第1章 YOMOSTU 三話 カワカミ商店
歩きにくい。元々小さな町だったのだろう。地面はコンクリートの瓦礫だらけで、その隙間からつる植物が絡まり合うように生えている。
黄色い苔が瓦礫と化したコンクリートの亀裂も覆っており、足場を確かめながら進まないと隙間に嵌ってしまいそうになる。
時折、瓦礫の隙間から隙間へと胴長なネズミ(※14)がちょろちょろと移動している。どこかで見たことがある形状の生き物だ。高所で立ち上がったその姿を見て、ああ、昔動物園で見たミーアキャットに似てるんだ、と一衛は思った。
ミーアキャットより一回り小さく、色は灰色でネズミに近いがなんとなく立ち振る舞いというか、動きが似ている。
皆が足元に気を付けながら慎重に歩く中、翼果は足元も見ずにひょいひょいと兎の様に跳ねながら進んでいく。少し先で止まって振り返り、皆が追いつくのをしゃがんで待ってくれている。
茶屋が慎重に何度も同じ場所を踏んで、足場を確認しながら翼果に言った。
「翼果さん、棒、置いてきちゃったけど良かったんですかぁ?」
「帰りに拾って帰るよ」
一衛の足元をひらひらと一匹の蝶が飛んでいく。
その蝶を目で追っていくと、自分たちの進行方向に巨大なコンクリの板が横たわっていた。足元ばかり見ていて、こんな巨大なものがあることに気付けていなかったのか、と驚いた。
バキバキに割れたコンクリートの板には巨大な蔓(※15)が絡まっており、その蔓が水色の花を幾つも咲かせていた。その花の周りに色とりどりの蝶が群がるように飛んでいた。
「昔の高速道路だよ」笹村が一衛に教えてくれる。
よく見ると崩れ倒れた高速道路の脇に、苔に覆われ風化しかけた車が幾つも転がっていた。
べコリッと音たてて翼果が半壊した車のルーフに立った。
「なあ渡辺、昔はこいつが自動で走ってたんだろ?」
「そうですよ。今も外界ではそこら中を走ってます」
「ふーん。何度聞いても不思議だな。自動で走るってのが理解できない」
何気ない会話だったので聞き逃すところだったが、今の会話は変だ。
「翼果さんは外界に出たことないんですか?」
「ん? わたしは出たくても出れないからな」
「翼果さんはフィールド内の生物と同様で、外界に出ると分子が結合を保てずに崩壊する」
渡辺が補足説明をする。
確かにこの世界に適合するというのはそういう事なのかもしれないが、引っかかることがある。
それは翼果が一度も外界に出たことがないということだ。
だとすると、彼女はフィールドの中で産まれたこととなる。
とすると、翼果はいつフィールドに適合したのか。
疑問が多すぎて何から聞けばいいのか、それとも聞かない方がいいのか。
そんなことを考えていた時、アイマンが口を開いた。
「フィールドXと外界。何故、互いの生物は境界を越えると崩壊するのか。フィールドXと外界の違いはなんなのか。それを解明するために我々がいるんです。しかし……」
「YOMOTSUができて六十年。肝心なこの謎についての研究は殆ど進んでいないの」
茶屋がアイマンの言葉を続けた。
今まで常に明るく能天気だった茶屋の表情が一変していた。つらい? いや、悔しそうな顔というのがしっくりくる。
「そんなに焦ることねえだろ。フィールドができてから七十年くらいで、大体二キロくらいしか侵食されてないんだからよ。地球全体をフィールドが覆うのに九十万年かかるって聞いたぜ」笹村が気楽なトーンで言う。
「それもなんの保障もないよ。最初の一晩で六百三十平方キロまで広がったんだよ、明日突然比良坂地区全部がフィールドに飲み込まれる可能性だってゼロじゃないもん」
