第3話 魔女と魔法と呪いの言葉

 かっぽーん、と、軽快な桶の幻聴SEが聞こえてきそうだった。

 

 鶯谷駅北口から徒歩五分ほどの場所にある、黒い格子飾りが特徴的な三階建てのビルの入り口に、僕らは立っていた。

 大きな木の看板には、ぽってりした丸っこい筆文字で『いやしの泉 あざみの湯』と書いてある。

「ええと、ここは一体……」

「何って、見ればわかるだろう。銭湯だよ」

「ですよねー」

 別に取り立てて何かを期待していたというわけではないのだが——ないのだが、僕は真顔になって頷いた。

 

 買い物袋と千円札を渡されて「じゃ、一時間後に」と送り出されて。

 受付でバスタオルとフェイスタオルのセットを借りて。

 洗い場で頭と身体を洗って。

 湯船に浸かった。

 うあー、と、思わず声が出た。

 電気風呂と炭酸水と日替わりの生緑茶風呂を一巡して、露天に続くガラス戸を開いた時には、つい数時間前の絶望感が、何かの冗談のように感じられていた。

 

「あのひと、何者なんだろう……」

 

 そよそよと顔を撫でる外気の心地よさに目を細めながら、僕は今更の疑問を口にした。

 

 返却式のコインロッカーを開いて、あらためて袋の中を確認すると、白いロンTと、グレーのスラックスと、黒いジャケットが入っていた。

 流石にパンツはないかぁ、と思ったら、三枚組のトランクスと肌着と靴下まであった。本当になんなんだあのひと、オカンなのか。

 

 風呂から戻ると、金髪美女は食堂の窓際に座っていて、銀色のPCを開いて何やらカタカタやっていた。

「なんだ、髪くらい乾かしてきたまえよ」

 棒立ちになった僕に気がつくと、呆れたようにそう言った。

「あー、あの……あなたは」

「ミシェル」

「ミシェルさんは、入らなかったんですか?」

「入ったよ。銭湯にきて湯に浸からないというのはマナー違反だろう」

 綺麗なブロンドはすっきり乾いていて、顔色も普通だし、メイク——はしてるんだかしてないんだかよくわからないけれど、湯上がりでドキドキみたいな要素が一切ないんですがそれは。

 

 僕が戸惑っているうちに、テーブルに白い丼が運ばれてきた。

 湯気とともに鼻腔に滑り込んでくる鶏ガラの香り。

 透明なスープに沈む黄色い中太ちぢれ麺。

 具はネギとメンマとチャーシューだけのシンプル仕様だ。

 見ているだけで涎が出てくる。

 

 ごくり、と僕が喉を鳴らすと、

 くすり、とミシェルさんが笑った。

 

「どうぞ、めしあがれ」

 

 その瞬間、欠片ほど残っていた遠慮とか疑念とか矜持とか、そういったものは木っ端微塵に吹き飛んでしまった。

 

 ラーメン。

 ラーメンだ。

 ラーメンが目の前にある時、考えなくてはならないのはラーメンのことだ。

 他のことは全部あとでいい。

 無心で麺をかきこみ、スープまで一滴残らず飲み切った。

 

 丼を置き、ため息をつく。

 ああ、なんか幸せだなぁ、と思えて。

 我ながら現金だと笑ってしまった。

 

 自販機で缶コーヒーを買って戻ったミシェルさんに、僕は頭を下げた。

「ごちそうさまでした」

「はい、どういたしまして」

「あの」

「うん?」

「魔法って、このことですか?」

 服買ったり、風呂奢ったり、ラーメン奢ったり。

 その行為自体は全て金銭で賄えるもので、魔法と言えるようなマジカルな要素は何もない。

 ミシェルさんは缶コーヒーを一口飲んでから、ふんわりと微笑した。

 

「そう。お風呂に入って、温かいものを食べるという魔法だ。滝沢礼伸くん」

 

 

   ****

   

 

 遠くで防災無線の音がした。

 ゆうやけこやけのメロディとともに、早くおうちに帰りましょうという定型句が流れて消えていく。

 

「……僕、名乗りましたっけ」

 

