第1章 YOMOSTU 一話 初日

 まだ薄暗い早朝のピンと張った冷たい空気の中、一衛いちえはバスに乗り込んだ。

 旧式の水素バスに乗ったのは十年振りくらいじゃないかと思いながら、後ろの方の座席をなんとなく目指して歩く。

 気怠いようで張り詰めたような、矛盾したものが混ざり合った朝特有の空気感が漂う車内。


 巨大なおにぎりを頬張るポニーテールの女性が一衛の視界に入ったきた。

 なんだあの非常識なサイズのおにぎりは……。

 三合分くらいはありそうだ。

 女性は巨大おにぎりを実に幸せそうな顔でかぶりついている。

 目がクリッとしていて少しぽっちゃり体形の彼女は一衛と目が合うとニッコリと笑顔を向けた。

 一衛は反射的に会釈をして目をそらした。

 そそくさと、おにぎり娘の横を通り過ぎた時、「クソが!」という悪態が突然聞こえてきた。

 ドキリ、としてそちらを見ると、眉間に深い皺を寄せた白衣の女性が不機嫌そうな顔で座っていた。

 今では殆ど見ることのなくなった紙の書類を手にしている。

 彼女はイライラしながら、指でトントンと書類を叩いていた。オレンジ色のショートボブをくしゃくしゃとやりながら、真っ赤な口紅が塗られた下唇を嚙んでいる。

 怖っ、と心の中で一衛は呟いた。


 そんな二人をやり過ごし、最後部よりひとつ手前の席に座った。

 ざっと車内を見渡すとまばらに人が乗っているのがわかる。

 このバスは途中下車がない。皆同じ場所に向かうのだ。


 『発射します』というアナウンスと共にドアが閉まり、自動運転のバスが走り始めた。


 一衛はバッグから支給されたスマホを取り出した。

 スマホなんて骨董品を支給されるなんて思ってもみなかった。国から多額の予算が割かれている組織ではない、という事なのだろうが、いくら何でも古すぎやしないか、と思った。

【ようこそYOMOTSU 比良坂ひらさか地区】というタイトルのアイコンを開く。フィールドX内の注意点という項目をタッチする。

 表示されている内容はブリーフィングで説明を受けたものと同じで、なんら新しいことは無いようだった。

 しばしスマホの内容を読み返していたが、ふと顔を上げて窓の外を見た。

 窓の外は廃墟が立ち並び、ゴーストタウンと化した景色が流れている。

 本当に人っ子一人いないんだな、とぼんやり思った。




 バスが停車し、ぞろぞろと人が降りていく。

 斜め前に座っていた気怠そうな雰囲気をまとった男が振り返り、こちらに向かって歩いてくる。

 すこし身構えてしまったが、男の視線が自分の後ろを向いていることに気がついた。

「おいアイマン、起きろ。着いたぞ」

 そう男が言うと、誰もいないと思っていた最後部座席から、人がゾンビのようにが起き上がった。

「……あ…うん。ありがとう笹村ささむらさん」

 アイマンと呼ばれた男はズレたメガネを直しながら、寝ぼけた声で答えた。

 よれよれのスーツにノーネクタイのこの男は、どうやら後部座席を独占して眠っていたらしい。

「ん? お前、新入りか?」

 笹村と呼ばれた男は今度こそ自分の方を向いて喋った。

 天然パーマの無造作ヘアに無精ひげ、黒のパーカーにグレーの迷彩カーゴパンツと、ラフな格好をしている。

「あ、はい」

「そうか。じゃあ、ついてきな。途中まで案内してやるよ」

「ありがとうございます」

「まあ、他に建物なんかねえし、迷う事なんか無いと思うがな」

 そう言って笹村は眠そうなアイマンを引きずるように歩き始め、一衛はそれに続いた。


 バスを降りて真正面の建物に向かっていく。

 周辺に建物はなく、広大な空き地が広がっていた。

 遥か遠くに成層圏まで届く青白い光の大樹が見える。大樹といっても葉があるわけでは無い。

 実際樹でもない上に実体すら無いものらしい。

 大樹の根元には濃霧が広がっているらしいが、ここからでは森が邪魔で確認はできない。

「どうした?」立ち止まって光の樹を眺める一衛に笹村が声をかけた。

「あ、いえ、すいません」

「あー、光の大樹な。そうだな、ここまで近い距離で見る事は普通ねえもんな。でもまあ、そのうち見慣れるぞ」そう言って笹村は建物に入るよう促した。


 おそらく元は市役所か何かであったろうその建物の中は、打ちっぱなしコンクリート造りの無機質な広いロビーがあった。壁に巨大な抽象的な太陽の絵が飾られている。

 同じバスに乗っていた人たちがロビーの奥にあるエントランスゲートを通って中に入っていく。

天田あまだぁ! また間違ってるぞ! 昨日と同じとこ!」

 ロビーの奥から怒鳴り声が聞こえる。おそらくさっきバスにいた白衣の女性の声だ。

 一衛は怖っ、と心の中でまた呟いた。


「私はこっちなのでまた後ほど」アイマンと呼ばれた男はそう笹村に言うと、よろよろと奥に歩いて行く。

「ういー」笹村がゆるい返事をアイマンに返した後、一衛の方を見る。

「でな、新入り、この建物は事務所みたいなもんで【センター】ってみんなは呼んでる。ここでフィールドXの中に入る為のスーツを装着したり、事務仕事や会議なんかをしてる」

