第1章 YOMOSTU 二話 地摺り

 景色が徐々に森に飲み込まれていく。

 進むにつれ、生い茂っていく草木がひび割れたコンクリートの道路を侵食していった。両サイドの建物群は完全に森に隠れ、もう見えない。

 やがて灰色の道も完全に見えなくなり、ほぼ獣道になっていた。


「そろそろ本格的に森の中だ」

 振り向かずに発せられた翼果の言葉に、一衛は盾を握り直した。


 さっきから顔のあたりをまとわりついてくる羽虫が鬱陶うっとうしい。

「そう堅くなるな。この辺りはタワシの縄張りなんだ。そんなに気を張らなくてもだいじょうーぶよ」

 笹村がそう言った瞬間、一衛の顔のすぐ傍を何かが横切った。

 横切っていった先を見ると、水色のトカゲ(※6)が羽虫を銜えて樹に張り付いていた。

 トカゲが銜えているのは一衛の顔付近を飛んでいた羽虫だった。朱色の細長いヘラが背中から並んで生えており、それらをウェーブさせるように動かしている。

「は、はい」

 笹村の気遣いに頼りない声を返した。


 森に入って一分も経たないうちに周囲360度が森に変わっていた。

 巨大な触手のようにうねって絡まり合ったような幹の樹が多い。

 足場は平坦なようだが、青い半透明の草が腰辺りの高さで生い茂っていた。

 たまに掌大の葉をもつ黄緑色の背の高い植物が、所々背伸びでもするように生えている。

 ケキョキョキョー、と熱帯雨林で鳴いている鳥のような声が響いているが、その姿は見えない。

 樹の葉の切れ間から筋状に差し込んで広がる光が、薄く漂う霧を浮かび上がらせている。見上げるとひし形の葉が密集して空を覆い、角ばった切り絵のようなシルエットを作り出していた。


 現実感が薄れる。

 まるでファンタジーゲームの中にでもいるかのようだ。


 パピ――


 間の抜けた笛の音が辺りに響き渡った。

 ドキリとして周囲を見渡す。

 百メートル先辺りに、鹿のような動物のシルエットがこちらを窺うように見ている。

 鹿といっても遠目に鹿っぽいフォルムをしているだけで、角の形状はいわゆるよく知る鹿とはまるで違っていた。太いうねった角が二本生えていて鼻の上あたりにも細く尖った角がある。