「きみのお母様はいい趣味をしているね。『レオン』は私も好きな映画だ」

 ミシェルさんは種明かしをするように、彼女が探偵のような仕事をしていて、母の依頼で僕を探していたことを説明してくれた。

「ひどく心配しておられたよ。家賃を滞納してアパートに居られなくなって、携帯も繋がらないって」

「……馬鹿だなぁ、母さん」

 僕は思わず、そう口にしていた。

 

 パートの時給だって微々たるもので。

 新しい家族だっていい顔をしないだろう。

 

「僕のことなんか、放っておいてくれて構わないのに」

 

 言葉にした瞬間、胸に真っ黒な穴が開いて、生きるのに必要な熱みたいなものが、ドロドロと流れ出していく感触がした。

 それはきっと、ミシェルさんが言うところのガソリンで、自分は幸福になるべきだって、そういう気持ちや確信に相当するものなのだろう。

 

 母を責めたいわけじゃない。

 新しい家族を恨んでるわけじゃない。

 誰かに責任をとって欲しいわけでもない。

 

 人や社会に何かをして欲しいわけじゃないけれど、それだけじゃ前に進むことはできない。

 

「そうか、それがきみの呪いの正体か」

 

 ミシェルさんの声に顔を上げて、僕はそこで自分が俯いていたことを自覚した。


「礼伸くん、魔法の続きだ。思い出して。お風呂は気持ちよかったかい?」

 

 金髪の魔女は、歌うようにそう言った。

 南国の海。知らない色の瞳が、宝石のようにキラキラ輝いている。

 

「はい……」

「新しい服は嬉しかった?」

「はい」

「ラーメンは、美味しそうに食べていたね」

「…………」

「人に優しくしてもらって、自分もそうしたいって思ったかな?」

 

 頭に浮かぶのは、アイロンの当たった綺麗なハンカチだった。

 新しいのを買って、あの辺で待っていたら、いつか、お礼を言うことができるだろうか。


「……はい」

 

「それでいい。そういうものが、生きる力になる。あったかいお風呂や、綺麗な服や、美味しいご飯が欲しいって、そこからはじめたっていいんだ。小さなやりたいことを、ひとつひとつ見つけて、それをやれるようになるために、きみはきみ自身に、今よりもっと素晴らしいものを与えてやりたいと、そう願っていいんだよ」

 

 なんだ。

 なんなんだ、このひとは。

 金髪碧眼で顔が良くてスタイルも良くて、賢くてお金にも困っていなさそうで。

 漫画の世界から飛び出してきたみたいに、現実味がなくて。

 

 そんなひとがそんなことを言ったら、信じちゃうじゃん。

 ずるいだろ。

 

「ところで、ちょうど、我が事務所は助手を募集しているのだけれど、興味はあるかい?」

「……や、さすがに、そこまでお世話になるわけには」

「猫背」

 と言われて姿勢を正す。

「まぁ、これも縁というやつだ。私を助けてくれたまえ」

「困ってるんですか?」

「雇ったばかりの助手が昨日逃げてしまったんだ。なかなか人が居着かなくてね」

 えっなにそれこわい。

「ブラック企業……?」

 ミシェルさんは心外、という顔をする。

「ごくごくホワイトだとも。フレックス制、週休二日、交通費支給、給与は月額二十万、昇給あり、本読み放題、コーヒー飲み放題、風通しのいいアットホームな職場だぞ」

 すっごい地雷臭する!

「ちなみに、業務内容は……?」

「探偵業のようなもの、だ。失せ物探し専門のね」

「…………」

「あぁ、そういえば君は家無しだったな。なんならうちに住むかい?」

「よろしくお願いします!」

 正直条件的には微妙だなーと思ったけれど、住む場所が提供されるなら話は別だ。けして、金髪美女との同居に釣られたわけではない。

 では契約成立だ、とミシェルさんは微笑んだ。

「助かるよ。私も呪いにかかった口でね」

「呪い?」


 ミシェルさんは悪い魔女のように微笑んだ。

 

「受けた恩は別の誰かに渡しなさいって、そういう呪いさ」

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