「はい」

「そんでな、あっちに立ってる、見るからに怖そーな姉さんがいるだろ」

 笹村が指す方を見ると、右頬と首、そして左腕全体に刺青が入った短髪黒髪の女性が腕組みしてこっちを見ていた。

 えっ、怖すぎるんだが……。

 そんな一衛の心の声を読んだかのように笹村はフォローを入れた。

「見た目はあれだが、常識人だから心配すんな。ともかくあの人に色々聞くといいぞ。」

「そ、そうなんですね。というかあの人、こっちに歩いて来てますね」

 その女性が一衛の目の前で立ち止まった。

「お前が新入りだな」

「はい」


 近くで見ると刺青は、梵字モチーフのデザインであることがわかった。腕には色即是空しきそくぜくうと入っている。

 タンクトップにカーゴパンツ、編み上げブーツを履いている。耳には無数のピアス、手首には数珠、そして指にはシルバーの指輪がいくつもはめられていた。

 まるで映画に出てくる歴戦の傭兵のようだ。

「私はガード部隊副長の米倉よねくらだ。話は聞いている」

「んじゃ俺はこれで……」

「ちょっと待て、笹村」

「あい?」

「ちょうどお前に頼もうと思っていたところだ」

「なんです?」

「この新入り、今日出発のフィールドワーク組に入ってるから、案内してやってくれ」

「え? 初日から黄泉森に入るんっすか? 訓練も無しに? エグいことしますね」

「人手不足だからな。ブリーフィングは済んでるんだろ?」

「はい」

「そうだな……」

 米倉副長は一衛の全身を下から上にざっと見た。一衛はTシャツにコーチジャケット、クラシックなダメージジーンズにスニーカーを履いていた。

「ラフ過ぎましたか?」

「いや、説明を受けている通り服装は自由だから問題はない。フィールドワークの時は支給された作業用インナーに着替えてもらう。笹村、倉庫にあるから渡してやってくれ」

「りょーかいです。つーか……、お前でかいな。身長いくつだ?」

 笹村は見上げるように一衛の頭の天辺を見て言った。

「187です」

「というわけで案内頼んだぞ、笹村」

 そう言って米倉は立ち去ろうとして振り返った。

「あっと……、肝心なこと忘れてた。これがお前のキーカードだ」



 012という数字がはいったカードをかざすとピッと音が鳴ってロッカーのロックが外れた。

「そこのロッカーに自分の荷物と服を全部入れて置け。説明受けてると思うがフィールドの中に電子機器とか持ってくと壊れるからな」

「はい」

「んで、そっちに並んでるフィールド探索用のスーツに着替えるんだが」

 笹村が指す方を見ると、SF映画に出てくるような宇宙服のようなスーツがずらりと並んで収納されていた。

「そのカードキーと同じ番号が入ってるのがお前のスーツだ」

 一衛がカードをかざす。ブシュー、と蒸気が噴き出るような音とともに重い金属音がする。物々しく探索用スーツの格納ドアが開いた。一衛のスーツの左肩に012とオレンジ色の数字がプリントされている。カードに入った数字と同じことから自分のパーソナルナンバーなのだろう。

 背中部分にWATERと文字が入ったボトルが二本装着されていて、ボトルからチューブがスーツ内部に繋がっている。

「これってサイズ合ってます?」足をスーツに突っ込んでから一衛は訊ねた。

「お前が身体プロフィールをサバ読んでなけりゃ、合ってるぞ」

「ぶかぶかなんですけど」

「ああ、それで大丈夫だ。スーツの内側に身体を固定するベルトが付いてんだろ」

「なるほど」

「スーツの中で飲み食いできるようにでかいサイズになってんのよ。それから、スーツの中にパンツあるだろ。下は全部脱いでそいつを装着しろ」

「このパンツは?」

「フィールド内でスーツ脱げないからな。排泄処理用だよ。そんで、そいつを着る前にその内側のポケットにレーションを突っ込んどけ。三本セットで一日分だ。だからえーと、一応一週間分入れとけ。そっちの段ボールに入ってる。」

 箱から栄養バーのような形状のレーションを取り出してスーツに入れる。

「なあ、まだ若いよな?」手慣れた感じでスーツを装着しながら笹村が訊ねた。

「二十六です、今年で」

「ほーん、そんで何やらかしたんだよ、その若さで」

「何って? 何もしてないですよ?」

「とぼけなくたっていいって。ここのガード部やってる奴のほとんどがムショから来る奴ばっかなんだから」

「あ、ああ……、そうなんですね」あの副長もそうなのかと、米倉の姿が頭に浮かんだ。


「はぁああ!? 民間から引き抜かれて志願で来ただぁ!?」

 笹村は驚愕の表情で大声を出した。

「あ、民間と言っても二年前まで軍に所属してたんで、完全に民間じゃないんですけどね」

「いやいやいやいや、お前! わかってんの!? この比良坂地区に入ったら一生出れないんだよ! 一生だよ! ちゃんと説明受けた? 国際調査団と間違えてこっち来てないか?」

「ここは完全極秘の国内フィールドX調査組織、【YOMOTSU】ですよね、わかってます」

 一衛は笹村にまっすぐな視線を返した。

「……まあいいや」

 笹村は一衛を横目で見ながらフードのように後ろに垂れ下がっていたスーツの頭部を被る。笹村のスーツには藍色で017と数字が入っている。


「あー、それからスーツ装着し終わったら必ず誰かにちゃんと着れているか確認してもらえ。今回は俺がする。それとスーツ装着後は五分経過するまでフィールド内に入るなよ」

「何でです?」

「なんかスーツ内のなんちゃらの融着時間がどうのこうのって、難しいことはよくわからんが、ともかく五分待たずにフィールドに入ると死ぬらしい」

「それは気をつけないとですね」

「つっても集合場所で一応五分の待機時間とるから、そんなに心配いらんけどな」



 更衣室を出て廊下を歩く。

「ちなみに笹村さんも元囚人なんですか?」

「いんや、俺は軍からの出向。戸籍上では戦死扱いの死人だけどな」

「そうなんですか。よく納得してきましたね」

「俺にも色々あんだよ。それにお前には言われたくねえよ」

「確かに」


 センターの搬入口を出ると、過去にはターミナルとして使用されてたであろう広いスペースに出た。

 出てすぐ前の道路に一台のバンが駐車している。その前に数人の探索スーツ姿が集まっていた。

 腕組みをして立っているのは米倉だ。

 米倉のスーツには紫色で333の数字と梵字一文字が入っていた。意味はわからない。

 その横の人物がイラついた空気を纏いながら書類の束を持っている。スーツには黒で015の数字がプリントされていた。スーツの中はどうやらバスの中で見かけた白衣の女性らしかったが、こちらに興味を示す気配はない。