 パァ――ピィ――――


 もう一度その鹿が鳴くと、その周囲の茂みから次々と鹿が頭を上げて姿を見せる。

 太い角を持つものと、鼻上の角だけの二種類がいるようだ。

 おそらく雄雌の違いだろう。

 遠目ではわからなかったが、太い角はパイプのように空洞になっているらしく、先端で枝分かれしていた。

 あの角が笛の役割をしているようだ。


 一衛が盾を構えると、鹿たちは次々と跳ねるように、ボスらしきシルエットの鹿の後方へ走り去っていく。

「フエジカ(※7)だね。草食動物だし無害なんだけど、気付かないで小鹿に接近しちゃうと群れから一斉攻撃されることもあるよ」茶屋が解説してくれる。

「一斉攻撃は怖いですね」

「今日はタワシが一緒にいるから警戒して逃げていったみたい」

「それにしてもあんな数がいたのに、まったくわからなかった」

「黄泉森の動物は擬態が上手いんだよぉ。慣れてるチャーヤたちでも、かなり注意深く観察しないと発見できないことが殆どなの」

 茶屋の明るく気の抜けた声の所為で、さらっと流しかけたが、よく考えると恐ろしい話だ。

「ヤバくないですか、それ」

「俺らだけならな。うちには翼果さんがいるから少しは安心できるぞ。」

 笹村が割り込む。

「翼果さんは気づけてるんですか?」

「何かあればちゃんと知らせるから、気を張りすぎるな新人くん」

 翼果がニコニコした顔でそう答えた。


 皆は翼果に全幅ぜんぷくの信頼を置いているようだが、一衛にはそこまでのものはない。

 そもそも二十歳そこそこにしか見えない見た目の娘だ。

 身長も自分の胸元辺りまでしかない。同じ女性でいえば、米倉副長の方が遥かに頼りになりそうだ。

 それにしても何故、皆は翼果に敬語なんだろう。

 おそらくアラフィフくらいの年齢であろう渡辺隊長までも敬語で話している。



「この坂を登り切ったあたりでエリアが変わるよ」

 先頭を歩く翼果が、立ち止まって言った。

 気が付くと辺りの植生しょくせいが変化している。

 腰辺りまであった植物の数が減り、黄色いイネ科植物とハート型の葉をした藍色の草が膝下くらいの高さで広がっていた。


 緩い坂を登り切った辺りで振り返ると、坂の下でタワシが立ち止まってこっちを見ているのが見えた。

「ついて来ないですね」

「ここから先はタワシの縄張りの外だからな」

 一衛の疑問に一番後ろにいた笹村が答えた。

「バイバーイ! ありがとー! タワシ――!」

 茶屋が千切れそうな勢いで手を振った。

 前を向いて周囲を見渡すと、生えている樹も全く違うものに変わっていた。

 先程とは打って変わって、ズドンと真っすぐ生えた樹(※8)が目立つ。

 平均的に直径二メートルくらいの太さで、青い苔に覆われていた。

 その樹の数本の表面がてらてらと光っているように見える。

 近づいて見ると、表面に透明度の高い水あめのようなものが、地べたまで流れているのがわかった。

「それは樹液だよ、触らないように。」

 翼果の言葉に一衛はその樹液から距離を取る。

「危険なんですか?」

「いや、くっつくとなかなか取れないんだ。ちょっと強めの接着剤って感じだよ」

「なるほど。それにしても……」一衛が周囲をぐるりと見渡す。

「さっきまでと雰囲気が全く変わりましたね」

「黄泉森の特徴でね。支配生物がエリアによってガラッと変わるの。樹も草も全然違うでしょ。それに合わせて生息してる動物や虫も当然変わるから」

 説明する茶屋の足元を、ブロンズ色の細長い脚と鋏を持つ蜘蛛(※9)のような生き物が横切っていく。

「さすがに詳しいですね。チャーヤさん」

「まあねー! まあねー!」

 かなり得意げになっている茶屋に続くように渡辺が言った。

「エリアが変わるとまるで別の国に移動したみたいだろ」

 その渡辺の物言いが、まるで子供を初めて動物園に連れて行った親のようで奇妙な感じがした。危険極まりない黄泉森なはずだが、この人たちはどこか楽しんでいるように見える。研究員たちがそう見えるのはなんとなく理解できるが、ガードであってもそうなのだろうか。

 確かにこの風景はゲームや映画のようで現実感が薄れはするが。

「フィールドに入ってからずっと異世界に迷い込んだ気分ですよ」

「それもそうだな」



 考えていたよりも、ずっと和やかな雰囲気で歩き続けている。

 もしかすると、森が危険という話は嘘で、皆で新人の自分をからかっているだけなのでは? とも思った。


「動くな」


 突然、翼果が静かに言った。

 その声に皆、まるでだるまさんが転んだでもしているかのように動きを止めた。

「声を出さないように」

 翼果が小声で言う。

 一衛は身体を動かさないように目だけで周囲を見る。

 が、何かがいるようには見えない。

 先ほどのエリアとは比べ物にならないくらい見通しがいいのに、全くわからない。

 上でバキバキと何かが折れる音がして、バサバサと音をたてて枝が落ちてきた。

 上に何かいる?

 突然、前方数十メートル先の樹が宙に浮き上がる。

 いや、これは樹じゃないのか?