「そうですね。そもそもそれを止めることができなかったとしても、仕組みを解明するのはYOMOTSUの研究者以外にはできないことですからね」アイマンも茶屋に続く。
「チャーヤ、アイマン、わたしはどちらでもいいんだ。何より皆と出会えてこうしているのが楽しいからね」
翼果のその答えにもなっていない言葉に、茶屋は答えるように笑みを浮かべた。
とても一衛が翼果のことを聞く雰囲気ではない。
「この高速道路を越えて一キロほど行ったところがベースキャンプだ。十三時過ぎには着くだろう。着いたら昼ごはんにしよう」
渡辺が一衛に言った連絡事項的な言葉が、場の空気を元に戻した。
「やったー! ごはん♪ ごはん♪」
「チャーヤさん、さっき食べ……」
茶屋が人差し指を顔の前に立てて、しー! しぃぃいー! と一衛に口止めを訴えた。
崩れた高速道路を抜けてしばらく行った先に、曲がりくねった巨木が横倒しに生えていた。しかもその巨木は生えた先が、また地面に埋まってアーチ状になっている。
「ベースキャンプはこの下をくぐってすぐだ。ちなみにこいつは樹じゃなくて根っこらしいぞ」笹村がこの巨大な木の根をコンコンと拳で軽く叩いた。
「え? 根っこなんですか?」
翼果がその巨大な木の根の上から顔を覗かせる。
「こいつの本体、とんでもないでかい大木がどこかにあるってことだな。わたしも見たことないけどね」
「いつか見てみたいよねぇ」呑気そうに言いながら茶屋が木の根の下をくぐる。それに一衛も続いた。
木の根の向こう側は開けた岩場だった。
今までのコンクリートの瓦礫とは違う天然の岩場だ。灰色の岩肌が地表を覆っており、それを取り囲むように森が見える。
その岩場の切れ目の所々に崩れた木造の屋根だけになったものや、崩れて柱だけになった建物の残骸が散見できる。
その中で一軒、【カワカミ商店】という斜めに曲がった看板がついている箱型の建物だけが元の形を保っていた。
三階建てのその建物は一階が店舗部分で、半開きのシャッターはベコベコに折れ曲がっている。建物の横にはコンクリートで作られた二階へ続く階段があった。
立ち止まって辺りを見回していた一衛に笹村が声をかけた。
「あのカワカミ商店の二階がキャンプ基地だ。ま、山小屋みたいなもんだ」
「何の店だったんですか?」
「さあな。一階の店の中はもぬけの殻だから空き物件だったのかもな」
カワカミ商店の前で渡辺が振り返る。
「今日はここで一泊する。ここの鍵は開けておくから荷物は中に入れておいてくれ、二十分後に飯にする」
「はーい、先生」
「先生ではない」
そんな笹村と渡辺のやり取りを聞いていると、一衛の足元で何かが動いた。
「?」しゃがみこんで見るとこぶし大の石が動いていた。
「石が動いた?」
「イシダマシ(※16)だね。陸生のカニの仲間」茶屋が中腰で覗き込んできた。
石を掴んで持ち上げると脚と鋏をわきわきと動かしている。
「おおー、カニだ」
「石の模様が全部違うのよ」
よく見ると周囲で動いている石があちこちにある。
「ホントだ」
二階の鍵をあけて戻ってきた渡辺が周囲を見回す。
「アイマンはどうした?」
「商店の裏にふらふら歩いてったよ、翼果さんと一緒に」
渡辺の質問に茶屋が答えた。
「ならいいか。一衛、お前も荷物降ろしてこい」
二階のドアを開けると仕切りのない広いワンフロアになっていた。
入口手前の壁際にいくつか長机が置いてあり、折りたたまれたパイプ椅子が立てかけられている。天井からいくつか瓶が吊り下げられており、中には翼果の家で見た発光する植物の実が入っていた。
部屋の彼方此方に置かれたパイプ椅子があり、奥の壁際にパイプのついた四メートル四方のタンクが置かれている。