 開きっ放しの車のドアの前で、ひと際大きなスーツ姿がジュラルミンケースの上に腰かけていた。右腕全体が黒く塗装されていて白抜きで001の数字と可愛らしいデザインの熊マークが入っている。その001スーツがこちらを向く。

「来たな」

「タイチョー、こいつ変なんっすよ! 民間からわざわざ志願してきたとか、オカシイでしょ」

 隊長と笹村に呼ばれた大柄な男が立ち上がる。身長は一衛より少し低いくらいだが実際の大きさより大きく見える気がする。圧があるという表現がしっくりくる。透明なフェイスガードの奥に、短髪の切れ長な目つきの精悍な顔が見える。

「聞いている。人の生き方はそれぞれだからな。詮索はするなよ笹村」

「へーい」笹村が気の抜けた返事をした。

 隊長は想像通りの低い声だったが、同時に厳しさよりも優しく包容力を感じる声だった。そしてその発言から器の大きさも感じた。

「ガード隊、総括隊長の渡辺綱樹わたなべつなきだ」渡辺が握手を求めた。

「今日付けでガード隊に配属となりました。一衛・グレーヌです。よろしくお願いします。」

 一衛が握手に応じる。

 そのやり取りの声に反応して、車のバックドアで荷物を積めていた小柄な探索スーツがヒョコッと顔を出した。

「おはよーございまーす!」

 黄色の101とヒヨコのマークが入った小柄な探索スーツから、元気いっぱいな女性の高い声が飛び出した。ヒヨコのマークは渡辺と米倉のデザインされたマークと違って、素人が手描きで描いたように見える。

「ああぁ! バスにいたイケメンお兄さん!」

 そう言って跳ねるようにバンの陰から飛び出てくる。スーツの中からクリクリした目の顔が見えた。

「あっ、巨大おにぎりの……」

「やーん、忘れて、恥ずかしい!」

 そういってモジモジする101の小柄スーツを横目に、米倉が口を開く。

「隊長、全員揃ったので準備確認お願いします」

「そうだな」

「おいアイマン起きろ、準備確認するぞ」

 笹村が開いているバンのドアから車内に頭を突っ込んでそう言うと、寝起きの男の返事が聞こえてきた。

「…あ……いま…おき…………」

「寝るなぁー!」


 のそのそと車から這い出てきたアイマンのスーツの番号は黒の005でマークは無い。

 005のアイマンを加え、皆が輪になる。

「よし、右の人物のスーツのセーフティーロック、及び給水ボトルの確認してくれ」

 その渡辺の号令で全員が隣の人間のスーツを確認する。

「次は左」

「随分厳重ですね」そう一衛が左隣の笹村に言うと「命に直結してるからな」と笹村は答えた。

「よし、次は時計のネジ巻きと時間合わせ」

 一衛は左手の甲についた時計を見る。

「こっちがネジになってるから時計回しで回せば巻けるぞ」

「ありがとうございます。反対側のこれは?」

「そっちは時間合わせで針動かす方だ」

 なんだかんだで笹村という男は面倒見が良い。

「ネジ巻き終わったら時刻合わせるぞ」

 渡辺がそういうと米倉以外の皆が左手を中央に出した。

「あれ? 副長はいいんですか?」

「アタシは途中で帰るからな」

 質問に米倉が答えると、何かを察したように笹村は納得した顔をした。

「7時ジャスト。321、スタート」

 渡辺の掛け声で全員の時間を合わせる。

「よし、5分後に出発する。全員車に乗れ」



 バンの運転席は中央にあり、助手席はない。

 運転席には米倉が座り、行き先を入力している。

 後部席は横向きに向かい合うように二列に並んでいた。

 先頭に渡辺と一衛が向かい合うように座り、渡辺の隣に笹村、小柄な女性という並び。一衛の隣にアイマン、白衣の女性という配置で座った。

「さて、グレーヌ一衛、一衛グレーヌか。お前には色々注意事項やらを話さなきゃだな」

 渡辺は少し前のめりになって一衛の目を見て言った。

「はい」

「とりあえず皆の紹介をするか。まず研究者の三人。一番奥でブツブツ言っているのは穂高直美ほだかなおみ研究班総括主任、専門は生体遺伝子学だったかな。そこの小さいのが茶屋日菜子ちゃやひなこ博学準教授だったか」

「やっほー、チャーヤって呼んでね」

「それで、君の隣で眠っているのが吉田藍曼よしだあいまん、菌学者だ。この方々、大事な研究者たちの護衛をするのが我々ガードの仕事だ」

 アイマンが一衛の肩にもたれ掛かってくる。

「思い切り跳ねのけて問題ないぞ」

 渡辺の言葉に、大事な研究員とは? と思いながら一衛はアイマンの頭を丁寧に戻した。

「それで、運転席にいるのが米倉夢よねくらゆめガード隊副長」

「アタシを呼ぶときは苗字だけにしてくれ」

 運転席から米倉の声が聞こえた。

 苗字だけってことは、自分の名前が嫌いなのだろうか、可愛らしい名前だと思うが。

「了解しました」

「あと笹村祐太ささむらゆうた……のことは知ってるな」

「はい」

「でだ、国内フィールドX調査組織【YOMOTSU】、この比良坂地区にはガードと研究員、大まかにこの二種類の人間しかいない」

「他のことは全部AIロボットがやってくれるからね」茶屋が口を挟む。

「それでブリーフィングで聞いている通り、フィールドX内では外界には存在しない生命体が独自の生態系を作り上げている。それから一切の電子機器は動かないし火もつかない。なので、この車はフィールドの手前までしか行かないわけだ」