 樹だと思っていたものは巨大な生き物の脚だった。

 メキメキと枝を折るような音と、ズシンとした地響きを立てながら巨大な何かが移動していった。


 遠くでフオォォン……とラッパのような鳴き声が聞こえる。

「もう動いていいよ」

 翼果の声に金縛りが解けたように皆が動き始める。


「すっげぇえ、なんだよありゃ」

 笹村が安堵と驚きが入り混じった声を漏らした。

「アイマーン! 見た? 見たぁ!?」

 茶屋がアイマンの腕を掴んでブンブンと振っている。

「見ました! モリクビリュウ(※10)ですかね?」

「やっぱり? あれそうだよね!」

「リュウ? え、何? 黄泉森って恐竜もいんの?」

 興奮する研究者二名に、笹村が怪訝そうな顔で説明を求める。

「モリクビリュウは恐竜じゃなくてね、亀の仲間に近い爬虫類なの! チャーヤも初めて見た! 脚だけだけど! すっごい! 感動!」

 飛び跳ねながら喜んでいる茶屋の後ろで一衛は思った。


 これは確かに、翼果の言う事を聞かないと、死ぬ。


「さ、行くぞ」

 渡辺の号令で一同は再び進み始めた。




 気が付くとエリアがまた変わっていた。

 樹の種類が違う。上にささくれ立った灰色の幹の樹(※11)が疎らに生えている。幹と同色の丸みのあるモミジのような葉が生えていて、太い枝の広がりが通常の樹の数倍はある。その為、樹と樹の間隔がかなり広くなっているようだ。

 脛の高さほどの草地を選んで歩いているが、草の高さはかなりバラつきがある。

 そして今までのエリアと比べて草の種類が多い。

 掌大の葉の背の高い植物からマメ科の蔓植物、四角い団扇うちわ型の葉を地べたに広げたようなものまで、バリエーションに富んでいる。

 樹の本数が少ないので先程のエリアより見通しは良いが、草が茂っていて足元に何かが潜んでいてもわからなそうだった。


コン、カーン、コーン……


 このエリアに入ってから、ずっと何かを叩くような乾いた音が聞こえていた。

「この何かを叩いてる音ってなんです?」一衛が茶屋に尋ねる。

「ほへは、みひははきでふね」

「え?」

「みひたたき」

「みひ……?」

「ミキタタキ……んぐん」

「チャーヤさん、何食べてるんです?」

「え、ええ!? や、やだなぁ、ななな何のことぉ?」

「………」

「ミキタタキ(※12)はね、その名の通り樹の幹を尾羽で叩く鳥でね。樹の中にいる虫を追い出して食べるんだよ。しかもね、羽で幹を覆って食べやすいところに逃げるように誘導してるの」

「………」

「み、見て! あそこにいるよ! ミキタタキ! ほらー! 叩いてる!」

「自分のタイミングで食べてもいいものなんですか?」

「ちょっと、空腹に耐えかねましてー。えーとぉ……ちょっとだけレーションを……」

「いや、自分は別にどっちでもいいんですけど」

「ち、違うの! 新しい味があって! ちょっとだけ味見を! そう! 味見しただけなの!」

「……いいんですか?」

「ああああああ!! 言わないでぇー! 隊長にはいわないでぇえ!」

 丸聞こえなんだが、と渡辺は冷ややかな表情で聞こえない振りをした。



 ザザッ、と何かが足元を這うように移動した。

「わっ」「なんだ?」「お?」数人が順に声を上げた。

 見ると草が列をなして滑るように移動していた。

「草が移動してる?」

 立ち止まった翼果が棒の先端を素早く、だけど優しく草の中に下ろす。

 下ろした棒の先で、草がのたうつ様に暴れる。

 暴れる草が落ち着いた頃合いで、棒をクルリと小さく回してすくい上げるように跳ね上げた。

 上がる棒と共に、短いロープ状の影が宙に舞い、それが翼果の手の上にのる。

「蛇ですか?」

 一衛の問いに翼果が答える。

「こいつはジズリ。肉食だけど臆病な性格で、自分より大きなものには向かってこないからすぐ逃げる。大きいもので三メートルくらいになるけど、自分が食べれないサイズの生き物を襲ったりはしないよ」