部屋の隅で荷物整理をしている笹村が、部屋に入ってきた一衛に気付いた。
「荷物は適当にその辺に置いていいぞ。あと、排泄パックは一階で交換できるからな」
「了解です。あれは何です?」一衛がタンクを指して笹村に訊ねた。
「給水タンクだよ。浄水器にもなってる。水が無いなら補充しとけ」
「まだ大丈夫です」
「あー、あと三階が寝床になってるから、窓開けて空気の入れ替えしてきてくれ。暗いと思うからライト付けてけ」
「ライト?」
「あれ? 説明してなかったか。フェイスガードの脇にケミカルライトがついてんだよ。そんなに明るくはないけどな」
三階のドアを開くとやはりワンフロアになっている薄暗い部屋に出た。
部屋の入口の床に発光キノコが入った瓶が置かれ、足元を弱い光で照らしている。
部屋の奥にマットレスが積みあがっているのが見える。他には特に何もない部屋だった。
入って正面の大きめの窓と鎧戸をすべて開く。
下で茶屋が子豚サイズの謎の生き物を追いかける姿と、その様を腕組みして見守っている渡辺が見える。
窓を開けた一衛に気付いた渡辺がこちらを向く。
「商店から出る時は窓を全部閉めてくれ」
「はーい」
「今日はこの後どうするんです?」
「飯食って、自由研究する者どものお守かな」
そんな会話をしながら、一衛と笹村がカワカミ商店の階段を降りてくる。
商店の正面にある地べたに這いつくばる茶屋の姿が見えた。
「なるほどお守……ですね」
「フィールドワーク中の研究者は五歳児と変わらんからな。まあ、キャンプ周辺は基本的には安全だから楽なもんだ」そう言って伸びをする笹村。
「何してるんですか?」一衛が茶屋に近づくと、彼女がカメラを構えているのがわかった。
そのカメラが向く先を見ると小型の獣が岩についた苔を貪るように食べている。窓から見えた子豚サイズの動物だ。
「なんです? あれ」
「アカゴケグライ(※17)! かわいいでしょ」
カメラから目を離す茶屋の方にアカゴケグライが赤い苔を食べながら近づいてくる。
ごぶ、ごふふ、ふっ、ごふ、と息遣いなのか鳴き声なのかわからない声を発している。四足歩行で短足なこの獣は周囲の植物に合わせた保護色をしていた。草むらにいれば発見しづらいが、この岩場では丸見えなので間が抜けている。
困り眉と楕円形の中に丸を描いたような、何かのキャラクターみたいな目が特徴的だ。
「かわいい……ですか?」
「カワイイよ! ちなみにこの眉毛と白目部分はただの模様だよ」
「あっ、本当だ。でもなんでこんな間の抜けた模様に……」
「チャーヤの推しなのっ!」
アカゴケグライは人がいる事を気にもしていないようで、一衛たちの真横を通り過ぎ、笹村の足元でまた苔を食べ始めた。
「こいつ、よく見かけるよな。他のエリアでも何度か見たぞ」
「コケグライの仲間は縄張り持ってないからね。産まれてからずっと移動してるこういう生き物のことをワタリ種っていうのよ」
「へえ。どこにでもいるってことか」あまり興味なさそうに笹村が答えた。
群れているわけではなさそうだが岩場の奥にも数匹いる。
「岩場の奥には行くなよ」岩の上に腰かけていた渡辺が一衛に言った。
「危ないんですか」と言い終わらないくらいで、ブギィイイイ、とコケグライの断末魔が聞こえてきた。
そちらを見ると、岩場の隙間から出てきた巨大な蜘蛛(※18)がコケグライを捕食していた。
「なるほど」
「ああぁー! コケグライィー!」
背中から齧り付かれ、短い足をバタつかせているコケグライに茶屋が哀れみの声を発した。
笹村の足元にいたコケグライは苔を食べながら森の中へ向かっていった。
