第2話 晴れ時々、コーヒーの雨
その日、僕は無職だった。
東京都台東区。上野公園。
暑くも寒くもなかったから、季節は春か秋のどっちかだ。
スマホも料金未払いで止められて、百均で買った薄っぺらいパンツをもう一ヶ月くらい履いていた。
なんとなく進学した私大で真面目と不真面目の中間くらいの日々を送って、気がついたら留年して、奨学金は打ち切られ、中途退学。
モチベーションが上がらないまま就活にも惨敗し、ネカフェに泊まる金すら尽きて。
ベンチに座り込んだまま、ただぼんやりと、散歩中のコーギーの丸い食パンみたいな尻を眺めていた。
「実家……は、実家じゃないしなぁ」
母は離婚して再婚して新しい家族とよろしくやっていて、幼い頃暮らした借家は引き払って、もう知らない人の帰る家になっている。
新しい家は僕には馴染みのない場所で、一度留年の報告に行ったら、継父と血の繋がらない妹からゴミを見るような目を向けられた。
生きるのって、どうしてこんなに面倒臭いんだろう。
屋根のあるところで寝て起きて飯食って排泄して。
それを繰り返して何十年かしたら死ぬだけなのに。
現代社会は意識高い系に合わせてカスタマイズされたデスゲームで。
向上心とか、資格とか、将来への展望とか、そういうなんかキラキラしたものを持ち続けてないと、社会の中に居場所はない。
ただ快適に長生きするための活動にすぎないそれを、選ばれし勇者の剣みたいに振りかざして練り歩くのが当たり前、みたいな世の中の空気が、何者でもない自分にはひどく息苦しくて。
滅んじまえよ、人類なんか。
無駄に進化とか発展とかしやがって。
僕は僕の物語の主人公になんてなりたくなかったのに。
「あーーーーー! 明日宇宙人が侵攻してきて地球丸ごと爆散しねぇかなあああ!」
僕が叫ぶと、ランチ帰りと思しき小綺麗なサラリーマンがびくりと身をこわばらせるのが見えた。
「…………」
魔がさす、っていうのは、こういうことを言うんだろう。
——刑務所って……何やったら、どのくらい、入っていられるんだっけ?
昔見たニュースで、刑務所なら食うに困らないから万引き繰り返してる高齢者の話を思い出していた。
——あぁ、『誰でもよかった』って、こういう気持ちなんだな。
ベンチの座面から尻を浮かせ、一歩踏み出したその時——、
頭上から、茶色い雨が降ってきた。
「あっ、
****
「いやぁ、すまないね。あちらで日向ぼっこ中のコーギー氏の臀部があまりにも愛らしくて、前をよく見ていなかったんだ」
上野公園内にある某カフェチェーンの紙コップが、舗装された通路の上をころころと転がっていく。
前髪から滴り落ちる茶色い雫からは、焦がしキャラメルみたいなコーヒーのいい匂いがした。
僕はホットコーヒーを頭から被って、その場にしゃがみ込んで、金髪碧眼の美女にハンカチで頭を拭かれている。
わけがわからない。
ハンカチは通りすがりのサラリーマンがくれたものだ。
もう通り魔にでもなってしまおうと、加害の対象にしようとした僕に、大丈夫? と声をかけてくれた。
きちんとアイロンの当たった白いハンカチ。
それは豊かさとか、安定の象徴のように思えた。
奥さんとかいるんだろうか。
いいなぁ。
ちゃんと学校行って、就職して、結婚して。
あの人はそれが出来る人で、行きずりの他人に優しさを分け与える余裕を持っている。
いいなぁ。
ますます自分が惨めに感じられて、僕の目にじわりと水が滲んだ。
「あっ、こらきみ、泣くことはないだろう!
美女は慌てたようにそう言った。
じぇんとるまん、の発音があまりにも滑らかで、一瞬何言ってるんだかよく分からなかった。
「……っ、うっ、ぼく、一週間くらい、ろくに食べてなくて」
ほたほたと落ちる涙をコーヒーまみれのハンカチで拭う手つきが優しくて、僕はいつの間にか、見知らぬ美女に身の上話をはじめていた。
帰る家もないし。
就職も決まらないし。
借金だけはある。
ありふれた不幸だ。
自己責任と言われればそれまでの。
他責思考と笑われればそれまでの。
つまらない人生だ。
生まれてきたいなんて一度も望んだことはないのに、
息をするにも止めるにも、自分で責任を取らないといけない。
彼女はベンチに座り、小一時間ばかり僕の泣き言を黙って聞いてから、ふむ、とひとつ頷いた。
正直僕は、言葉なんか求めていなかった。
だって、甘えるなとか、そんなこと言ってても仕方がないとか、みんなそうなんだから頑張りなさいとか、そんな言葉をもらったところで、ここから立ち上がる力が湧いてくるわけじゃない。
しかし、美女の言葉は僕の予想とは異なるものだった。
「きみの一番の不幸はね、『自分を大切にできない』ということなんだと思うよ」
旅行代理店のポスターで見るような、南国の海と同じ色の瞳に、優しく細めた瞼の影が落ちていた。
「努力ってやつは、自分をより良い場所に持って行くための活動で、自分は幸福になるべきだって、そういう気持ちや確信がないまま、彼らと同じ速さで走ろうとするのは、そりゃ苦しかろうさ。ガソリンを入れずに、エンジンを回すようなものだもの」
告げられた言葉が、なくしたパズルのピースみたいに、コトンと嵌るのがわかった。
みんな、どうやって手に入れているのだろう。
愛とか、夢とか、希望というものを。
ゲーム序盤の宝箱みたいに、少し注意深く周りを見て生きていたら、全人類、誰でも漏れなくゲットできるようなものなんだろうか。
「まぁ、コーヒーをぶちまけてしまったお詫びだ。ちょっとばかしフェアリー・ゴッドマザーの真似事でもしてあげよう」
そう言って彼女は立ち上がり、僕に向かって手を差し伸べた。
まず向かった先はアメ横だった。
彼女は適当な衣料品店の前で足を止め、魔法の杖——ではなく金色のクレジットカードを使い、次々と洋服を買っては僕に持たせた。色が白か黒かグレーなのは何かこだわりがあるんだろうか。
御徒町まで辿り着くと、国道に出てタクシーを停め、僕の格好に顰めっ面を浮かべた運転手に行き先を告げる。
「
地名を聞いて、僕は固まった。
えっと、ちょっと、鶯谷って、そのあの、この辺じゃ有名なホテル街ではなかっただろうか……???
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