「わぁー! 見せて見せて! こんな近くでじっくり見たことない!」

 茶屋が駆け寄り、翼果の腕に絡まるジズリに顔を近づける。

「すごーい! これこれ! この草みたいな背びれが擬態になってるのと同時に、感覚器にもなってるんだよねー。たしか空気の振動を感知してるはず」

「ほえー、目がねえな」笹村も興味深そうにのぞき込む。

「そうそう、その代わりなんだけど、この角みたいに生えてるおっきい葉っぱあるでしょ、これが耳でスッゴイ音に敏感なんだよー」

「蛇じゃないんですか?」

「違うよ。爬虫類じゃなくて陸生の魚類で、分類的には古代魚に近いかな。ジズリの仲間は数種確認されてて、この子はジズリクサダマシ(※12)!」

「魚!?」

「マジかよ。魚なのか、これ」

 そんなやり取りを微笑ましそうな顔で眺めながら翼果が言う。

「チャーヤはなんでも知ってるな」

「先人の記録読んで勉強してますからね。現役で黄泉森の動物生体でチャーヤより詳しい人は存在しないです! あ、もちろん翼果さんに比べたらまだまだですけどね」

「そんなことはないよ。わたしにわかるのは生物の簡単な生態や性格くらいで、生物の分類名や仕組みまでは知らないからな。実際大したもんだよ」

「ねえ聞いた? みんな聞いた? 聞きました?」

 茶屋が皆一人ひとりを確認するように指をさす。

「翼果さんのお墨付き! チャーヤ世界一! チャーヤ・ザ☆大図鑑!」

 天高く人差し指を突き上げて、高笑いを上げている。茶屋のその様を見ながら、調子に乗りだした、と皆同時に心の中で思った。



 しばらくは何事もなく、彼方此方で幹を叩く音が響き渡る中を、一同は黙々と進んでいた。

 数歩進む度、ジズリがザザッと音を立てて数匹逃げていく。

「なんか、ジズリ多くないすか?」

 笹村のその声に合わせたように、先頭の翼果が歩みを止めた。

「………」

 翼果が一点を見つめている。


「警戒しろ」

 翼果の様子に渡部が皆に注意を促す。

 全員に緊張が走る。

 いつの間にかミキタタキの音が消えて辺りが静寂に包まれている。


「……信じられん。あんなデカいのがいるのか」

「え? 何処すか」

 翼果の言葉に笹村が小声で言う。

「あそこに見える岩の手前くらいに、二メートル位の背丈の小さめの木が並んでいるのが見えるか?」

 翼果が示す方を見ると、誰かが植えたように小さめの木が一列に並んでいた。


 茶屋がハッ、とした表情を浮かべる。

「まさかアレって木じゃなくて……、ジズリの感覚器なの?」

「おいおい、十五メートルくらいあるぞ」

 状況を理解した笹村の額に冷や汗が流れる。

「もうこっちに気付いてる」そう言って翼果が棒をクルリと回す。

「どうします?」渡辺が翼果に意見を求める。

「そうだな……。向こうに見える崖に隣接した崩れたビルの瓦礫が見えるか?」

「はい」

「わたしが合図したら、あそこまで音をなるべく立てないようにゆっくり向かうんだ。到着したら急いで一気に瓦礫を伝って崖の上まで登れ」

「翼果さんは?」

「あいつを引き付ける」

 渡辺は前方を警戒したまま、少しだけ顔をこちらに向ける。

「聞いたな、全員俺に続け」

 翼果が皆と離れ、ゆっくりと移動を始めた。


 十メートルくらい進んだところで、ジズリの感覚器が翼果に反応するように揺れ動く。翼果が右拳を上げて手信号を我々に送った。

 それを受けて渡辺が忍び足で移動を開始する。