「アイマンたち、遅いっすね」そんなコケグライを目で見送りながら笹村が言った。
「ね、チャーヤお腹空いたよぉ」
渡辺が立ち上がってパンパン、と尻の土を払う。
「そうだな、俺はアイマンたちを見てくるからチャーヤの方を見ててくれ」
「チャーヤも行くー」
商店ビルの裏手の薄暗い木陰に、アイマンと翼果が背を向けて立っていた。
「アイマーン、なんかあったの?」
茶屋の声に二人がこちらを振り返る。
二人に重なって見えていなかった白い物体が見えた。
その異様なものに一衛がギョッとした。
地面から長く伸びた白い何かは、人の胴回りくらいの太さがあった。先端部から虫の翅や鳥の足などの形になったものが乱雑に生えている。それはまるでその白い物体が別の何かに変化しようとして失敗したかのようだった。
「なんです? コレ」一衛が顔をしかめながら訊ねる。
「モリノユメですよ」
「こんな禍々しいものでしたっけ?」
「ごく稀に生物の一部を模した形に先端が変形する個体があるんです。ここまではっきり何かの形になっているものはかなり珍しいですね。しかもこの希少個体はおよそ一週間で崩れて消滅するので、見れたのはラッキーです」
笹村が変化したモリノユメの翅部分をつまんで引っ張るとボロりと崩れる。
それを誤魔化すように地面に落ちた部分を足で散らした。
「モリノユメって確かキノコなんですよね」
「そうですね。モリノユメはフィールドX全域に広がる菌類から伸びた菌糸で作られた
「結局なんなんです?」
「解りません。解らないから調べているんですが、祖菌はフィールドXのベースとなる重要なものなんじゃないかと僕は考えています」
「アイマーン、もうお腹空き過ぎてチャーヤ、限界なんですけどぉー」
「ああ、すいません茶屋さん。もう写真もサンプルも取ったので大丈夫ですよ」
そう言ってアイマンは、サンプル管に入った人の指の形をしたモリノユメの一部を鞄に仕舞った。
商店ビル二階で長机を並べて、各々がパイプ椅子に座る。
一衛は腕を袖から抜き、スーツ内のポケットからレーションを取り出した。
一口頬張る。想像ではもっともそもそした味気ない腹を満たすためだけのものだったが、しっとりしていて意外と美味しい。
「柑橘系の味がする」
「味は五種類くらいある。甘くないのもあってな。ピザマルゲリータ味が最高だ」レーションを飲み込んで渡辺が教えてくれる。
「見て見てササヤン! じゃーん!」
茶屋が大型おにぎりを見せびらかしている。
「なんだその巨大おにぎりは」笹村がドン引きした顔をして言う。
「ふっふっふ、持ってきちゃったぁー!」
「そういえば朝もバスでおにぎり食べてましたね」
「やっだ、忘れてよぉー、イッチンってば」
「え、ええ(イッチン…?)、でも食べきれるんですか? さっきレーションも食べてましたよね」
「心配無用だ。そいつの胃袋は宇宙と繋がっている」
「ちょっ! もう! 隊長ってば、大袈裟ぁー」
ドアが開いて遅れて入ってきた翼果が茶屋の隣に座る。
翼果は自分の席に皿を置いて桃色のリンゴ大の果物を取り出すと、背中に差していたデカい歪な形の刃のナイフを取り出して果物の皮を剥き始めた。
「めっちゃ美味しそうな匂いするぅ!」
「甘くてうまいよ、少し酸味があって」
「うう……、食べてみたいのに食べれないものがあるなんて。なんて地獄!」
茶屋が言う通り、確かにバニラのような甘い匂いが漂っていた。
ん? 匂い? なにか引っかかって一衛が考え込む。
「いつ見てもすげえナイフっすね」笹村が興味深そうに翼果のナイフを見て言う。
