとするツノグマの、次の動きを予測することに集中する。


 ザッ、とキビザクラの中から何かが飛び出してきた。

 翼果だ。いち早く異変を察知し、キビザクラの茂みから出てきたのだ。

 彼女は滑り込むように犬山とツノグマの間に入った。手にロープの先に付いた杭を握っている。

「そのまま下がれ、直樹」

「すまねえあねさん」犬山はツノグマから目を離さずに後退する。


 ツノグマは翼果を見ると、強敵の存在を感じて全身の毛を逆立てて立ち上がる。

 翼果は持っていた杭を自分の足元に思い切り投げ刺した。

 ツノグマは威嚇のポーズを取るが、警戒して前には出てこない。

 翼果はロープを伸ばしながら、新体操のリボンのように宙を舞わせた。

 ロープの動きに的を絞れずにイラついたのか、ツノグマが翼果に突っ込んでくる。

 それをひらりと舞うように躱しながらツノグマの背後に回り込んだ。

 ツノグマも翼果を見失うまいと振り返りながら、鋭い爪がついた腕を振る。

 が、その攻撃は空を切り続け、翼果は常にツノグマの死角に回り込んでいた。

 気付けばロープが絡みついていっており、ツノグマは殆ど身動きが取れなくなっていた。

 その様を確認した翼果は、ロープの反対側に付いたもう一つの杭も地面に突き刺した。


 完全に拘束されたツノグマだったが、興奮冷めやらずといった感じでロープを身体に食い込ませながら唸っている。

「これは……、何があったんです?」

 物音を聞いて急ぎ戻ってきた米倉が驚いた声を上げた。

 米倉に遅れて、一衛と笹村がほぼ同じタイミングでキビザクラの中から戻ってくる。

「うおっ、なんだこいつは」

「なんか、急にこのクマみたいなのに絡まれてな」犬山が笹村たちの疑問に答えた。

 翼果が腰のポーチから乾燥した枝のようなものを取り出し、その枝を折った。

 折った枝をツノグマの顔の辺りで回すように動かす。

 辺りにふわっとした優しい香りが漂った。

 甘いがキツくない、それでいて清涼感のある落ち着いた香りだ。

 枝をゆるゆる動かす様が、なんだか魔術でも使っている魔女のように見える。

 一衛はその不思議な行為が気になって尋ねた。

「なんですか? それは」

「鎮静剤みたいなもんだよ」

 翼果の言った通り、ツノグマは興奮した荒い呼吸を落ち着かせていった。

「急に襲い掛かってきたんですか?」

 一衛が大人しくなったツノグマに、少しだけ近づいて言った。

「虫の居所が悪かったんじゃねーのか?」

 笹村は一衛とは逆にツノグマから距離を取った。

「うーん、そんな狂暴な奴じゃないんだけどな」

 そう言いながら翼果が地面に刺さった杭を抜いた。


 皆の気が緩んだ時、キビザクラの中からガサリという音がして全員が咄嗟に構えた。キビザクラの中から先程の小さなツノグマが顔を覗かせていた。おそらく子供だろう。

 我々を警戒して茂みから出てくる気配はない。

 キュンキュンと悲しげに鼻を鳴らしてる。

「犬山、お前……」米倉が訝しんだ視線を犬山に向けた。

「ち、ちげえアネゴ! いや、違わねえが、ちょっと鬱陶しかったから脅かしただけだ! 危害は加えてねえ」

「脅かしたぁ? 犬山、アタシ言ったよな。今日は翼果さんの負担にならないようにって」

 米倉の暗い眼光が鈍く光り、身体から怒りのオーラが立ち上っている。

 静かに燃える圧が周囲を震わせ、あの犬山の巨体が委縮して小さく見える。

「も、申し訳ねえ……」

「アタシに謝ってどうする。謝るなら翼果さんにだろうがぁ」

「いーよいーよ、米倉、直樹も悪気があった訳じゃないんだから」

 翼果がケロケロと笑いながらツノグマに絡みついたロープを解いていく。

「いや、あねさん。アネゴが言う通り、こいつぁ、俺の落ち度だ。本来なら指詰めても済まねえ事かもしれねえ」