 横目で我々が動き始めたのを確認すると、翼果はジズリに向かって走り始めた。

 その動きに合わせて巨大ジズリが体の向きを大きく変える。

 感覚器が小刻みに震えたかと思うと、大口を開けたジズリが翼果に向かって一直線に飛び掛かった。

 しかし、翼果はその動きを読んでおり、強烈なバックスピンをかけたボールのように後ろにねる。

 飛びつきが不発に終わったジズリが、着地と共に滑るような動きで翼果の方に方向転換し、鎌首をもたげた。

 周囲の草木と同系の青緑の体色で、胸びれが燃えるような紅色をしている。

 ジズリに対峙した翼果が姿勢を低く構える。

 棒の先端を自分の右斜め前の地面につけ、ズリリと地面を擦る。

 その音に反応するようにジズリはコカカカカ、と喉を鳴らしながら赤い胸びれを大きく広げて威嚇いかくした。


 翼果とジズリの間の距離は十メートル程しか離れていない。

 ジズリがじわじわと距離を詰める動きを見せる。

 翼果は棒の先端を地面から少し浮かせ、コーン、コーン、と一定のリズムで地面を叩き始めた。

 棒の中が空洞になっており、周囲に金属音が響く仕組みになっているようだった。

 ジズリの耳が音の方を向き、耳の向きに合わせるように顔をそちらに向ける。

 そのタイミングで棒で地面をなぞってズリッと音を立てる。

 ジズリはその音に反応して飛び掛かかった。

 飛び掛かるジズリの動きに合わせて棒の先端を後ろに引きつつ、翼果はまるでマタドールのように身体を反転した。

 ジズリは棒の動きに誘導されるように、着地するとすぐにクルリと翼果の方へ顔を向ける。

 翼果はまた同じように地面を叩いて音を鳴らし始める。

 まるでサーカスの猛獣ショーのようだ。


 ジズリが笛で操られるコブラのように頭を揺すり始める。

 その動きを見た翼果は音を鳴らすのを止めた。

 ジズリ頭部の揺れは激しさを増していく。

 片手で持っていた棒を両手持ちに切り替え、姿勢を低く構えた。

 ジズリが揺れの反動を利用して一気に動き出す。

 一瞬で円を描くように長い身体で翼果を取り囲んだ。

 そんなジズリの動きに翼果は取り乱すことなく棒をクルリと回し、右手の握りを順手から逆手持ち直す。左手を添えて棒が縦になる構えをとった。


 感覚器である背びれをザワッ、ザワッ、と一定間隔で震わせながらゆっくりと回り、翼果への包囲を狭めていく。

 ジズリが翼果の背後で鎌首をもたげ、ぴたりと動きを止めた。


 ピンと張り詰めた空気と静けさに、我々も足を止める。

 この静寂の中で音を立てると、ジズリの注意がこちらに向いてしまうかもしれない。

 わずかな音すら伝わりそうな静寂と緊張の中、皆が息を殺して翼果を見守っていた。



 …………………………………

 ……………………

 …………

 ……

 …


 ―――ドンッ、と音を立てて、唐突に翼果が棒で地面を突いた。


 その音に反射的にジズリが翼果に飛び掛かる。

 が、飛び掛かった先に翼果の姿が無い。

 地面に突き刺さった棒の遥か上、空中に彼女はいた。

 逆さになった姿勢で宙に舞っている。

 そしてそのまま、メートルくらいの高さにあった枝の上に着地した。


 はっ?


 驚きのあまり危うく声を出しそうになったのを、一衛はグッとこらえた。そして同時に自分の目を疑った。


 今、ものすごい高さを跳ばなかったか?