「このナイフの刃はペンチビートル(※19)っていう樹を切り倒す虫の
「刃こぼれとかしないっすか」
「切れ味はずっと変わんないな」
「ほえー」
渡辺が考え込んでいる一衛に気付く。
「どうかしたか?」
「あの、匂いがするってことはこのスーツって空気通ってますよね?」
「そうだよ」
「それじゃフィールドXの毒素も素通りなんじゃないかと思うんですけど、なんで我々は生きていられるんですか?」
一衛の当たり前の疑問に、笹村が驚いた声を上げる。
「え? なんだお前、今頃気付いたのか? 俺なんか一番最初にその質問したぞ。だってこのスーツ、外の音も聞こえるし酸素ボンベもついてねえじゃねーか」
間が抜けていたことに気付かされて、一衛は自分の顔が真っ赤になるのがわかった。
「えっ、あっ、確かにそうですけど、じゃあ、どうやってこのスーツでフィールドの毒素を防いでるんですか?」
「わからん」
渡辺の応答に一衛が怪訝な顔をする。
「わからんって……」
「このスーツの原理というか、どうしてこのスーツがフィールドXの毒素を防げているのかは不明なんですよ」
アイマンが一衛の疑問に答えた。
「どういうことですか?」
「そもそも、今に至るまでフィールドの毒素が何なのか特定もされていないんです。しかしこのスーツの仕組みで、何故か毒素を防げることが実験で実証されているということです」
「よくわからないけど、使えるから使っているということですか」
「ほーなの。そしてこのスーツの開発者はなんと、アイマンのお爺ちゃんなんだよ」
おにぎりを頬張りながら茶屋が補足する。
「え? そうなんですか?」
「ええ、でも祖父がこの仕組みを発見したのは偶然で、どうして毒が防がれるのかは解明できずに亡くなりました」
「いやでも、発見しただけでも凄いことですよ」
「ありがとう一衛さん。もう一つ祖父の驚くこといいますと、祖父は学者でもなくただの高校の生物教師だったんです」
「へえ! そりゃ俺も初めて聞いたな」
笹村が驚きの声を上げた。
「なんというか、思いついたら何でもすぐやってしまう子供みたいな人でしたよ」
「じゃあアイマンはお祖父さん似なんだな」
渡辺の言葉にアイマンは驚いた顔を浮かべた。
「え? 子供っぽいですか、僕」
「そうそう! アイマンは子供っぽいよ」
「茶屋さんには言われたくないですね」
したり顔で渡辺に便乗した茶屋に、アイマンがたしなめる様な返答をする。
「ええ!? チャーヤは色気あふれる大人の女だよ!」
「お前は食い気だろーが」
笹村がぼそりと突っ込んだ。そして一衛は思った、大人って何だろう、と。
食べ終わった渡辺が立ち上がる。
「さて、今日はもう大きな移動はしないので、日暮れまではこの近辺で自由にフィールドワークしてくれ。ガードは研究者から離れないように」
皆、気が抜けたような返事をしてバタバタと立ち上がり行動を始めた。
風で葉が揺れ、シャラシャラと心地よい音を鳴らしている。
アイマンが樹のウロに手を突っ込んでいる横で、渡辺が地面に差した盾に身体を預けていた。翼果はどうやって登ったのか、大木の高い位置の枝に腰かけている。
すぐ傍で大あくびをする笹村を見て、そこまで気を張る必要はないのかもしれないと思った。
気が付くと周囲がオレンジ色に染まっていた。
茶屋はジュラルミンボックスにサンプル瓶を詰め込んで蓋を閉めると、それを肩にかけて立ち上がった。
「そろそろ戻ろっか」
窓から見える外は陽が完全に落ちていて、不気味な鳥の声や虫の鳴く音が辺りに響いていた。
商店の二階スペースで渡辺が座って読書に耽っている。
笹村が浄水タンクの水の補充を終え、バルブを捻って水が出るのを確認した。