 車が静かに走り出す。

 自動運転らしく、米倉はハンドルを握ってはいない。

「それからブリーフィングでもしつこく言われただろうが、この探索スーツは生命線だ。フィールド内でこいつを脱ぐと我々は十五分経たないうちに死ぬ。このスーツは信じられんくらい頑丈に作られているが、これから我々が入る森、世間が云うところの【黄泉森よみもり】には、このスーツを簡単に切り裂くような化け物じみた生物がいたりする。そして黄泉森では本当に、簡単に、当たり前のように、人が死ぬ」

 渡辺は一度区切り、反応を見定めるように一衛を見る。

 一衛の目に動揺の色はない。なるほど肝は座っているようだと渡辺は思った。

「そんな危険極まりないガードの仕事なんだが、我々の装備はバイオ強化プラスチックの盾と生き物の電気信号を一瞬だけ混乱させるだけのスタンバトン、セラミックナイフのみだ。心許なく感じるだろうが、色々理由があってこの装備になっている。だがこれだけの装備でも、我々がプロとしてきっちりと護衛をこなせば、それで何も問題はない……と、いいたいところだが、ここから話すことはブリーフィングでは触れられていない内容になる」

 一衛は予想外の話の展開に少し構えた表情を浮かべた。

「実のところ、我々ガードのみで研究員の護衛をするのは不可能だ。護衛どころか自分たちの命も守れないだろう」

 さすがに無茶苦茶なことを言っている。

 大抵のことでは物怖じしない一衛だったが、困惑の表情を浮かべて思わず言った。

「それは……、いや、それじゃあガードは何をというか、何のためにいるんですか?」

「我々の仕事は確かに護衛だ」

 動揺した一衛の言葉を遮るように、少し大きめの声で渡辺は続けた。

「だが、ある人物のサポートをすることが前提の護衛だ」

「ある人物?」

「そうだ。これから我々はフィールド内でその人物と合流する。その人は黄泉森に精通したガイドだ。そしてこのガイドの存在は最重要機密でな、外部にれる可能性があるブリーフィングではその存在に触れられてはいない。もちろん探索用スーツの存在も、外部にらすわけにはいかない極秘事項ではあるが、ガイドはそれ以上の極秘存在だ」

 ガイドの存在が最重要機密?

 このスーツの重要性と極秘であることは理解できるが、森に詳しいだけの一人の人間が何故最重要なのだろう。

「何者なんです?」

「ガイドだよ。覚えておけ。黄泉森の中ではガイドの言う事は絶対だ。今までガイドの忠告を聞かなかった人間は100パーセント死んでいる。死にたくなければガイドの言う事は素直に聞け。例え納得がいかないことであっても無条件に信用しろ」

「わかりました」

 そう返事して、一衛は筋肉の塊のような屈強なガイドの男を想像した。

「いいか、ガイドの言う事は絶対だ」

 渡辺は念押しにするように、ゆっくりとした口調で繰り返した。




 車が停まった。

「ここからは歩きだ」米倉がそう言って車のドアを開けた。

 車を降りると、殺風景な景色が広がっていた。建物がちらほらあるが、いずれも廃墟だ。雑草一本生えていない上、虫がいる気配すらない。

 見えている土も湿った砂のような感じだった。

 進行方向の向こうには、ちらちらと青い草のようなものが生えているのが見える。奥に行くにしたがって見たことがない植物が群生していき、見たことがない形状の樹木が生い茂っていっているのがわかる。

 黄泉森だ。

 そして、森の向こう側には例の光の大樹がそびえ立っているのが良く見える。


 車から荷物を下ろすのを手伝う。

 渡辺は監視小屋の駐在員と話をしている。フィールドに入る手続きをしているようだった。

 ガードは装備品以外にそれほど荷物は無いが、研究員は観測器具に採集用道具、サンプルの収納ボックスにフィルムカメラなど荷物が多い。研究員が持ちきれないものをガードが持つこともよくあるらしい。

「主任、その段ボールは何です?」

 重そうな段ボールを大事そうに抱える穂高に、茶屋が訊ねる。

「捧げものだよ」穂高はニヤリとした笑みを浮かべた。


 荷物を持ってぞろぞろと渡辺の方へ向かう。

「ああ、四日後にはここに戻る予定だ」そう駐在員に話す渡辺の声が聞こえた。

「隊長、いつでも行けますよ」

 笹村の声に渡辺が振り返った。

「了解した。じゃあ、一衛」

「はい」

「軽くお前に説明すると、あそこに見える建物はフィールド内研究所だ。それからそこのラインの向こうがもうフィールドX内になる」

 渡辺の指し示す方に目をやる。少し遠くにドーム状の屋根の建物が見える。それが研究所らしい。

 他は、見慣れない色をした草木に放置され続けた荒れたアスファルト道路が続いているのが見えるだけだ。

「フィールドXは、外の常識は通用しない世界だ。気を抜かないようにな」

 渡辺の言葉に一衛はこくりと頷いた。


 一通りの手続きも終わり、一衛たちはフィールドの入口手前に来ていた。

 ひび割れ、乾燥したアスファルトの上を、赤い塗料でつけられたラインが道路を横切るように引かれている。線はまるでフリーハンドで書いたように波打っていた。

「このラインがフィールドXと外界の境界線なんですか?」

「そうだ。ラインはフィールドの境界線を示すものだが、ラインが引かれるのは年の初めだ。なので正確にはもっと手前からフィールドは始まっている」そう渡辺が一衛に説明した。