 棒を使って梃子の原理で跳んだとしても三階くらいの高さまで行けるわけが無い。

 しかも彼女はほぼ垂直に跳んでいた。

 自分の見たものを信じられず誰かと共有したくなり、皆の様子をうかがった。

 しかし、誰もそれに驚いたような様子はない。皆、ただこの状況を、固唾かたずをのんで見守っている様子だった。

 なにか自分が知らない仕掛けがあるのかもしれない。


 ジズリは完全に翼果を見失っているようだった。

 彼女がいた筈の場所に顔を向けているがそこに姿は無く、棒だけが地面に刺さったままになっている。

 ジズリは耳を別々の方に動かして消えた翼果の行方を捜していた。

 翼果は枝に鈴なりになっている胡桃くるみ大の実を素早く毟り取ると、右腕を直角に折り曲げて顔の前に突き出した。

 しゃがんだ姿勢のまま、腕の弓弦に木の実を引っ掛け、スリングショットのように弾き飛ばす。

 少し離れた地面に木の実が当たり、ボスッ、と鈍い音を立てる。

 その音にジズリが反応した。

 すぐさま連続で木の実を放つ。

 少しずつずれて一直線に立てられる音が、ジズリには離れていく翼果の足音に聞こえていた。

 音に誘導されてジズリが動き出す。

 最後に大きく弓を引き、立てた音の先にある樹に向けて実を飛ばした。

 バチンと大き目の音が響き渡る。

 ジズリがその音にコココ、と喉を鳴らし、音を追っていく。

 音に追いついた辺りで更に奥の樹に実を当て、ジズリを奥へ奥へと誘導した。

 一衛は安堵で肩の力が少し抜けて息をつく。

 翼果はこちらを見ると、クルクルと手首を回した。

 渡辺は頷くと再び音を立てないように歩き始めた。

 まだ気を抜くには早いようだ。


 一衛は緩みかけた気持ちを切り替え、警戒しながら皆につづいた。

 目的地の瓦礫ビルまであと半分くらいだ。

 翼果はまだジズリへの警戒を解かずにいる。


 不意に先頭の渡辺が立ち止まった。


 どうかしたのか、と皆が渡辺をみる。

 渡辺は自身のすぐ傍の深めの茂みを、じっと見つめたまま止まっていた。

 茂みの中で横倒しになっていた巨木がゆっくりと、そして次々と起き上がってく。

 巨大なジズリの頭部が我々の行く手に阻むように、ゆっくりと持ち上がった。

 大きい。さっきまでいたジズリの1・5倍くらいある。

 体色はあまり変わらないが胸びれ色が違う。根元が黒く縁取りが赤い。そして後頭部の鱗が逆立っていた。

 おそらく雌雄の差だ。


 胸びれを大きく広げコカカカカッ、と威嚇音を上げる。

 身体が委縮いしゅくしてしまって動けない。


 音を立てちゃ……いやもうバレて……守らないと…動……け……足……。

 一衛は金縛りにあったように動けずにいた。


 渡辺が盾を構える。笹村も盾を構え、一衛の前に出た。

「無理すんな」

 笹村の小声に一衛の金縛りが解け、一衛も盾を構える。

「はい」押し殺した声を、絞り出すように答えた。


 バチンッ、と何かが叩きつけられたような音が響き渡り、一衛の身体がビクリと震えた。


 ジズリがその音の方に耳を向ける。

 音がした方には樹があり、衝撃で葉が数枚ひらひらと落ちている。

 翼果がその樹に木の実を当てた音だった。

 だが、ジズリはそちらに耳を向けただけで動く気配はない。


 スタリ、と軽い音を立てて翼果が枝から降りてくる。

 そして地面に刺さった棒を抜くと、ブンッ、と棒を振り、地面に強く叩きつけた。

 コォオオオンッ!