「おーい、給水できるぞって、上の皆に伝えといてくれんか」
パイプ椅子を折りたたんで壁に並べていた一衛が、返事をして三階に上がる。
「水、補充できますよ」
「はーい」
窓の鎧戸を閉めていた茶屋が返事をする。三階を見回すと、部屋の中央でアイマンは仰向けに横たわり、死んだように動かない。とっくに寝ていたらしい。
翼果の姿は無い。
「あれ? 翼果さんは?」
そう言いながら一衛はもうひとつの窓の鎧戸を閉めに向かう。
「屋上にいるよ。夜は大抵、外で見張りしてるから」鎧戸を閉め終えた茶屋が答えた。
「え? 中で寝ないんですか?」
「外にいる方が、周りのことがわかるから落ち着くんだって」
窓の外を見ると漆黒の闇が広がっている。
闇の中で正体不明の様々な生物の鳴き声が入り乱れ、時折、風が原因ではないガサガサとした音が鳴っている。
「落ち着くって……、真っ暗ってレベルじゃないですよ」
「彼女には見えている。それに睡眠をあまり必要としない体質だとのことでな、だから夜の見張りは任せている」
いつの間にか三階に上がってきた渡辺が説明する。
「少しは交代してあげた方がいいんじゃ……」
笹村も三階にあがってくる。
「なんの話?」笹村はそう言いながら、眠っているアイマンの腹に肘をついて寝っ転がる。
「翼果さんの見張りの話。見張りの交代した方がいいんじゃない? って、イッチンがね」
「あー、そう思うよな。俺もそう思ったんだけどな、俺らが交代したところで周りが全く見えねえし、逆に危ないから交代はいらないんだとよ」
アイマンがうなされている。
「そう、なんですね……確かにそうなのか」しかし、見えているといってもこの暗闇で、そんなに見えているのだろうか。
「まあ、色々疑問だよな……。翼果さんに関しては色々聞きたいことがあるだろう。彼女に関して一番詳しいのは直美主任だ。帰った後に色々聞いてみるといい。」
鎧戸を閉める一衛に渡辺が言った。
発光する実の瓶には布がかけられて、明かりが漏れないようにされている。
緑色に薄ぼんやり光る発光キノコ(※21)の瓶が、夜間の間接照明の役割をしていた。
薄暗い部屋の中、茶屋のイビキが響き渡っている。
昔映画で見た、地獄怪獣の鳴き声のようにうるさい。
眠れない一衛はしかめっ面で天井を眺めていた。
それにしても何故みんな、普通に眠れているんだ? 慣れなのか? これに慣れることが人類に可能なのか?
そう思いながら寝返りをうつが、そんなことをしたところでイビキが消えてくれる訳もなく、スーツ内で気休めに耳を塞いだ。
ふと、屋上へのハシゴが目に入った。
屋上へと続くハッチのようなドアを開くと、少し冷たい外気がスーツの中に入り込むのを感じた。月明りで薄っすら屋上のコンクリが見える。
外は完全に塗りつぶした黒だ。
「新人くんか」
闇の中で目を凝らすと、翼果らしき人の輪郭が薄く見える。
ハッチを閉じてフェイスガード脇のケミカルライトをつける。
三つ編みを解いた栗色の長い髪が風でゆるく揺れていた。
一衛は背を向けて立っている翼果の方へ歩いていき、彼女が見ている方を見る。
ケミカルライトの明かりは闇に吸い込まれてどこにも届かない。
「これでも見えているんですか。すごいですね」
「光って見えるんだ」
「光って? 何がですか?」
「生き物がね、わたしには発光して見えるんだ。そんなに明るく見えるわけではないんだけどな、夜は暗いから光が見やすい。直美がいうにはバイオフォトンの光が見えてる、って云ってたな」
「バイオ……何です?」
「詳しくはわからん。直美に聞いてくれ」
何気なく翼果を見た。