そうか。当たり前だが、フィールドは機械的に直線で拡大してるわけではない、正確に引かれたラインだから波打っているのだ。


 一衛は緊張気味にフィールドに近づき、境界線を跨ぐ。

 異質な空気がまとわりつくような感覚があった。

 しかし、それはほんの一瞬のことで、その違和感はすぐに消えて無くなった。

 思わず辺りをキョロキョロと見回した。

「ん? どした?」そんな一衛の様子をみて笹山が声をかけてきた。

「あ、いや……」

「どうどう? 初めてのフィールドXは?」

 興味津々のいたずらっ子のような顔で茶屋が一衛に近寄ってくる。

「そうですね。今のところ特に変わったことは……」

 さっき感じた違和感は多分気のせいだ。それほど一瞬のことで、その違和感を自分が本当に感じたのか、確信が持てないほどだった。

「なにも変わらんだろ。この線が無いと、いつ境界越えたのかも分からんからな」

「そんなことないよぉー! ササヤンにはロマンが足りない! ここから存在する全ての生き物が外には存在しない独自生物なんだよ! まさに異世界! まるでファンタジーワールド! あぁ! 今すぐこのスーツを脱ぎ去って直に空気を、異界の風を感じたい!」

「そのまま分子崩壊してくれ」

 冷たくあしらう笹村に茶屋はふくれっ面を向けるが、すぐに一衛の方を向き直るとコロッと表情を笑顔に変えた。

「ねねっ、一衛くんってハーフなの?」

「ええ、父が連合駐屯兵で母が駐屯地の売店で働いてた人だったとか、二人とも顔も見たことないんですが」

「そうなんだ。やっぱり孤児なんだ」

「やっぱり?」

 意外な返答だった。この話をすると大概は表情を曇らせて謝罪されたり、気まずそうな空気になったりするのだが、茶屋はまるで誰かの地元でも聞いた時のような反応だった。

「YOMOTSUって多いんだよね、孤児の人」

「そうなんですか。やっぱり人の繋がりが薄い人が選ばれるんですかね」

「それはそうかもー。だって死亡扱いだもんねー」

 あっけらかんと話す茶屋に、この人も何か事情があってここにいるのだろうな、と勝手に腑に落ちた。

 二十メートルくらい進んだところにまた赤い線がひかれている。

「この線はなんです?」

「去年の境界線だよ。フィールドは日々拡大してるからな、毎年ラインを引いて拡張率をみてんのよ」

 一衛の疑問に笹村が答えた。

 年間二十メートルというとかなりのスピードで拡大しているように思えるが、軽く計算すると七十年で約一・五キロも拡大していないことになる。そう考えると世の中の危機感が薄いのも頷けた。


 進んでいくにつれ、見たこともない草花が増えていく。

 半透明の青い草や背丈ほどの翡翠色のシダ植物、群生する細長い黄色い花、その花に丸い綿毛に翅が生えた虫が無数に群がっていた。

 時折、奇妙な歩く草や角が生えたトカゲのような生物が道路を横切っていく。

 廃墟化し、半壊した住宅街が年月をかけて自然に還りつつある様を見ていると、世界の終わりを見ているような感覚になる。

 中でも、白い縦に長く伸びた一本の棒のようなものが所々にあって、それが奇妙な存在感を放っていた。先端は丸みを帯びていて傘のないキノコのような見た目だ。それが点々と生えていた。この白い棒はフィールドの境界付近にも数センチのものがちょこちょこあったが、奥に行くほど大きく長くなっていく特性があるようだ。この辺りでは五十センチくらいある。

「それは【モリノユメ(※1)】ってキノコだよ」

 不思議そうな顔で見ていた一衛に茶屋が教えてくれた。

「フィールドの動植物ってエリアによって全く種類が変わるんだけど、このモリノユメだけはフィールド全域に生えてるの。キノコはアイマンが詳しいよ、専門家だからね。」

 そう言って茶屋は振り返ったが、アイマンの姿はそこには無かった。

「あれ? アイマンは?」

「せんせー、アイマンくんが見当たりません」

 笹村が手を挙げて報告すると、先頭の渡辺が立ち止まって言った。

「先生っていうな」

「どこかで寝てるんだろ、放っておけ」珍しく口を開いた穂高が面倒臭そうに言う。

「そんなわけにいかないでしょ」米倉が目上の無責任発言を諭すように言う。

「ああぁ! 後ろの方で行き倒れてるぅー!」

 茶屋が指さす方を見ると、道の真ん中でアイマンが寝っ転がっているのが見えた。

「仕方がない。笹村、背負っていけ」

 隊長命令にぶつぶつ文句を言いながら笹村はアイマンを背負う。

「代わりましょうか?」

「いやいい。初フィールドワークなんだから体力温存しとけ。その代わり俺の盾は頼むわ」

「わかりました」一衛は笹村の盾を受け取った。


 不意にスズメバチのような攻撃的な羽音がして、三十センチほどの巨大なトンボらしき虫(※2)が一衛の透明な盾の上にとまった。

 クワガタのような大顎が獲物の虫を挟んでいる。それを見て一衛は眉をひそめながら訊く。

「注意した方がいい危険生物とかっていたりしますか?」

「この辺にはいないから心配するな」

 そう答えた米倉に一衛が目を向ける。米倉の奥を歩く穂高が視界に入った。

 大き目の段ボール箱を大事そうに抱えて歩く彼女は、ニヤニヤと薄気味悪い笑みをたたえている。

 正直言って不気味だ。

 彼女が何を考えているのか全くわからない。総括主任ということは、ここの研究員のなかで一番偉いのが彼女なのだろう。朝から見かけてはいたが、ずっとイラついている姿しか見ていない。

 今は一転して何かを企んでいるような邪悪な笑みだ。時折フヒヒと、気味の悪い笑い声を漏らしている。こちらには一度も話しかけてこないどころか、見た感じ、他人に全く興味がないように見える。