 金属音が大きく鳴り響く。

 その音に、流石にジズリは翼果の方に頭を向けた。


 翼果はコーン、コーン、と一定のリズムで棒で地面を叩き始めた。

 コココココ、と喉を鳴らしながらジズリが巨体を引き摺り、翼果の方へ移動していく。

 翼果はジズリが反応したのを見て、棒の動きを変える。

 今度は棒で地面を擦るようにして、カラカラと音を鳴らし、後退った。


 できるだけジズリを我々から引き離そうとしてくれている。

 ある程度は一衛たちから離れたであろう位置で、ジズリが鎌首を上げた。

 これ以上は充分だと言わんばかりに追跡を止め、胸びれを広げる。

 ざわざわと感覚器を震わせたかと思うと、カカカコンッ! と辺りに響き渡る程大きく喉を鳴らした。


 ザザザザ………と遠くから草を擦る音が聞こえる。


 ハッ、とした顔をした翼果が「走れ!」と大声を出した。

 その声を受けて渡辺が即座に走り出し、皆がそれにつられるように走り始める。

 遠くから列をなした木が、草を掻き分けながらこちらに向かってくる。

 さっきまでいたもう一匹のジズリだ。さっきの喉の音で呼び戻されたのだ。


 翼果の前にいるジズリがじわりと動き出し、逃げ道を塞ぐように彼女をぐるりと取り囲む。

 一匹目のジズリと同じ動きだが、このジズリは動きを止めずにグルグルと回り続けている。


 瓦礫に辿り着いた渡辺が茶屋とアイマンを先に行かせる。

 ジズリは一直線にこちらに向かってきている。

「先に行け、しんがりは俺がやる」そう言って笹村は一衛の肩を叩いた。

 一衛が渡辺の後に続いて瓦礫のビルを登る。

「あっ! あ、足が……」

 アイマンが数階上のフロアで、瓦礫の隙間に足を取られていた。

 すぐに渡辺がアイマンの足を掴んで引き抜きにかかるが、挟まった足がガッチリ固定されていて動かない。

 こちらに向かってくるジズリが蛇行しながら近づいてくる。

 追いついた一衛がアイマンの足元に、ナイフを突き立てガリガリと瓦礫を削る。

 瓦礫ビルの前で盾を構える笹村に向かって、ジズリが一直線に向かってきているのが見えた。

「やばいやばいやばい来てるきてる! 隊長!」笹村が叫ぶ。


 一方、翼果を囲むジズリは回るスピードを増していき、みるみるその輪を縮めていく。

 翼果は棒を少し斜めに地面に刺し、刺した棒に片足を掛けると細く息を吸って止める。

 ジズリは一気に輪を縮めて巻き付きにかかる。

 それと同時に翼果は棒を伝って駆け上がり、空に高く跳び上がった。


 迫るもう一匹のジズリが、笹村の目前で大きく跳ねる。

「あっ!?」

 笹村は飛び上がったジズリの腹を見上げた。

 最初からジズリの狙いは笹村ではなく、動けないアイマンだった。

 ギリギリのタイミングでアイマンの足が外れる。

 渡辺が咄嗟に盾を構え、アイマンの前に立った。

 ジズリのピンク色の大口がこちらに飛んでくる。

 飛んでくるジズリの奥に、反り返った姿勢で空中を舞う翼果の姿が見えた。

 翼果の弓がこちらに狙いを定めている。


 シュカッ、という乾いた風切り音と共にジズリの狙いが逸れて、何も無い瓦礫の中に頭を突っ込ませた。

 そしてそのまま笹村がいる地面に落下していく。

 翼果の放った矢がジズリの鼻先に刺さっていた。

 翼果は地面に片手をついて身体を捻り、反回転させながら衝撃を殺して着地した。

 落ちてきたジズリが、笹村の目の前でドタバタとのたうち回る。

「うひぃ」

 盾を前に構えたまま後退する笹村の頭上から、渡辺の声が聞こえる。

「上がれ笹村!」

 慌てて笹村が瓦礫をよじ登る。


 翼果を締め上げていたつもりが、残された棒に巻き付いていることにジズリが気付く。

 バシンッ、と尾びれで棒を弾き飛ばして、翼果の方を向いて鎌首をもたげた。

 一方で、のたうっていたジズリも翼果の方に顔を向ける。

 二匹とも胸ビレを広げて震わせ、コココココココ、と喉を鳴らした。


「せーのっ!」