透き通った綺麗な瞳は、普通の人間の瞳との違いは無い。
意志の強そうな凛々しい目元が印象的だった。
風に揺らぐ長い髪が彼女の頬を撫でる様が、美しくて思わず見とれてしまう。
ケミカルライトに照らされて緑色の光を帯びた瞳が、予告もなくこちらを向いて思わず目を逸らしてしまう。
「眠れないのか?」
「イビキがうるさくて」
「ふふ、チャーヤだな」
「翼果さんは、あまり眠らなくても大丈夫って聞いたんですけど」
「うん? まあな、二時間くらい眠れれば充分だな。それもいつでも覚醒できるようにうたた寝してるって感じだ。おまけにわたしは燃費も良くてな、果物しか食べないし五日くらい飲まず食わずでも死にはしない。」
「まるで野生動物みたいですね」
一衛は思わず口にした失言に謝ろうとしたが、翼果は楽しそうに笑って答えた。
「確かにな、わたしもそう思うよ。でも別に眠れないわけではないから、自宅にいて暇なときはずっと寝てたりしてるな。」
「やっぱり動物みたいですよ」
「言うじゃないか新人くん」軽口を叩いた一衛に翼果は笑顔で返した。
しかし、彼女に関しての疑問は尽きない。
十代後半~二十歳くらいにしか見えない翼果に対して皆が敬語で話しているのも、何がどうなってこのフィールドに適応できているのかも、何故人間離れした身体能力があるのか……。
それに、彼女は本当に人間なのか。
「何かわたしに聞きたいことがあったんじゃないか?」
思わぬ翼果からの助け舟に逆に言葉を詰まらせた。
「え、ああ……、沢山あって……何から聞けばいいのか」
一衛の戸惑うような顔を見守るように、翼果は笑顔を浮かべてこちらを見ている。
「そうだな、こんな夜更けに長話も良くないし……、ひとつだけ君の質問に答えようか」
その翼果の提案に少しだけ熟考した後、口を開いた。
「……では、年齢を聞いてもいいですか?」
その質問に翼果は驚いた顔をした。
「初対面のレディに年齢を聞くとは、君は失礼な奴だな」
「あっ、やっ、すいません……」
自分の思慮の足りなさに、しまったと動揺する一衛に、翼果はしてやったり、と意地悪な笑みを浮かべて答える。
「見ての通りのピチピチの十七歳、ティーンネイジャーってやつだよ」
「そっ、そんなわけ!」
煙に巻かれたような翼果の返答に、思わず声を張り上げてしまう。
大声を上げるつもりではなかった、と弁解の為に翼果を見ると、彼女の笑顔が一転して真顔に変わっていた。
人差し指を口に当て、一衛に静寂を促している。
ざわざわと周囲の木々が震える音がし始める。
穏やかだった空気が一瞬で張り詰めたものに変わっていた。
いつの間にか真後ろに現れていた生暖かい気配。その気配から巨大な獣の息遣いを感じる。一衛は恐怖で金縛りにあっていた。
頭の芯は冷えているのに、どっ、と額から汗が流れ出てくるのが分かる。
そして唐突に、フッ、と掻き消えるように気配が無くなった。
「もう大丈夫だな」
おそらく一、二分の短い時間だったと思うが、安堵で大きく息が吐きながら腰を落とす。
どうやら呼吸をするのを忘れていたらしい。
「夜の森は危険なんだ。あまり大きな音は立てない方がいい。」
「……す、すいません。不用心でした」
「半分は本当のことだ」
「え?」
「わたしが十七歳なのは、半分だけ本当のことだ」
「半分……」
半分とはいったいどういう事なのか、全く意味が分からなかった。
「もう寝な、明日に差し支えるよ」
漆黒の闇の中で微笑む彼女の姿は頼もしくもあり、どこかひどく寂しくも感じられた。
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