「そろそろ着くぞ。向こうに小さい商店街が見えるだろ、その辺りが合流地点だ」

 そう渡辺が示す方に、希望が丘商店街と表記された、半壊したアーチが見える。そして、その向こうには半分森に飲み込まれている廃墟化した商店街が続いていた。

 あの商店街に例のガイドがいるのか。

 一衛の頭の中でムキムキガイドが白い歯を見せて笑っている。


 一番後ろで歩みを進めていた一衛の背骨の中心を、ザワリとした不快感が突くように走った。

 強烈な視線を背後から向けられている。そう感じ、意を決して振り返った。

 後方五十メートル程、道の中央に馬程の大きさの一匹の狼が、こちらを向いて立っていた。

 茶色の体毛に、首上から背中にかけて銀色のタテガミ。そしてワインを開けるコークスクリューのように捻じれた一対の角が生えている。

 その巨大な狼は碧い瞳でこちらを見つめていた。


 いつの間に? 何の気配も……、音ひとつしていなかった。


 確かに見慣れない景色に注意が散漫になっていたかもしれないが、周囲の警戒を怠るほど気を抜いていたつもりはない。

 それはまるで突然空間から出現したかのようだった。


 全身が総毛立っている。

 一衛の細胞すべてが警鐘を鳴らして逃げようとしているのがわかる。

 これは戦っていい相手ではない。

 狼がゆっくりと前足をあげる。

 踏みとどまれ! 恐怖心を理性で押さえつける。

 狼は確実にこちらに向かって動き出している。

 守れ! 一衛、お前の存在理由はそれだけだ! 余計なことは考えるな! そう自分に命令して盾を持つ手に力が入る。

 狼が走り始める。

 自分ではない。

 狼が向かっている方向と視線の先は、自分ではない。

 動け。

 盾を向けろ。

 一衛は笹村の盾を捨てて、自分の盾を両手で持った。

 その姿勢のまま、狼と背を向けて歩いている茶屋との間に割り込んだ。


 ―――衝撃。


 車に撥ねられた経験はないが、おそらく今体感していることはそれに近いと感じた。それでも跳ね飛ばされないように両足で踏ん張る。

 が、盾が跳ね飛ばされた。

 よろけたところに、もう一度身体に衝撃が走る。

 尻もちをつく形で倒れた瞬間、視界いっぱいに赤い内臓のようなものが広がった。

 何? 口の中!?

 ガチリと音がして、一衛のフェイスシールドに狼が噛みついている。

 そのままフェイスシールドごと噛み千切られるのではと思ったが、狼はすぐに口を離した。

 その隙に一衛は体制を立て直そうと起き上がろうとしたが、それを許さないとばかりに狼は一衛の胸元を踏みつける。

 まったく身体が動かない。前足一本で完全に組み伏せられていた。


 ぽたぽたと一衛のフェイスシールドに落ちる狼の唾液が視界を部分的に歪ませる。

 殺される。

 切羽詰まった自分の呼吸音だけが聞こえ、一衛は死を覚悟した。

「タワシィ!」

 人生最後の雰囲気にそぐわない高い声と共に、茶屋が狼に抱きついてきたのが見える。

「え…? はっ?」

 狼の前足の力が緩み、一衛は身体を起こした。フェイスシールドを腕で拭うと、茶屋が狼の首元に抱きついているのが見えた。

「安心しろ。そいつは無害だ」

 米倉が特に何事も起きていないような顔で一衛に言った。

「無害って、食われかけましたよ」

「甘噛みだ。そいつが本気なら、フェイスガードを食い破ってお前はもう生きてはいない」

 狼はベロベロと茶屋を舐めている。まるで犬だ。

「なんなんですか、このバカでかい狼は」

 立ち上がり、土埃を払いながら一衛が言ったのに対して、茶屋が答えた。

「ミヤマツノオオカミ(※3)だよ。名前がないって言うからチャーヤが名前つけたの!」

「それが、……タワシ……」

「そう! 丸まって寝てる姿がね、タワシそっくりなのぉ!」

「そいつはガイドのペットだ」

 その渡辺の言葉に、一衛は今までの想像以上の化け物ガイドの姿を思い浮かべた。



「ペットじゃないよ。タワシは友達だよ」



 唐突に聞こえた若い女性の声。

 声のした方を見ると、二十歳、いや十代後半くらいに見える女の子が立っていた。


 いや、おかしい。訳が分からない。

 頭の中が整理できない。目を疑うという表現はよく聞くが、一衛は本当に自分の目を疑った。

 長い栗色の髪を緩めの三つ編みひとつにまとめたその女性は、Tシャツにダボッとしたパンツ、園芸用の藍色のエプロンにサンダル姿だった。


 そんなバカな……。


「元気そうだな、渡辺」

 彼女がそう言うと「はい。お陰様で。翼果よくかさんもお元気そうですね」と渡部が返した。

「誰、誰なんです!? い、いや、なんでこの人、スーツ無しで平気な顔してるんですか!」

 そう、彼女はスーツ無しで、しかもまるで庭いじりの主婦ような格好で、外界全ての生命体が生存不可能とされるフィールドX内で平然としていた。

「ああ、紹介しよう。彼女が黄泉森ガイドの藤崎翼果ふじさきよくかさんだ」

「ガイド……。え!? 女の子? は? ちょっ、ちょっと待ってくださ…ぐっ!」

 混乱する一衛を突き飛ばして、尻尾を激しく振りながらタワシが翼果の元に走っていく。

 タワシの首元を撫でながら、翼果は一衛を見た。

「渡辺……。また新人に何も伝えてないのか」

 呆れたような声で翼果は渡辺に言った。

「いやぁ、新人の驚く顔を見るのが楽しくて、ついですね」

 渡辺が照れたような笑みを浮かべた。


「彼女はこの世界で唯一のフィールドXの適合者だ。そしてYOMOTSUの存在が完全極秘である理由の全てであるといっても過言ではない」

 戸惑う一衛に米倉が彼女、藤崎翼果の事を説明した。

「世界で唯一人のフィールド適合者……」

「何度聞いても大袈裟だなぁ」

 そう言って翼果は、バツの悪そうな顔をして後頭部を掻いた。

「完全極秘であることに納得がいかないか?」

 一衛の心を見透かしたように渡辺が言った。

 無言のまま一衛は渡辺を見た。実際何と答えて良いのか分からなかった。

 渡辺が続ける。

「彼女の存在を世界に明るみにしたとして、それによって彼女にもしものことがあれば、人類は永遠に生き残る術を失うかもしれない。そう判断したこの国のお偉方は、彼女の存在を完全隠蔽し、我が国単独でのフィールドX調査を決めた。そんなことができたのも、この探索スーツを我が国単独で、それも極秘で開発することができたからだ。このスーツと翼果さんについての情報は、世界のどこにも知らせてはいない。もちろんフィールドを挟んで反対側にある国際調査団にも同様に何ひとつ情報を渡してはいない。……この話についてお前が、いや我々が、納得できるかどうかは重要ではない。何故なら」