 渡辺と一衛が、笹村を崖の上に引っ張り上げる。

 転げるように崖上に到着した笹村がすぐに起き上がって、崖下の様子を覗き見る。

「どうなった!?」

 茶屋とアイマンが崖下に視線を釘づけにしていた。

 二人の視線の先には、前後を巨大ジズリに挟まれた翼果の姿がある。


 鼻先に短い矢が突き刺さったジズリが、激しく胸びれを震わせながらコカカカッコカカッ、と喉を何度も鳴らす。怒り心頭といった感じだ。

「ごめんごめん」

 姿勢を低く構えたまま、軽い感じでジズリに謝罪の言葉をかける翼果。

 そのすぐ背後に迫るジズリが、ボクシングのフックのような軌道で飛び掛かってきた。それをノールックで跳んでかわす。

 着地したところを尾びれの薙ぎ払いがくる。

 それをすぐさまバック宙で避けて着地すると、正面のジズリに向かって翼果が走り始めた。

 怒りの対象が向かってくることで、ジズリは怒りと歓喜が入り混じったのか、胸びれと耳をブルブルと震わせながら口を開いて顔を前に突きす動作を何度も繰り返し鳴いた。


 コガガハッ、ガコカッ!


 そうして身体をS字に曲げて、飛び掛かる前の蛇のような臨戦態勢をとる。

 走る翼果を背後から追いかけてくるジズリと、正面で待ち受けるジズリ。

 二匹が同時に翼果に飛び掛かかる。


 翼果は正面から飛び掛かってくるジズリの頭の上にポンと手をついて、まるで跳び箱を跳ぶように両足を広げてジズリを飛び越えた。

 ジズリの後方に片足で瓦礫の下に着地し、その反動でバネの様に跳ねながら、あっという間に瓦礫を駆け上がる。

 最後に大きく跳ねて、クルクルと身体を捻りながら回転し、さながら体操選手の姿勢で崖上に着地した。

 目の前で着地した翼果を見て、一衛はまるで現実感がなく呆然としていた。


 笹村が崖の下を覗き込む。

 崖下のジズリたちは恨めしそうにこちらを見ているが、瓦礫ビルを登ってくる気配はなかった。

「ここまでは追って来ねえみたいだ」

 息ひとつ乱れていない翼果がくるりと振り返る。

「ジズリは諦めが早いんだ。しつこくないのは有難い」


 茶屋がぺたんとへたり込む。

「はぁああ……、死ぬかと思ったぁ……」

「すいません皆さん、本当に助かりました」アイマンがペコペコとお辞儀する。

「いやあ、気にすんなよアイマン。それが俺らの仕事なんだからよ」

「まさかつがいだったとはね、油断したよ」

「翼果さんが見落とすなんてレア体験でしたね」

 渡辺の言葉に皆がアッハッハと笑い合った、一衛を除いて。

「いや、いやいやいやいや。待ってください!」

「どした?」笹村がキョトンとした顔で一衛を見た。

「どした? じゃないですよ! 彼女の身体能力、どうなってるんですか! 十メートル以上跳んだりしてましたよね!」

 一衛の疑問に皆が顔を見合わせる。

「どうって……、それが翼果さんだから?」茶屋がおどけた様に首をかしげる。

「えへへ、わたし、人よりちょっと運動神経がいいんだ」照れ笑いを浮かべて翼果が頭をポリポリと掻く。

「おかしいおかしい! ちょっとどころじゃないですよね!」

 翼果は一衛を揶揄からかうのをやめて、笑顔を向ける。

「そうだな。確かにわたしは普通の人間と違うところが割とある。それはわたしがフィールドに適合したことで得た副産物とでも思ってくれ」

 渡辺が一衛の肩にポンと手を置く。

「お前の疑問はもっともだが、翼果さんが頼れる存在なのは理解できたろ」

「そう……ですね、確かに」

 つい興奮しすぎている自分を戒める意味でも納得する事にした。


 ここに来てから頭が混乱しっぱなしだ。

 何もかもが自分の常識からかけ離れている。

 確かに説明は受けてはいたし、頭では理解しているつもりでいた。

 ただ、翼果の身体能力は完全に自分の想像の範囲外だった。

 それに翼果に対しては疑問がまだまだある。

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