 犬山はどっかりと座ると、頭を地面につけて翼果に土下座した。

「アハハ、大袈裟だな」

 腕組みをして仁王立ちの米倉に、翼果に土下座する犬山、その前で笑っている翼果。この風景を少し離れた場所で見ていた一衛と笹村は、なにこの状況……と心の中で呟いた。


 ロープがほどけたツノグマは嬉々として我が子の元に駆けていき、二頭はキビザクラの森の奥に消えていった。

「さて、もう少し収集したら次のポイントに向かおうか」

 ロープをまとめながら翼果が言った。




 一衛たちは垂直にそびえる崖に張り付いていた。

 崖の壁面に絡みつく蔦に咲く、白い花(※11)を採集するためだ。

 時折吹く、横殴りの強風に飛ばされないように必死に岩にしがみつく。

 命綱のロープがあるものの、落下して突き出した岩にぶつかり兼ねない。

「柿崎の野郎、わざと過酷なところを選んだんじゃねえだろうな」

 一衛の少し上で笹村が恨み言を漏らしている。

「どんどん落としていいよー」

 崖下から翼果の呑気な声が聞こえてくる。その横で米倉が落ちてきた花を籠にせっせと入れている。

「どんどんって言ったって」

 一衛が白い花に手を伸ばすと、岩の影から飛び出してきたヤモリに似た生き物が一衛の指に噛みつく。痛いわけでは無いが、邪魔だ。

 こいつが事あるごとに噛みついてくる。

 腕を振ってヤモリを振り払うと、ヤモリ(※12)はムササビのように翼膜を広げて滑空していく。


 横を見ると犬山が、手を複数のヤモリに噛みつかれたまま、花を次々と落としていた。

 なるほど、いっそ気にしない方がいいのかもしれない、そう思って少し離れた花に思い切り手を伸ばす。

 ガブリと何かに腕を丸ごと挟まれる。

 「は?」

 見ると岩場の隙間から、バカでかいヤモリが一衛の腕に噛みついていた。

 ヤモリの青い瞳と目が合う。

 ヤモリと見つめ合う少しの間があってから、壁面を走り始めたヤモリに身体ごと持っていかれる。

 「うわぁああ!」

 いつも冷静な一衛も流石に声が出る。

 同じ命綱を使っていた笹村も身体ごと引っ張られ、聞き慣れた悲鳴を上げていた。


「オオー、大物だな」

 翼果の感心した声に、米倉が日差し避けに手をかざしながら騒ぐ一衛たちを仰ぎ見た。

 一衛を銜えたまま大ヤモリは犬山の方へ走っていく。

「直樹! 殴っちゃっていいよ!」

 翼果の指示を受け、犬山は嬉々としてヤモリをぶん殴った。

 ヤモリは堪らずに一衛を離し、滑空しながら落下していった。

 急に離され、宙に投げ出された一衛の命綱がピンッと張られる。

 命綱が振り子となって弧を描き、逆側に引っ張られる。

 身体が向かう先に突き出た岩が見えた。

 このままいけば確実に岩に激突する。


 マズい。


 咄嗟に岩壁に手を伸ばした。

 岩の表面についた手が、ザザザザッという音をたてて、摩擦で擦られながら滑っていく。身体は止まらないが速度が少し落ちる。

 が、岩場に激突するのは避けられそうにない。唐突にガクッ、と上に引っ張られて速度がさらに落ちる。

 笹村が両手で命綱を引っ張っていた。

 この速度なら、と一衛は身体を折り曲げて突き出た岩に足裏を向けた。

 岩に両足がつき、ついた瞬間に膝を曲げてクッションにする。

 ロープは慣性で戻り、緩やかな揺れになって止まった。

 一衛の心臓が早鐘のようになっている。

 「し、死んだかと思った……」と思わず呟いた。


「おーい! 大丈夫か!」

 上から笹村の声が聞こえる。

「助かりました! ありがとうございます!」

 一衛の声に笹村が手を振って答えた。

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