「どの道、自分たちは一生ここから出ることは無いということですよね」

「物分かりが良くて助かるよ」

 色々と気になることが多過ぎるが、こんなところで長話をする訳もいかないのでこの場は一旦飲み込むことにした。


「フ……フフッ……フフフフ」


 不気味な笑い声が背後から聞こえてくる。

 タワシの時以上の寒気が、一衛の背筋に走った。

 禍々しい何かが後ろにいる。そしてその禍々しい気配はぬるりと、異常に滑らかな動きで移動し、皆の間をすり抜けていく。それは恐ろしい速度で両手を広げて翼果に飛び掛かった。

 その不気味な影を翼果が片手で止める。

「ヨッカちゃあああん!」

「直美、いたのか。何しに来た」

 襲いかからん勢いで抱きつきに来た穂高の顔面を、片手でギリギリと押さえながら、翼果が嫌そうな声で言った。

「決まってるじゃない! 会いに来たの、あ・い・にぃいい!」

「二週間前に会ったばかりだろ」

「足りないの! 私のヨッカ成分がもう枯渇しちゃったの!」

「なんだその成分は! わたしの検体なら三日前に送っただろ!」

「違うの! 生ヨッカのぬくもりが! ぬくもりが足りないの!」

「キモいキモいキモい! は・な・れ・ろぉおお!」

「お願い! ちょっとだけだから! もう限界なの! 限界過ぎて、周りに当たり散らしちゃっててるんだから!」

 そんなことでずっとイライラしていたのか、なんて迷惑な……。

「知るか! おい米倉! こいつをなんとかしろ!」

「イエスマム」

 軍人のような返事をして米倉は穂高を引きはがした。

「アーン」と穂高が悲しげな鳴き声をあげた。

「なんです、アレ」

「気にするな」

 一衛が穂高を見て言うと、食い気味に渡辺がそう返した。


「渡辺、今日はカワカミ商店跡ベースキャンプまでで、明日は陸サンゴの谷まで行くので変更無いか?」翼果が今日のルートを確認する。

「ええ。四日目の朝にはここに戻ってくる感じで……」

「待てぇえ!!」

 穂高の声が翼果と渡辺の会話に割り込んだ。

「なんだ直美、帰れと言っただろ」

「ふふっふ、私にそんな口をきいて良いのかな? ヨッカちゃん」

「何だよ」

「写真集ワールドグレートオーシャンパート5、風の楽園27巻、地下探偵ポール 極北の太陽篇、サバンナアンダーグラウンドの最新刊、冒険小説アラバスタの夜明け、その他もろもろ……」

「ぐっ……」

「読みたくないのかなァア?」

 穂高が米倉に羽交い絞めにされたまま、これ以上ない邪悪な笑みを浮かべる。

「さあ! ヨッカちゃん! 大人しく私にハグハグされるのよ!」

「笹村、直美の荷物はどれだ?」

「あ、はい。そこの段ボールかと」

「それ持って、うちに行くぞ」

「はっ! ず、ずるい!」

 笹村が穂高の段ボールを回収して、皆で翼果の家に移動していく。

「こらァ! 戻せえェ! 卑怯者ォ!」



「フラワーショップふじさき……。花屋?」

 店の前に出されている、立て看板に書かれた文字を一衛は読み上げた。

 看板に書かれている通り、この古い雑居ビルの一階は花屋になっていた。

 店の軒先までズラリと並べられた彩とりどりの花々は、どれも見たことが無いものだった。

 誰もいないゴーストタウンでこの店だけが稼働している。

 店といっても客などいるはずもないのに、どうしてこんなことをしているのか。いや、その前に彼女はここに住んでいるのか? このフィールドXの中に?

 一衛は不思議そうな顔で並べられた店先を眺めた。

 ずらりと並ぶ花々の他に、店の脇に黄色い果物がなっている赤い樹と、その樹に立て掛けられた古びた自転車が置いてあった。

 そうか、高エネルギーを使用できないフィールドXの中でも、燃料も電気も使わない自転車なら使えるのか、そう思って一衛は自転車の前でしゃがみこんだ。

 しかしその自転車にはチェーンが無かった。どうやらただの飾りのようだ。


「わあぁ! いつ見ても素敵!」

 茶屋が目をキラキラさせている。

「笹村、その段ボールは小上がりのところに置いてくれ」

「了解です。おいアイマン、もう起きろ」

「……ん、あ?」

「わたしはこれから準備してくる」そう言って翼果は店の奥に入っていく。

「翼果さん! 店の中見てもいい?」

 茶屋がそう言うと店の中から「ご自由にどーぞ」と翼果の声が返ってきた。

 子供のように「わーい」と言いながら店内に入る茶屋に、なんとなく一衛も続いて入る。

 店内には所狭しと、様々な植物が陳列されていた。

 入口上部についた窓から太陽光が差し込んでいるが、奥にまで光は届いていない。にもかかわらず、店内は暖かみのあるタングステン光に照らされていた。

 通電している? そう思って天井から吊るされた電球を覗き込む。

 しかしそれは電球ではなく、ガラス玉の中で発光する植物の実(※4)だった。

 ガラス玉には水が半分くらい入れられており、そこにオレンジ色に光る何かの実がプカプカと浮いていた。結構な明るさがあり一衛は眩しそうに目を細めた。

 天井には鉄骨や鉄棒が絡み合うように組み合わさっており、それらに青いツタ植物が巻き付いていた。斬新というか、自然味あふれる内装コンセプトなのだろうか。

 店の奥をみると小上がりになっていて、ローテーブルと座椅子が見える。その周囲には山積みの本がずらりと並んでいた。読書が彼女の趣味なのだろう。


「こ、これは!」

 しゃがみこんで店内の棚、最下段を覗き込んでいたアイマンが突然声をあげる。

「なになにー?」

 茶屋がアイマンの背中越しに覗き込んで、高い声をあげた。

「ええぇえ、なぁーにぃー!? このキノコ、きゃわわ!」

 茶碗くらいの小さな鉢に、白い百合の花を真上に向けた形の石づきが、青い網目のボール型の傘を支えている、そんな形状のキノコ(※5)が植えられていた。

「このキノコは……ヤジリギソウの花に擬態ぎたいしているのか? 生物寄生型のキノコ……なのか? そしてこの甘い香りは、そうか! 虫寄せしているのか。つまり他生物に依存している。胞子を広範囲にばら撒くため……いや、寄生性だとすると胞子をおびき寄せた生物につけるのか! しかしこれは今まで見たことが無いし、資料にも無かった新種じゃないか、生息地はどこなんだ?」

 めっちゃ喋ってる……。そんなアイマンを見て一衛は本当に学者だったんだと思った。


 奥からトントンと階段を降りる音が聞こえてくる。

 店内に戻ってきた翼果に食いつくようにアイマンが興奮した声をかける。

「翼果さん! このキノコ! これ! どこで! このキノコどこで見つけたんですか!」

「さすがアイマン、さっそく見つけたな。そいつはサザレ苔の群生地があったろ、その辺りに生えてるよ。」

「ええ!? あの辺何度も見てるのに!」

「今度探し方を教えるよ」

 そう言いながら翼果はトレッキングシューズを履くと、爪先をトントンと鳴らした。

 着替える前ほどラフな格好ではなかったが、裾が絞られた短めのパンツにTシャツと、かなりの軽装であることには変わらなかった。

 ベルトの両サイドにはポーチが付いている。右手側は普通の箱状のポーチだが、左手側には筒状の特殊な形状のポーチが付いていた。そして背中側に大きなナイフケースが横向きについている。

 それと右前腕部に付いている変わった器具が目を引いた。その真ん中に凹みがあるプレート型器具には弦が張られている。何に使うものなのだろう。

 そんな一衛の不思議そうな視線に翼果が気付く。

「これか? これは弓だよ」

「ああ、なるほど。ということはその筒みたいなのが矢筒なんですか」

「そうだよ。いい観察眼だな、新人くん」

 そう言いながら大き目のバックパックを背負い、立てかけてあった彼女の背丈よりも少し長い棒を手に取った。歩きながら彼女が杖をつくように棒を一度地面を当てると、コーンという金属音が軽く響いた。


「待たせたね」

 翼果の言葉に渡辺は全員を店の前に集める。

「よし、今回の黄泉森フィールドワークで、前もって伝えておくような特別な注意事項は無いが、いつも通り翼果さんの言う事だけは聞き逃さないようにしてくれ」

「何か質問はあるか? 無ければ……」

 誰も質問は無いようだったが、何故か翼果が手を上げる。

「早速出発と行きたいところを悪いが、一度に森に入る人数はわたしを含めて六人までって決めたよね」

 翼果が全員を見渡す。

「八人いるんだが」

 一衛以外の全員が直美を見る。


「嫌だぁああああ!!」

 穂高が米倉に引きずられていく。

「私だけ何で駄目なのぉおおおお!! もっとヨッカちゃんと一緒にいるのおおお!!」

「いい加減にしてください穂高主任」

 米倉が呆れながら電柱にしがみ付く穂高を引きはがそうと引っ張る。彼女は必死の抵抗を見せていた。

「直美、持ってきてくれた本は楽しく読ませてもらうよ。ありがとう。いつも感謝してるよ。」

 翼果の優しいトーンで発せられた言葉が、穂高のハートを撃ち抜いた。

「あ、ああああ……はぁああ……」

 何とも言えない恍惚の表情と共に穂高の握力が緩んでいく。

 その瞬間を逃さず、米倉が一気に電柱から引きはがして引きずってゆく。

「今のうちに出発しよう」振り返った翼果が真顔で言った。

「副長も毎回大変だな」笹村の呟きに、これは恒例行事なのか……、と一衛は思った。


 穂高と米倉が徐々に遠くなっていく。

 歩く我々の後ろから、タワシがついてきていた。

「タワシも一緒に来てくれるのぉー!?」

 茶屋がタワシをワシャワシャと撫でる。タワシは撫でられていることを気にする風でもなく前を向いたまま歩いている。そんなタワシを見ながら一衛は笹村に訊ねた。

「森には脅威になりそうな生き物って結構いるんですか?」

「うん? まあ、エリアによるけどフィールドワークで森に入ると、毎回一度は死にかけてるような気がすんなぁ。」

「毎回……。あの、隊長、なんかもっと強力な武器ってないんですか?」

「うーん、あることにはあるんだがな」

「生物の命を一方的に奪ってはならない」翼果が口を開いた。

「他生物の命を奪うときは対等に。自分も命の危機がなければ駄目なんだ、大型生物に関しては特にね。それが森のルールだからね」

 ルール? 環境保護的な話なのだろうけど、それをルール化しているのだろうか。しかし、タワシのような生物がうようよしているような森で環境に配慮する余裕なんか無いのではないか? 『ガイドの言う事は絶対だ』渡辺の言葉が頭をよぎり、一衛は疑問を飲み込んだ。

「了解です」

「まあ色々あって、今の装備がベストになっているからな」

 納得いかないことが表情に出ていたのだろうか、渡辺は付け加えるように一衛に言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る